《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》   作:ケン3ヴァルデン

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風の予感

 

 

獣道を外れ、薄霧の立ち込める林を抜けた先に、それはあった。

粗く削られた石積みと、獣の骨を縫い合わせた門が唯一の目印。門ともいえない粗雑なものだが、それでもこの里の人々にとっては「外と内」を分ける大切な境界線だった。

 

ヴィリュスの森の一角、名もない集落。エルフの民の隠れ里の一つだ。

 

 リンは、足音を立てぬままその門をくぐった。だが彼女の存在を、里の者が気づかぬはずもなかった。

 

「……雷の落とし子が来た」

 

小屋の陰から、囁き声が流れる。集落に火を灯す女の手が止まり、薪を背負う少年の目が逸れた。彼女はそれに応えることなく、まっすぐ広場へと進んだ。

 

この集落の中心には、大きな石が祀られている。苔むしたその表面には、エルフの古い印が彫られていた。今はもう、その意味を正確に読める者は少ない。だが誰もが知っていた。

そこは“祈りの石”と呼ばれていた。

 

集落では、昼に一度、そこに祈りを捧げるのが習わしとされている。いまやそれは、神か精霊に向けた形式的なものにすぎなかった。それでもその習慣に、理由を問い直す者はいなかった。

 

 「リン」

 

 名を呼んだのは、老人だった。

森の知恵を知るという長老。年老いてもなお、風の動きを読む目は衰えていない。

 

「……最近は嵐の気配が濃い。できれば、祈りを共にしてくれぬか」

「私が祈っても、風は応えませんよ」

 

リンは穏やかに、だが明確に拒絶する。

その声に、老いた目が細められた。

 

「いや、違うな。風は応えておる……ただ、おぬしがそれに気づけぬだけだ」

「それは風じゃありません。雷です。私は、それにしか応えられない」

 

彼女の足元で、まるで彼女の怒気に晒されたかのように、小さな白い野草がしおれた。

それを見た長老は、ため息まじりに目を伏せた。

 

「……ならば、せめて静かに座っていてくれ。火を囲み、皆でいるのもまた、ひとつの祈りだ」

 

長老の言葉にリンは何も答えず、石の傍らに腰を下ろした。

 

 

祈りの石の近くに火が灯り、エルフたちが集い始めた。小さな子供が母の膝に座り、弓を手にした若者たちが矢羽を整える。

 

 誰もが火の中心を見つめ、やがて一人の女が口を開いた。それは、祈りの言葉だった。

 

 「森に生きる我らが、今宵も穢れに沈まぬよう……」

 「風よ、枝を揺らし、雷よ、遠くに在れ……」

 「水よ、静けさと命を保ち、土よ、我らの影を包み込め……」

 

 言葉は整っていた。だがそこには、命の音色はなかった。祈りの言葉は、もはや“形式”になっていた。かつて命との共鳴だったはずの祈りは、今では神への捧げ物のように変質していた。

 

この集落以外でも、古い祈りを扱える者がいるが言葉では語れなかった。祈ったところで返るのは音や言葉ではなく、喜怒哀楽に似た言葉にできない感情でしか戻らないのだった。

だからこそ彼らの存在は敬われながらも、理解されないまま隅に追いやられていた。

 

 リンもまた、理解されない側だった。

 雷の落とし子。

 祈りを忘れた者。

 雷と怒りに呑まれた者。

 祈ることを拒み、癒しをもたらさぬ破滅。

 

それが、今の彼女に対する集落だけでなくエルフ達の認識だった。

 

 

 焚き火の周囲がざわめいた。

 いつの間にか集落の子供たちがリンに近づき、好奇の目を向けていた。

 

「ねえ、あの人が“雷の落とし子”ってほんと?」

「一人で魔族を殺せるって聞いたよ。一息で三体も」

「でも、誰もいないところで、木がいきなり燃えたって……それも、あの人のせい?」

 

 好奇心の声が、火の粉のように舞った。

 リンは何も言わず、薪を一つ火にくべた。

 

 その瞬間、炎と違う色の小さな閃光が火花に混ざった。

 

 子供たちははっと息を飲み、そのまま後ずさった。リンと目が合った少年の一人が、足を滑らせて転び、子どもたちは一斉に走り去っていった。

 

 彼女は、ただ静かにそれを見送る。

 怒りでも、哀しみでもない。ただ、いつものことだ。

 

「……怖がらせるつもりはなかったのに」

 

 くすりと笑いつつも自嘲のように呟いた声は、火の音にかき消された。

 

 

朝が来た。

 

 深い森を包んでいた夜の帳が溶け、木々の隙間から乳白色の光が差し込んでくる。

 湿った苔と葉の匂いに混ざって、遠くから焚き火の煙がゆらゆらと上がっていた。

 

 集落はすでに目覚めていた。まだ陽が昇りきらぬうちから、木の上の小屋の戸が開き、軽やかな足音が吊り橋を渡っていく。

 

 「ほら、もっとしっかり結んで! 昨日みたいに外れたらまた羽が傷む!」

 「朝ごはんの支度はもう終わったの? 今日の分は粟粥と茸煮だよ!」

 「弓の弦、湿ってると滑るぞ、乾かしてから張れ!」

 

 樹上と地上のあちこちで声が飛び交い、細い笑い声が枝葉の間にこだました。焚き火の周りでは、女たちが大鍋を囲み、刻んだ木の実や茸を煮込んでいた。子供たちはその足元を駆け回り、まだ半分眠たげな顔で、焚き火に手をかざしている。

 

 やがて、狩りに出る若者たちが弓を背に集まりはじめると、朝の空気はさらに引き締まった。誰かが鹿の足跡を見つけたらしく、目を輝かせて報告していた。

 

 「風は西。今日はあっち側の尾根まで回ろうぜ」

 「オスならもう角が生えてる。皮も上等だぞ」

 「おい、あんまりはしゃぐなよ、昨日の祈り忘れたのか?」

 

 彼らの中で、祈りは「心得」や「作法」に近いものとなっていた。

 獣を狩る前に、石に手を当てる。狩りの後には骨と血に言葉をかける。

 意味は問わない。ただ“そうするものだ”と、代々教えられてきた。

 

 それでも――

 

 その全てから、リンの姿は外れていた。

 

 彼女は広場の端、石段の影に静かに座っていた。髪は夜露に濡れ、膝に乗せた手には剣でも矢でもない、小さな葉の一片が乗っている。

 

 それは彼女が朝一番に拾ったもの。

 周囲がざわめくなか、ただ一人だけ、森の沈黙をまとっているようだった。

 

 誰も、彼女に朝の挨拶をしなかった。

 誰も、声をかけなかった。

 それは排除ではない。ただ“境界”だった。

 

 雷の落とし子。

 そう呼ばれる少女に、誰も軽々しく近づくことはなかった。

 

 けれども、彼女はそれを責めもしなかった。

 ここではそれが“自然”であり、“礼儀”なのだと、理解していたから。

 

 焚き火の湯気の向こうで、子供たちが焼き粥を口にしながら笑っている。

 矢羽を整える狩人たちが、互いの肩を小突き合っている。

 

 それらすべての光景が、まるで別の世界のように、リンには見えた。

 

 ――でも、ここに“痛み”はない。

 ――この朝に、“怒り”はない。

 ――ならば、今はそれでいい。

 

 彼女はそっと立ち上がる。

 朝露に濡れた木の根を踏みしめて、まだ濃い影の中へと歩いていく。

 

 今日という一日が、穏やかであれと。

 雷が眠る森に、風の流れが戻ることを――

 

 祈ることは、しなかった。

 ただ、その願いを心の奥でひっそりと温めながら。 

 

 

 集落を去ろうを歩みを進めていた彼女の耳にある言葉が刺さった。

 

 「……魔族を見た?」

 

 彼女がその言葉を耳にしたのは、焚き火の残り香が漂う中、小さな少年が目を潤ませて、母の手を引いていた。

 

 “森で、何かを見た”

 “黒い影が立っていて、音が……頭の奥に響いて……”

 

 その場にいた大人たちは顔を見合わせ、小さく笑った。

 

 「……夢でも見たんだろう。子供はよく、そういうものを見たがるからな」

 「まったく、また魔族の絵本でも読んだのか?」

 「魔族が現れるなら、もっと空気が変わる。森がざわめく」

 

 確かに、この集落に魔族の足跡があったのは、八十年前のことだという。最も古い者は、幼子だった頃に“最後の襲撃”を見たという。

 その後は、奇妙な影も、森の火もなかった。

 

 ――けれど、完全に信じていない者たちもいた。

 

 少し後の集落の外れ、湿った岩棚に沿った物陰で、何人かの男たちが槍や弓を点検していた。大声は出さず、火も灯さず。だが、その目は真剣だった。

 

 「もしものためだ」

 「子供の話が、全部ウソとは限らない」

 「“雷の落とし子”も来ている……不吉な巡り合わせだ」

 

 

 集落の中央――祈りの石の広場では、夕暮れの光が赤く染まりながら消えつつあった。

 

 火を囲む人々の表情は穏やかで、まるで噂など一つも存在しないかのように談笑が交わされている。誰もが言葉を選び、表情を崩しすぎず、必要以上の憂いを表に出さない。

 

 あの子供の話は、もはや風の噂として消えかかっていた。

 代わりに、リンの姿だけが残った。

 

「……雷の落とし子が、まだいたのか」

「いや、前よりは落ち着いてるような……」

「雷が暴れなければいいがな」

「誰かを睨んだだけで、木が焦げたって話だぞ……」

 

 そんな囁きが、耳に入る。

 だがリンは、それに反応しなかった。既に慣れきっている。

 

 エルフたちは、リンを畏れていた。

 正確には――彼女の持つ“過剰な力”を恐れていた。

 

 彼女は、あらゆる意味で異質だった。

 狩人たちの中でも古参の者が感じるほど、“戦”の匂いを纏っていた。

 祈りを知るエルフが震えるほど、“森の流れ”は過剰に反応していた。

 

 それゆえに、彼女の歩いた後には雷が残り、静けさが消えると語られる。

 

 

 夜になると、静けさの中にわずかな張り詰めた空気が混じった。

 集落の高床式の小屋からは、幾つかの灯りがまだ残っていた。

 

 若い狩人たちは交代で見張りにつき、火種を絶やさないようにしていた。それを“警戒”とは言わない。ただ、“念のために”という前置きのもとに、誰もが少しだけ気を張っていた。

 

 子供の言葉――それがたとえ勘違いであっても、リンの存在がその信憑性を増幅させたのだった。

 

 彼女が来る場所には、“何か”が起きる。

 それをエルフたちは経験則として知っていた。

 

 だからこそ、誰も彼女に近づかない。

 話しかけもせず、指さしもせず、ただ視線だけを送る。

 

 それが、雷の娘に対する“礼儀”であり、“畏れ”だった。

 

 

 その夜、リンは“祈りの石”の傍で眠った。

 

 火は弱く、森は静かだった。

 それでも彼女は、しばし目を閉じることができた。

 

 この集落に、今すぐ襲い来る災いはない。

 だが、確かに何かが、森の奥で目を覚ましつつある。

 

 祈ることができれば――

 もし本当の祈りが、まだこの大地に残っているのなら――

 何かを変えることができるのだろうか。

 

 彼女は知らない。

 ただ、その問いだけが、夜の深淵でゆっくりと形を成していく。

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