《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》   作:ケン3ヴァルデン

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祈りし者達

 

 

――焼ける匂い。血の味。脳が揺さぶられる音の洪水。

 耳の奥が軋み、皮膚の裏を雷が這う。世界は赤く染まり、そして白に塗り潰された。

 

 息を切らし、足をもつれさせながら、森の中を走っていた。

 追ってくる。あの黒い影が。理解できない音をまき散らしながら。

 口が開いている。けれど、叫び声は出ていない。喉が塞がれているようだ。

 

 「逃げなさい、リン……! いいから……っ、早く!」

 

 母の声。振り返った先には、崩れ落ちた父の上に覆いかぶさるように立つ母の姿。

 彼女の手は震えていたが、瞳は穏やかだった。

 口元が動いていた。あのとき、たしかに何かを祈っていた。だが、祈りは届かなかった。

 目の前で、母の胸に黒い刃が突き立てられるのを、ただ見ていた。

 

 その瞬間、脳が焼けるような痛みが走った。

 ――あの音。魔族の声。叫びか、命令か、笑い声か、誰にも分からない。

 ただ、不協和音の塊が耳から入り、後頭部を殴られたように意識が歪む。

 

 その時だった。無意識に手を伸ばした。

 頭の奥で、何かが反応した。

 

 ――雷鳴。

 

 空が裂け、世界が白で塗り潰された。

 音も、痛みも、焼け焦げる匂いも、すべてが光の彼方へと消え去った。

 

 

 目が覚めても、叫びはなかった。

 リン・イゼリア・ナヴェラは、いつもそうだった。どれだけかつての悪夢を見ても、声は出ない。

 

 冷たい風が頬を撫でる。

 夜明け前の森は静かで、焚き火の赤い残光だけが薄く瞬いていた。

 

 背筋を起こし、寝汗の冷たさに震えながら肩をすぼめる。

 薄闇の中、焚き火の周囲に小さな気配が集まりつつあるのに気づいた。

 

 ――またか。

 

 獣たちだった。

 狐。リス。小鳥。灰色の野兎。人語を解さぬはずの虫までが、焚き火を囲んでいた。

 沈黙のまま。警戒でも敵意でもない、ただそこに在るというだけの存在。

 

「燃え残った温もりにでも惹かれた?」

 

 リンは皮肉めいた声を出しながら、焚き火の灰を小枝でかき混ぜた。

 火が小さく弾け、橙色の光が獣たちの瞳を照らす。

 

「それとも、祈りを分けてほしいの? ……ごめんね。私じゃ無理なの」

 

 誰も答えない。そもそも、答えられるはずがない。

 でも本来、エルフならできるはずだった。風の声を聴き、葉の囁きを読み、獣と心を通わせることが。

 

 祈りとは、精霊の流れに溶けること。

 だが彼女には、それができなかった。

 

「ねえ。私が“祈れない”のって、やっぱり、怒ってるからなのかな。

 それとも、私がもう“誰も癒せない”から?」

 

 獣たちが目を逸らしたように感じた。

 小鳥が一羽、静かに飛び立つ。その動きが合図のように、他の獣たちも次々と闇の中へと消えていく。

 

 誰も彼女の声に応えず、ただ夜の森に還っていった。

 

「……祈っても、誰も戻らない。だから祈る必要もない。私の雷がすべて焼き払ってくれるなら、それでいいんだよね」

 

 雷は唯一、彼女に応えた“力”だった。

 あのとき、叫べなかった声の代わりに、空が叫んでくれた。

 

 それが復讐の始まりだった。

 そして、唯一の支えだった。

 

 だが、それはほんとうに“支え”だったのか? “救い”だったのか?

 答えは分からない。ただ、リンは怒りのために祈れないことだけはわかる。

 

 ……いや、正確には、“祈らせてもらえなかった”。それだけの力が、彼女の中にあることを、まだ彼女自身が知らなかった。

 

 

この大陸北部に位置する大森林は様々な種族達の間で「ヴィリュスの森」と呼ばれている。

エルフたちの間では、より畏怖を込めて「黒雷の森」とも囁かれるこの場所には、夜昼の境目も定かでない陰鬱な空が広がっている。厚い雷雲は天を覆い、太陽の祝福を拒むように稲光が森の上を走る。

いつしか誰かがこの土地こう呼んだ。

「ここは神の怒りが降りた地」と。

 

そしてヴィリュスの森には、今もなお立ち続ける巨木や遺跡がある。

それらは「神の柱」や「大いなる遺産」と呼ばれ、古の霊が眠る聖域として祀られている。

柱のいくつかは、かつてのエルフ達の祈りによって成長を制御された植物と建物の融合体であり、エルフの技術と自然の調和が遺された証でもあった。

そして今を生きるエルフたちはそこに近づくことを忌避する。

かつて祈りの中心だったその場所からは、いまや微かなノイズと雷鳴が絶えず響くからだ。

それを「森が苦しんでいる声」と解釈する者もいれば、「過去の罪に囚われた記憶」と見る者もいる。

 

 

 

 

この森に生きるのは、祈り手の民とも呼ばれるエルフ。

かつて栄えた彼らは今や森の奥深くにひっそりと、その身を潜めるように暮らしている。

 

 

エルフとは、世界に満ちる「流れ」――風、木々、水、命の気配――精霊と共鳴することができる種族である。

そしてその共鳴の手段こそが、「祈り」と呼ばれる行為であった。

 

エルフたちが祈るとき、それは神への信仰でも、願いの言葉でもない。彼らにとって祈りとは、何かを求める行為ではない。

 

木の芽吹きに手を添え、土の温度を感じ、獣の鼓動に触れる。命の言葉なき言葉を読み取る作業でもあり、生命との対話そのものであった。

それらを可能とする深い集中が共鳴の在り方であり、そうして育まれた命の連環が、森そのものを守る「調和」へと繋がっていく。

これが、かつてエルフたちが生きる上で最も大切にしていた術――祈りである。いわば自然と自我を“重ね合わせる”技術でもあった。

 

しかし今ではそれができる者は少ない。エルフたちは少しずつ「自分達は神意から見放された」と感じ始めていた。

 

そうやって祈りは、届かなくなった。

 

 

エルフの間にはもう一つ、重要な言葉がある。世界の流れが乱れたとき。芽吹かぬ木があり、腐った根があり、病に蝕まれた命が現れたとき。祈りの延長にありながらも、より直接的に命の流れに干渉する技術――

「浄化」だ。

それは言わば、命の音律を“正す”行為であり、傷んだ箇所を選び取り、正しい調和へと再接続する行為。

 

腐り落ちた葉を、ただ落とすのではない。

その葉がなぜ落ちたのかを祈りによって知り、枝を通じて木全体の流れを整える。病める獣の鼓動に乱れがあれば、そこに浄化を与え、安らぎを呼ぶ。

 

エルフに伝わる文献にはこう記されている。

「浄化は剣にあらず、火にあらず、雷にあらず。それは清らかな流れの始まりにすぎない。」

 

 

だが、現代のエルフの一部、特に祈りが薄れた若きエルフの中には、浄化の意味を“排除”と捉える者たちが多くなった。

調和を破る者を正すのではなく、“消す”べき対象と見るようになった。

汚れを癒すのではなく、“力”を浄化として振るうようになった。

 

そして――リン・イゼリア・ナヴェラも、その一人である。

彼女にとって浄化は、もはや調律ではない。

命との対話ではなく、雷と怒りの代弁。

「癒せなかった者」としての復讐の刃であり、焦燥であり。

「祈れなかった者」としての祈りの代替品でしかなかった。

 

少女は知らない。

皮肉なことに、少女ほど“深く祈りに適した器”を持つ者は他にいなかった。

その内に満ちすぎた“力”ゆえに、彼女は今なお祈ることができない。

 

 

少女は知らない――

森がいまも、静かに彼女の祈りを待ち続けていることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルフを追う彼らに、名前はない。

 

エルフも人も、彼らをただ魔族と呼ぶ。だがそれは便宜上の名前にすぎず、彼ら自身がどう自称するのかを知る者はいない。

 

彼らの言葉は音に似て非なるもの。

甲高い金属音、嘆くような低音、ねじれた重奏――それらが混ざり合い、言語というより“波”のように脳や耳に叩きつけられる。

そのためすべての種族にとって、魔族の言葉は“ノイズと苦痛”でしかない。

 

魔族は理由を語らず、問わず、現れては襲い、森を焼き払う。彼らの行動は一貫している――「祈る者を狙う」。

 

なぜ祈りを嫌うのか。

なぜエルフを執拗に狙うのか。

その理由は、誰にもわからない。魔族は語らないからだ。

 

ただ一つ確かなのは、“祈りを忘れたエルフ”にさえ、彼らの刃は容赦なく振り下ろされるということだ。

 

雷が轟き、森が泣く夜。

焚き火の温もりが消えるころ、黒い影が再び動き出す。

 

それが、リンを――そして森そのものを試す、次なる世界の始まりであった。

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