《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
扉が、音もなく開いた。
その様は、風化した石が勝手に崩れたようでもあり、長い眠りからゆっくりと覚めた獣がまぶたを持ち上げるようでもあった。
リンは身構えた。雷の気配はなかったが、明らかに空気が変わった。扉の向こうからは冷たい風が流れ出していた。
森の湿った匂いとは違う、乾いた何かと土の混じった匂い。それはかすかに腐臭すら含んでいた。
「……中は、生きていない」
誰に言うでもなく呟き、リンは一歩を踏み入れた。
*
内部は、まるで崩れた神殿のようだった。
天井は高く、だがその多くが崩落していた。
中央の回廊を囲むように立っていたはずの柱のほとんどは、途中で折れて横倒しになり、苔に覆われていた。
床は不規則に盛り上がり、どこかが沈んでいた。壁や落ちている石板にはびっしりと文様が刻まれていたが、時の流れに摩耗し、今ではほとんどが判読不能だった。
そして、最も異様だったのは――
内部のどこにも“死体”がないことだった。
戦闘の痕跡はある。割れた壁、焼け焦げた痕、突き刺さったままの武器のような物体。
だが、そこに“誰かがいた”という決定的な形跡が欠けていた。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
「祈りの、痕跡?」
リンの視線の先に、ひとつの祭壇があった。
歪にひしゃげた祭壇はよくわからないものでできていたが、上面には古代文字に似た意匠が残っていた。
それは、今でもエルフの間で描かれる“祈りの印”によく似ていた。違いは、その中心にあった“断絶の線”――雷光のような裂け目だった。
祈りの象徴に、雷が刻まれている。
「……ここで、何かが起きた」
そう確信したとき、リンは奥へと進んだ。
*
回廊の果てには、円形の広間があった。
天井は完全に抜け落ち、雨水が長年染み込み、そこかしこに池のような跡を作っていた。
広間にはいくつもの台座――いや、“棺”のような形をした構造体があり、その上には扉の前で見つけた石の仮面に似た灰まみれの仮面がひとつ、ぽつんと置かれていた。
仮面には、顔がなかった。
目も、鼻も、口も刻まれておらず、ただ滑らかな石の仮面に、リンは近づく。
仮面を手にした瞬間――
カチ……
どこかで、音がした。
風の音ではない。
何かが、この遺跡の奥で動いた。
遺跡全体が微かに震えたのだ。
雷は鳴らなかった。
だがリンは、肌の奥で――脳の裏側で、ノイズを聞いた。
「ッ……あの音……!」
耳鳴りではない。言葉にもなっていない。
けれど、それはかつて“あの夜”に聞いた叫びに似ていた。
放電音のように歪んだ“声”が、どこからともなく響いた。近くか、遠くか、しかし確かに、“何か”が目覚めかけていた。
リンは、咄嗟に仮面を放り投げ後ずさる。
奥から何かが動く気配があった。目に見えぬ何かが、彼女を見ていた。
「ここは“墓”じゃない、“牢”だ!」
気づいたときには、仮面の下で石が鳴り、棺がわずかに開いていた。
だが中には何もなかった。
中空だった。
封じられたものは、既にいない。
もしくは、動き出したばかり。
*
「……」
遺跡の入り口。リンが声を発して振り向いた木立の隙間、朽ちかけた柱の影。風もなく、影もないその場所に、黒衣の放浪者が立っていた。
目を細め、かすかにつぶやいた。
「ようやく、彼女がこの地に辿り着いたか」
*
棺が、砕けた。
石の奥からあふれたのは、煙でも、光でもない。それは“黒い何か”だった。形を成さず、影のように漂い、濡れた空気に染み出すように這い出してきた。
それらはみな、石の仮面を顔にした人を模した形を作り出す。
が、どこかが違う。
腕が三本ある者、頭が割れている者、背が異様に長い者、骨が外に突き出ている者――
そして、どれもが“声にならぬ叫び”をあげている。
リンは咄嗟に後退した。空気が震えた。雷ではない、咽び泣くような圧だ。リンの鼓膜は震えていない。けれど、脳が焼けるように痛む。
「っ……こいつら……!」
――魔族。
その数、ざっと十五。さらに後続がある。
一体でも村を脅かす化け物が、これだけ群れている。リンの言葉に魔族はただ咆哮し、地を割って迫る。
瞬間――
雷鳴が、落ちた。
遺跡の封印は、とうに破られていた。
そもそもここは牢ではなかったのだ。
起こす者を待っていたのだ。
*
空はない。地下だ。だが関係なかった。
彼女の魔法は「雷を落とす」のではない。「雷を生む」のだ。
放たれた閃光が一本、魔族の頭部を直撃し、泡立つように弾け飛び、蒸発させる。
続いて二体目が、片腕を棍棒に見立てたもので襲いかかるが、リンは左腕に雷の鞘を纏わせて防ぐ。そしてその雷の鞘は棍棒を伝い魔族を焦がす。
「もっと来い……!」
リンの足元がきしむ。
雷をその身に纏い、空気ごと震わせながら、リンは突っ込んだ。
右手に雷刃、左手に紫電をたぎらせて。
脚部には高周波のような稲妻の膜を張り、踏み込みの速度を倍加させている。
一体、二体、三体――
雷が跳ね、爆ぜ、怒りがすべてを包み込んでゆく。リンの叫びに呼応しながら、紫電の一撃は魔族の胴体を抉る。
「ッ……この森が……! 父も母も……ッ!」
しかし敵の気配は減らない。むしろ増えている。呼び合うのか? 雷に反応して集うのか?
だが、リンにはそれを分析する余地などなかった。
ただ、殺す。それだけだった。
倒したはずの個体と似たものが、次々と現れる。それらはまるで「壊れて生まれ変わった影」のようだった。言葉はない。意思もない。
ただ、“目の前の存在を殺すためだけに動いている”。
終わりが見えない戦いの中で、リンの怒りと力だけが先鋭化していく。 雷が全身を包み、髪は逆立ち、目が蒼白に光る。
「もっとだ……もっと……!」
そこへ上方からの奇襲。
リンは腕を交差し、雷の盾を展開――爆ぜた光が天井を抉り、落石が魔族を押し潰す。
次の瞬間、背後から迫る気配。
振り返りざま、雷を握った拳で叩き伏せる。
「さっさと…ッ浄化されろ!」
その姿は、まさに嵐。
エルフが恐れ、畏れ、避けてきた「雷の落とし子」。それはもはや魔法というより、彼女自身が雷そのものとなっていた。
*
雷が炸裂し、黒き魔族が焼き落ちる。
焦げ付いた残骸。雷の余韻が空間を震わせるたび、心の奥にわずかな熱が灯る。
――気持ちが、いい。
その感覚は、あまりに鮮明だった。
両親の命を奪った“あれ”と同じ姿をした魔族を滅するたびに、リンの心には、陶酔にも似た甘い痺れが生まれていく。
手応えのある怒り。
正当化された破壊。
生きている実感すら、その雷にあった。
だが、ふと、己の瞳に映ったものに――彼女は戦慄する。
紫電の閃光の中で、リンは笑っていた。
焼き焦がされた魔族の群れ。
裂けた肉体、割れた骨、呻くように崩れる異形。その最中で、彼女の顔が――笑っていたのだ。
「……違う……」
思わず後ずさる。
魔族のうめきがまだ耳に残っている。だがそれは、ただのノイズだったはずだ。
理解不能な言葉。言語ではない“叫び”。
なのに、それが今のリンには――
「懇願に、聞こえた……?」
焼かれる直前の魔族の声が、なぜか自分と同じものに思えた。
怒り。悲しみ。恐怖。
それらすべてが、反響のように己に返ってくる。
「私が……同じ……?」
その瞬間、胸の奥に吐き気のような嫌悪が生まれる。
怒りに任せて殺し続けていたのは、仇を討つためではなかった。
“力を使う自分”に酔っていたのだ。
「こんなの……復讐じゃない……!」
雷が暴れ、制御が乱れた。
怒りではなく恐怖が指先を支配した。
――逃げなければ。
敵からではない。
“この感覚”から、逃げなければならない。
このままでは、自分が壊れる。
祈りも、言葉も、感情すらも失った「魔族」と――何も変わらなくなる。
「ッ……!」
地を蹴る。
遺跡のどこかへ、瘴気漂う石の廊下を、照らす灯もなく駆け抜ける。魔族たちの気配が背後で吠えたが、それすらも遠くなる。
雷を纏ったまま、リンは“自分自身”から逃げた。