《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》   作:ケン3ヴァルデン

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森の声、忘れじの門

 朝も昼も曖昧なこの森では、時間の流れがわかりにくい。

 

 高く重なり合った葉の層が微かな陽光を散らし、地表に届く光はいつも斑模様だった。

 大気は湿っており、どこか鉄のような匂いを含んでいる。そしてそのすべてを包むように――風が、ざわめきを運んでいた。

 

 森のざわめきは、言葉ではない。

 それは枝の軋み、葉の擦れ、草を踏む小さな蹄音、そして遠くに響く獣の息づかい。

 

 その日、風は緊張していた。

 どこか怯えたように、森の奥から吹き、外へ逃げるように走っていた。

 

 やがて、空を裂くような一撃が、音もなく森に落ちた。

 稲妻は一瞬、木々を白く染め、その中心にいた一頭の小鹿に直撃した。

 

 雷が去ったあと、周囲の空気は焼け焦げたように重くなった。

 しかし――

 

 小鹿は、ゆっくりと首を持ち上げ、何事もなかったかのように立ち上がった。

 毛は焦げもせず、目に迷いもない。ただ小さく耳を震わせ、再び木の陰へと駆けていった。

 

 まるで、雷が祝福のように通り過ぎただけだった。

 

 雷。それは、この森にとって“怒り”ではなく“循環”だった。

 

 雷は選ぶ。

 雷は拒まぬ者の頭上に降り注ぎ、命の流れに触れる。そして、それが正しい形であれば、傷つけることはない。

 

 

 

 一本の矢が、森を裂いた。

 

 音もなく放たれたそれは、木々の間をすり抜け、小さな鳥の喉元に突き刺さった。

 

 枝の上から滑るように降りてきたのは、若いエルフの狩人だった。顔に迷いはない。鳥の命が尽きる前にそっと羽を押さえ、目を閉じる。

 

「……感謝を」

 

 そう呟いて、祈りの石を模した小さな護符に手を当てた。

彼らにとって、狩りは神聖な営みだった。ただし、それはかつての“祈り”とは違う。

今の彼らは、狩りに形式的な“祈り”を添えるだけだった。

 

 

 少し離れた場所では、他の狩人たちが同様に獲物を仕留めていた。

 小さな獣が血を流し、弓にかかった兎が最後の痙攣を見せる。

 

 矢に貫かれた命は、雷のようには立ち上がらない。それは終わりであり、取り返しのつかない断絶だ。

 

 

「もう三頭。今日は充分だな」

「雷が騒いでいた割には、獲物が多かった」

「……あれは、誰かを試す音さ。俺たちには降ってこない」

 

 ある狩人は鼻で笑い、皆で帰路に就こうとした。獲物を結び、縄に括り、手慣れた様子で背負う。

そして誰も、彼らを見ていることに気づいていなかった。

 

 

 木々の影に、一筋の異物があった。

 

 人のようで人でなく、獣のようで獣でもない。ただ“影”だけがそこにあり、姿を持たぬままじっと息を潜めていた。

 

 黒。

 それは光を反射せず、森に溶けるような色だった。風の中に紛れ、木の皮に擬態し、音もなく視線だけを伸ばしている。

 

 その“それ”は、言葉を持たない。

 いや、言葉を発しても、この世界には届かない。

 

 

 ――カリ、カリリ……

 

 “それ”の足元で、地を踏む音が微かに鳴った。

 土の中に埋もれたものが、風に震えている。

 

 “それ”は、狩人たちを見ていた。

 弓を持ち、命を絶ち、形だけの祈りを捧げる者たちを。そしてその先に、未だ雷に選ばれぬ“異物”がいることを知っていた。

 

 黒い影は、ゆっくりと姿勢を変えた。

 音もなく、木の裏へと滑り込む。

 地面の下で、何かが共鳴するような低い振動が一瞬だけ走った。

 

 それは、目覚めの音だったのかもしれない。

 

 あるいは――再会の前触れか。

 

 雷はまだ遠く、空は静かだ。

 だが、森はもう一度、祈りと死を問われようとしていた。

 

 

 

 

 森を歩く。ただ、それだけの行為だった。

 

 だがリンの足取りは重くも、鈍くもなかった。湿った土を踏みしめ、苔の生えた倒木を越え、陽の届かぬ枝葉の下をくぐる。

 

 リンは魔族を探していた。

 

 子供の証言、狩人たちの緊張。どれも「根拠はない」として片付けられたが、リンの中にはわずかな感覚が残っていた。

 “あの夢”――脳を締めつけるような、ノイズまみれの叫びが耳の奥に残っていた。

 

 「……あれは、現実だったのか」

 

 独り言のように呟く。

 誰も答えない。風も止んでいる。

 

 だが――動物たちが、近くにいた。

 

 最初に現れたのは、赤褐色の小さな狐だった。次に、木の上から黒羽の鳥がこちらをじっと見つめていた。

気づけば、周囲には十数匹もの動物たちがいた。鹿、兎、テン、フクロウ。

 どれもエルフの間では「祈りに応じる者」とされる存在だった。

 

 「……私に何かを伝えたいのか?」

 

 問いかけてみても、返ってくるのは無言。

 だが狐が進み、立ち止まる。リンがついて行くと、また数歩進む。

 鳥が鳴き、木の枝を打つ。その音に誘われるように、足が次の小道を選ぶ。

 

 それはまるで、見えない地図の上を歩かされているようだった。

 

 

 歩くにつれ、空気が変わっていった。

 

 湿度が増し、光が褪せ、音が吸い込まれていく。それでも動物たちは前を向き、ためらいなく進んでいく。

 

 やがて、木々が開けた。

 

 視界の先、茂みに埋もれるようにして石の構造物が姿を現した。

 

 「……遺跡?こんなところにあったなんて話」

 

 言葉が、喉で震える。

 

 それは明らかに“誰かが造った”ものだった。

 自然の岩ではない。苔と蔦に覆われた階段があり、天に向かって伸びる石柱があり、何よりもその中心に、禍々しくも荘厳な“扉”があった。

 

 動物たちは、その手前で止まった。

 狐がリンを一瞥し、やがて音もなく森へと消えていった。他の獣たちも、それに続くように散っていく。

 

 「……導いた、というわけか」

 

 その意味を、リンは明確には理解できなかった。だが、自分がここに来るべきだったという“感触”だけは、確かにあった。

 

 扉の前に立つ。

 近づくと、浮き彫りのような紋様が刻まれていることがわかる。

 雷のような文様、風を巻く曲線、何かを封じるような円形。

 

 言語ではない。

 だが、どこか既視感があった。

 

 「祈り……のようにも見える」

 

 かつて誰かが、ここに何かを託したのだろうか。それは願いか、封印か、それともただの“名残”なのか。

 

 リンは手を伸ばす。

 

 だが、触れる寸前で雷が鳴った。

 空には雲ひとつなかった。

 

 それでも、空気が瞬時に張り詰めた。

 

 「……何かが、眠っている」

 

 扉は開かない。

 だが、その奥には何かがある。

 目には見えないが、“力”の残滓が確かに存在していた。

 

 それは魔族か、あるいはもっと別の何かなのか――リンには分からなかった。

 

 ただ、森の動物たちが導いた意味が、今はまだわからなかったとしても、ここが無関係な場所ではないと、確信できた。

 

 

 

 

 この森――ヴィリュスの森の中に、こうした遺跡あるとは誰も語っていない。

 少なくとも、祈りを失った今のエルフたちの間では、“夢語り”や“古の絵話”にしか出てこないような場所だった。

 

 それも、主に“禁忌”として。

 

 《神々を封じた門》

 《言葉なき守護者が眠る場所》

 《雷が下りし最初の地》

 

 言葉は異なれど、いずれも共通しているのは――“触れてはならぬ”という戒めだった。

 

 だが、少なくとも遺跡を映すリンの目にその封印は見えなかった。

 誰もここに祈ってはいない。誰も、何も、守ってなどいない。

あるのはただ、風化した残滓だけ。

 

 「……なら、見るしかない」

 

 そう言って、リンは扉に手をかけた。

 

 扉は開かなかった。音を立てず、びくりともせず、石の壁のように沈黙を保っていた。

 だがそのとき、リンの視界の端に“何か”が動いた。

 

 それは、ほんの一瞬だった。木立の隙間、朽ちかけた柱の影。濃い黒色の外套と、足元まで伸びた影が、ちらりと動いた。

 

 「……誰?」

 

 声を発して振り向いたが、そこには誰もいなかった。影もなく、風も吹いていなかった。

だが確かに、見えたのだ。それが人なのか、幻なのか、魔族なのか。

リンには分からなかった。

 

 ただ、その姿を見た瞬間に、胸の奥が妙にざわめいた。記憶の底に沈んでいた何かが、擦れた音を立てて目を覚ますような。

 

 「……あれは……」

 

 名は浮かばない。思い出せない。

 だが、なぜか“知っている”気がした。

 

 

 気づけば、扉の意匠が変化していた。

 

 雷のような彫りの一部と扉の間に、淡い光が走っていた。まるで、触れた誰かの気配に反応したかのように。静かに扉は呼応していた。

 

 「……あれ?」

 

 リンの口から漏れた疑問に答えはなかった。

 ただ、胸の中に一つの予感があった。

 そしてその予感は、リンの復讐や怒りの根底に関わるものかもしれない。

 

 

 ふと、足元で乾いた音がした。

 

 見下ろすと、扉の隣にあった雷紋の刻まれた石板が崩れ、そこから小さな“石の仮面”が転がり落ちていた。仮面には目の穴がなく、ただ口元だけがわずかに開いていた。開口部から、黒い灰がこぼれていた。

 

 それはまるで、“語られぬ声”の象徴だった。

 

 リンはそれを拾い上げ、無言で睨みつけた。

 

 仮面の奥で、ノイズのような響きが微かに鳴った気がした。

 

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