《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
瓦礫を踏みしめ、リンは闇の中を走った。
雷は纏っている。魔族は背後にいる。
殺すための力もある。
――なのに、彼女は逃げていた。
――この身で、初めてのことだった。
増え続ける魔族たち。倒しても、斃しても、影のように湧き出してくる異形の群れ。
いくら雷を放っても、その先に終わりは見えなかった。このままでは、いつか自分が「何か」に飲まれてしまう。
「死ぬわけには、いかない……!」
リンは遺跡のどこかへと走った。
足元の床はひび割れ、天井はところどころ崩落している。それでも、どこかへ続く通路は奇妙なほど整っていた。
まるで“誰かが通るのを、待っていた”かのように。
*
そしてついに少女は辿り着いた。
そこは、墓場にも、聖域にも見えた。
ひときわ広く、天井の高い部屋。光源はなく、しかし淡く紅い反射が壁に揺れていた。
無数の透明な筒が立ち並ぶ、楕円形の広い部屋。割れたもの、空になったもの、液体だけが残るもの――
そのすべてに共通していたのは、“人型の空白”だった。
「……これ、は……」
リンは息を呑んだ。
どの筒も、人を模した何かが中にいたはずだった。どこかが不自然だった。完璧すぎる均整、無機質な配置。
そして――その数、百を超えていた。
「ここで……“私たち”を?」
ただ胸の奥に、何かがうずき、よくわからない言葉が、口から何かが漏れた。
揺れるリンの瞳に、紅い光が走る。目を向けるとそこには周囲とはまったく違う雰囲気を纏ったひとつの台座。
そこだけ崩れもなく、紅い光を放っていた。
灯火ではない。炎でもない。
それは……意志のようなものだった。
紅い光が、リンに呼びかけてくる。
言葉ではない。
だが、間違いなく「君を待っていた」と、そう語っていた。
震える足取りで、導かれるように中央の台座に近づく。
燃えるようでもなく、怒りのようでもない。
それは“呼吸するような光”だった。
リンの胸の奥がざわめいた。
そして気づいた。光が、自分に応えている。
「……呼んでる……?」
台座の前に立ったとき、まるで導かれるように右手が伸びた。
触れると、光が脈動し――そのまま、彼女の掌に吸い込まれた。
*
その瞬間、全身が雷に貫かれるような衝撃が走る――
「ッ……あ、ああ……!」
しかしそれは痛みではなかった。
むしろ、安堵に似ていた。
ただ、全身に満ちていく。
雷が、まるで整えられていく。
暴れていた力が、怒りが、鎮まり、染まり
封じられていた何かが、今、動き始める。
もともと彼女の中にあったはずの“力”――
それが少しだけ解かれていく感覚。
リンの中の何かが、紅い光とともに覚醒した。
指先から、電流が滲み出す。
違う。
色が、紅だった。
「……雷が、赤い……」
自身の手を見つめたリンは、初めて、
雷が「怒り」ではなく「意志」であることに気づいた。
この雷は、ただ破壊するものではない。
“導かれた力”なのだ。
台座に刻まれていた文様が、かすかに発光している。
リンには読めなかったが、まるで“浄化の印”のようだった。
そう、これは。
「……“浄化”の、別の形……?」
その瞬間――背後の通路から、異形の気配が一斉に押し寄せた。
魔族たちが、群れてやってくる。
十五、二十、三十……もう数え切れない。
だが、リンの足は震えなかった。
「……来なさい。今度は、逃げない」
怒りではなく、意志を灯した目で。
リンはその場に立ち、掌を掲げた。
紅雷がうねり、形を成す。
今やその電流は、彼女の全身に絡みつく衣のようだった。
祈るように目を閉じる。
誰にではない――自分に、だ。
「私が、私を制御する」
そして――
雷鳴が、紅く吠えた。
*
辺りを満たしていた叫びも、呻きも、消えていた。
魔族の群れは――すべて沈黙していた。
瓦礫の上、倒れ伏した無数の異形の骸。
どれもが無惨に焼かれ、あるものは骨格がねじれ、あるものは崩れた内骨格から赤黒い液を垂れ流していた。
異形の群れを、ただの“死骸”に変えたのは、一つの紅い雷だった。
リンはその中心に立っていた。
息を乱してはいない。
血に濡れてもいない。
痛みもなく、痺れもない。
代わりに、彼女の瞳には――静寂が宿っていた。
「終わった……の?」
小さく囁いた声が、染み入るように響く。
周囲には、もはや誰も立っていない。
生きている気配は、彼女一人だけだった。
ふと、足元に一体の魔族が横たわっていた。
真っ黒な外殻が、紅い雷に焼かれてひび割れている。
それでもなお、死の間際に何かを訴えようとするように、口の裂け目が震えていた――
「…………」
だが、声はもう届かない。
どのみち、リンにはその言語は理解できなかった。
それでも、不思議と彼女は今――同情していなかった。
かつてなら怒りに満ちていた。憎しみで体が燃えていた。
けれど今は違う。
すべての雷が「感情」ではなく、意志で放たれた。
祈るように。導くように。
敵を滅ぼすのではなく、終わらせるために使われた。
「こんな……澄んだ力が、私に?」
思わず、手を見る。
そこに浮かぶ紅の残光は、まだ静かに灯っていた。
怒りでもなく、破壊でもなく――
ただ、澄んでいた。
すべてを見透かすような、透明な雷だった。
「……怖い」
震える声で、リンは呟いた。
感情に任せていた時の方が、まだ楽だった。
怒っていればよかった。
叫んでいれば、それだけでよかった。
でも今は――
自分が“何をしてしまったのか”を理解してしまう。
雷は、見逃さなかった。
雷は、全てを照らしてしまう。
「……これが、祈り……?」
その言葉に、かすかな足音が重なった。
*
気配を感じた瞬間、リンは反射的に身構えた。
――が、そこにいたのは魔族ではなかった。
「お前は……」
奥の崩れかけた柱の陰から、黒が現れた。
濃い黒色の外套。
顔の見えないほど深く被ったフード。
そして、人間には見えぬ“何か”を背負っているような重圧。
放浪者。
どこにも属さぬ者。
視界の端に映る者。
「…ここに呼ばれたのか?」
男は、そう言って近づいてくる。
足取りは静かだが、迷いはない。
リンは紅雷を揺らしながら睨んだ。
「……何者?」
「そう問うのは、今ではない」
放浪者はそう言うと、倒れた魔族たちに目を向けた。
「よく抑えたものだ。お前のその力は、もはや“災い”にもなり得る」
「……抑えてなんかいない。ただ使っただけ」
「それが“抑えた”ということだ。感情ではなく、意志で。祈りのように」
リンの表情が揺れる。
その言葉は、自分が言いかけていたものとまったく同じだった。
「……祈り、なんて……私は知らない」
「知らないなら、それはそれでいい。だが、お前の雷は……」
放浪者は一歩、彼女の近くへと歩み寄った。
焼け焦げた床に跪き、手で崩れかけた魔族に触れる。
「……それは、お前だけの色だ」
放浪者は、穏やかにそう言った。
リンの掌に残る、紅の残光。
雷は既に沈静しているのに、その光は脳裏を走っている。
「これ……何なの」
紅い雷。
力を誇るための色ではない。
激情によって生まれた炎ではない。
それは、静かな拒絶の果てに芽吹いた、祈りのようなものだった。
放浪者は、ゆっくりと言葉を綴る。
「昔……祈ることを拒んだ少女がいた」
「……?」
「彼女は、“誰のためにも祈らない”と誓った。誰かのために傷を癒し、花を咲かせ、命を支えることを……罪だと感じた」
「……それは……なぜ」
「なぜか。――おそらく、それが彼女の『復讐』だったからだ」
放浪者は、先程まで紅雷が灯った台座に手を置き、目を細める。
「けれど、皮肉なことに。祈りを拒んだその少女ほど、“網の向こう側”、いや精霊と強く繋がった者はいなかった」
リンは無意識に息を呑む。
「……網?」
「命の流れを、彼らはそう呼んだ。 森の奥、土の下、水の中、空気に溶ける音――すべてを結ぶ“網”だ」
「それが、精霊……?」
「うむ。だが、網の声は言葉ではない。祈る者は応え、繋がる。その少女は……祈りを拒んだことで、逆に“すべてを正しく見通してしまった”」
放浪者の言葉に、リンの胸が鈍く軋んだ。あの全てを照らすようなあの感覚。
「……見える、の?」
「その雷を通せば、見える。流れだけでなく、心も。思考も。歪みも。そしてそれは、時として“見たくなかったもの”すらも含む」
リンの脳裏に、魔族の断末魔が蘇った。
意味もない叫び。
だが確かに、あれは悲しみに聞こえた。
「……嫌だ、それは……」
「だからその力は、お前に託された。
他の者には、耐えられぬだろう。痛みすら祈りに変えるほどの、頑なな魂にしか扱えない」
リンは口を閉じた。
雷はもう燃えていないのに、体の芯がじんわりと熱を帯びていた。
「……その少女は、どうなったの」
「さあな。もういないよ。
だが、残った。……想いのように。あるいは“誓い”のように」
放浪者は最後にそう言って、背を向ける。
「お前は、彼女の末裔ではない。
けれど、あの時祈れなかった者の願いを、今、お前が背負った。
それが“紅雷”というものだ」
紅い光が、リンの掌に再びふわりと現れる。
怒りでも、憎しみでもなく。
ただ、優しくそこにあった。
そしてリンの胸の奥では、何かが始まりかけていた。
「……祈り、って……なんなの」
不意に、ぽつりと声が漏れた。
放浪者は、答えず。
代わりに、石柱のそばに立ち、ゆっくりと振り返る。
「それを、語ることはできない」
低く、静かな声。
「“祈る”とは、“自分以外の命と向き合う”ということかもしれん。
“浄化”とは、“その命に干渉する責任”を背負うことかもしれん」
言葉は重く、この墓場によく響いた。
「癒すも、育むも、壊すも、すべては“関わること”だ。
……だが、お前がしてきた“浄化”は、それとは真逆の刃だった。どうしてそうなったのか、それを探すのは――お前自身だ」
「……私は」
「それでいい。分からぬままで、歩けばいい。お前が何を見て、何を選ぶか――それが、雷の行き先を決める」
放浪者は、ゆっくりと背を向けた。
「……問いを、抱け。
その問いが、やがてお前の“祈り”となる」
そう言い残し、彼は崩れた柱の隙間へと姿を消した。まるで、最初から存在などなかったかのように。
残されたのは、沈黙と――一つの問い。
「……祈りとは、何?」
リンは紅い雷に触れる。
その冷たさが、応えてくれる気がして。
浄化。
祈り。
命。
復讐。
今まで彼女を突き動かしてきたものが、少しずつ“名前”を変え始めていた。
*
リンが遺跡を出たとき、森にはまた雷が降り注いでいた。
けれど、その音は前よりも、遠く――優しかった。
「……考えてみよう。少しだけ」
リンは空を見上げる。
紅い残光は、未だ彼女の中に残っていた。
問いを胸に抱いて。
遺跡の扉は、静かに閉ざされた。