《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》   作:ケン3ヴァルデン

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森は語る、雷はその声を聞く者のために響く。

 遺跡の門をくぐった瞬間、空気が変わっていた。

 

 リンは静かに立ち止まり、顔を上げる。

 そこには――変わらぬはずの雷雲があった。

 

 しかし、それはもう“ただの空模様”ではなかった。

 

 「……喋ってる?」

 

 思わず漏れた言葉に、自分で戸惑う。

 雷が言葉を持つはずがない。

 なのに今、頭の内側に響く“感覚”があった。

 

 ――これは怒り。

 ――これは嘆き。

 ――これは、かつての“残響”。

 

 耳ではなく、胸に届く何かがある。稲光が枝を裂き、大気を穿つとき、まるでそれが問いかけのように感じられた。

 

 (私は……一体何を、見たんだ?)

 

 手のひらには、もう紅雷の光はない。

 だが、その余韻は、皮膚の下に、瞳の裏に、確かに残っていた。

 

 

 森を歩くたび、世界が別物に見える。

 

 風が枝葉を揺らす音に、何かの意志を感じる。動物たちの足音に、呼吸のリズムが重なる。苔に覆われた岩肌の奥から、遠い記憶のような囁きが響いてくる。

 

 以前なら、リンにとってこの森はただの“戦場”だった。敵を探す場所。追跡する場所。

 だが今、この森が――何かを訴えているように感じられた。

 

 「……私に、話しかけてるの?」

 

 口にしてみる。

 応える声は、ない。

 だが、頭上で小さく雷が鳴いた。

 

 言葉ではない。

 だが、伝わる。

 

 (聞こえる……ような気がする。いや、感じている)

 

 それが“祈り”なのかどうか、リンには分からない。だがかつて、すべてを拒絶し、無視してきた命のざわめきが――今、彼女の中に確かな音を与えていた。

 

 

 やがて、リンは集落に戻っていた。

 

 木々に溶けるように張られた幕。

 煙と土の匂い。

 槍の先が反射する陽の光。

 

 朝見たはずの景色が、今はどこか遠い。

 

 リンは、集落の入り口で足を止めた。

 遠くで、子供たちの笑い声がする。

 大人たちが穀物を干し、弓を手入れする姿がある。

 

 「……戻った。でも、戻っただけじゃ……何も変わらない」

 

 雷雲は、集落の上にも漂っている。

 だが、彼女には分かる。

 

 その雷は、怒っていない。

 

 むしろ――静かに見守っているようだった。

 

 

 放浪者の問いが、胸を刺す。

 

 祈りとは何か。

 浄化とは、何を正すことなのか。

 

 リンはまだ答えを持っていない。

 けれど、もうそれを振り払うことはしなかった。

 

 森の声に耳を澄ますこと。

 雷に問いを返すこと。

 

 それが、今の自分にできる“唯一の祈り”なのかもしれないと、思えた。

 

 「少しだけ聞いてみよう。お前たちの声を」

 

 そう呟いて、リンは集落の門をくぐる。

 雷鳴は遠く、風は穏やかに葉を揺らし、鳥の囀りが微かな音の編を織る。

 けれど、その穏やかさの中に、何かが――小さく、ひび割れていた。

 

 「……またか」

 

 集落中央の畑に、人が集まっていた。

 手に鋤や鎌を携えた男たち、背負い籠を持った女たち、そして村の一人である老エルフが、しわがれた声で語っていた。

 

 「もう三列目の苗は駄目だ。根が腐ってる。昨日より葉も落ちてる……もう浄化しかない」

 

 誰かが、短く吐息を漏らす。

 

 「やっぱり森が怒ってるんだ。この間、祈りの式を簡略化したからじゃ……」

 「それか……子どもたちが魔族を見たという噂も」

 

 話は逸れながらも、空気はどこか不安に満ちていた。言葉にはならぬが、「何か」がずれている――そんな共通の認識が、集落を覆っていた。

 

 その輪の外から、一人の少女が歩み寄る。

 誰かが彼女に気づき、小さく身を引く。

 “雷の落とし子”。その異名は、信仰にも似た畏れと、忌避をもって語られている。

 

 しかしリンは、誰の顔も見ずに、畑に向かっていた。足元の土、腐った葉、立ち枯れた茎――そのすべてが、まるで“泣いているように”見えた。

 

 ――違う。切るべきじゃない。

 

 頭に浮かんだのは、自分の声ではなかった。

 もっと柔らかく、古く、深い場所から響いてくる。

 

 雷雲のざわめき、木々のざらつく音、風の流れ。すべてが、作物の声と同じ旋律を奏でているようだった。

 

 「……聞こえる、の?」

 

 誰に問うでもなく、リンはそっと畑に膝をついた。周囲の人々が驚いたように目を見開く。

 

 「おい、やめ――」

 

 誰かの声を遮るように、雷鳴が遠くで小さく唸った。

 けれど、雷は落ちなかった。ただ空が、頷くように静かに鳴いたのだ。

 

 リンは手を伸ばす。

 枯れかけた苗の、まだ緑を宿す一本に触れる。手のひらから、微かに紅い光が走った。

 

 それは雷ではなかった。

 爆ぜず、焼かず、怒りもない。

 

 柔らかく、流れる光。

 

 苗の葉が、揺れた。

 その震えに、確かに“喜び”があった。

 リンの目が見開かれる。

 

 「……癒えてる?」

 

 苗の根元から腐食が消え、葉が持ち上がる。

 陽の光を受けて、かすかに輝く緑色が、周囲の空気を打ち変えた。

 

 誰かが、震える声で呟いた。

 

 「……生き返った……?」

 

 その声を境に、集まっていた者たちの空気が目に見えて変わった。老エルフが、足を前に出しかけたまま固まっていた。若い者たちも、息を飲んでリンを見ている。 

 ――ざわ……

 低く、抑えた息遣いと囁きが波紋のように広がっていく。リンは、理解できずにいた。

 

 なぜ、こんなことができたのか。

 なぜ、いままで祈れなかった自分が、作物の声を聴き、癒すことができたのか。

 

 「なにをした……?」

 「雷じゃない……いや、魔法だったのか……?」

 「だが、今のは……あんな魔法、私は知らないぞ」

 

 声をひそめながらも、あからさまに距離をとる者もいた。

 彼女の手が触れた場所、命が再び芽吹いたその現場を、誰もが見ようとして見ない。

 恐れているのだ。理解できない“それ”を。

 

 「……あの子が祈ったのか……?」

 「いや、違うだろう。祈れないはずだ、あれは……あれは“雷の落とし子”だぞ」

 「だからこそ……あり得ない。あんな穏やかな魔法、誰が……いや、誰にできる?」

 

 混乱と警戒が重なり、視線が突き刺さる。

 その中に、いくつかの、まなざしの色が違っていた。しかし明らかに違う物を感じた者たちがいた。

 それは、年老いたエルフたちだった。

 魔法の源を知る世代。祈りが“神託”ではなくエルフの持つ“技術”の一つだった時代をかすかに覚えている者たち。

 

 「……見たか、いまの……?」

 「わ、わたしは昔……祖母から聞いたことがある。祈り手の真なる浄化は、雷鳴のように静かだって……昔話かと思っていた……」

 「いや、まさかあれは、“ほんとう”の浄化?」

 

 声が震え、言葉が続かない。

 

 そして――その場の片隅で、ひどく年老いた男が、永く閉ざされた目を見開いていた。

 

 名をエルヴァスという。

 

この集落で最も古い記憶を宿す者にして、今や歩くこともできぬ体で車椅子に座り、ただ無為に過ごす男。

 祈りの歴史を語る“語り部”ではあったが、もはや多くの者にとっては“動かぬ伝承”にすぎなかった。

 

 

 しかし、彼は閉ざされた目で見た。

 伝承の中でしか語られなかった、“命を流れに還す浄化”を。

 

 「……あれは……」

 

 呻くような声とともに、エルヴァスは震える指を、その両手は、車椅子の肘掛けを強く握っていた。

 彼の濁った瞳が、まるで星でも見たかのように、開かれ真っ直ぐリンを見つめていた。

彼は骨と肉の音を立てて立ち上がる。

 

若者の一人が思わず駆け寄る。

 「おやめください、危険です!骨が――」

 「かまわん。……これを見ずに、触れずに死ねるものか……!」

 

 その声は震えていた。

 老いのせいではない。

 何かを見出してしまった者の声だった。

 

 ぎしりと、古びた木車が軋む音。

 エルヴァスは、支えられながら立ち上がった。何年も忘れていた筋肉が、悲鳴をあげながらも、彼を倒そうとはしなかった。

 濁った目の奥に、若者のような光を宿しながら、エルヴァスは足を震わせ、咄嗟に近づいた若者に支えられながらリンに近づいていった。

 

皆が、驚きに息を呑んだ。

 

 それは、魔法でも祈りでもない。

 ただ、エルヴァスが「見たかった」ものに向かって、立ち上がっただけだった。

 

 「雷が……あれほど穏やかに、命を運んだ……」

 「わしの祖父が語っていた……古の“浄化”とは、本来あのようなものだったと……」

 

 か細い息を継ぎながら、言葉は続いた。

 

 「“生を絶つものではない。乱れた流れを整え、命の本懐に還すもの”……それが、かつての浄化だった……だが、それを誰も信じぬようになった……雷がそのすべてを壊すと恐れたからだ……」

 

濁ったエルヴァスの目に、光が宿る。

 その光は、涙か、雷の残光か。

 

 「わしはもう、この地で“祈り”と“浄化”が絶えるものと思っていた。だがしかと見たぞ。それは雷そのものが、命に触れた希望の現れだ……おぬしは、“呼ばれた”のだよ……」

 

 リンは動けなかった。

 目の前で、年老いた者が自分を「希望の現れ」と言っている――

 今まで、忌み嫌われ、恐れられ、疎まれた自分が。

 

 「おぬし……名は、リンだったな」

 

 リンは、驚きもせず、ただ静かにうなずいた。

 

 「おぬしがいま触れたのは、“祈り手の最初の浄化”だ……命を殺すのではなく、命の流れを戻す、真なる“調和と循環”だ」

 「……でも、私は……」

 「祈れなかったのだろう。だが、それは違う。おぬしは“見えてしまう”のだ……他者の内なる痛みを、雷と共に。それゆえ雷は、時が来るまで待ち、おぬしを選んだのだ。紅く染まったその力は、ただの破壊ではない」

 

 リンは思わず息を呑む。

両親と共に消えたあの雷鳴は復讐だけを残したとずっと考えていた。

 

 「……私は……ただ、触れたかった。声が、聞こえたような気がして……」

 「それで充分だ。祈りと浄化、命と心を向けること……癒そうなどと思わずとも、感じ、対話した時点で祈りは始まっている。おぬしのその雷は……破壊ではない。これは祝福だ。紅雷の神、その残響を継ぐ者――おぬしは、きっと……」

 

 彼の言葉は最後まで続かなかった。

 けれどその震える手が、祈るようにリンに差し伸べられたその所作が、すべてを語っていた。

 

 誰かが、小さく泣いた。

 誰かが、膝をつき、手を合わせた。

 

 空がまた一つ低く、優しく鳴った。

 雷は静かに、森の空を渡っていった。

 

 

 あの遺跡で交わした問い。

 放浪者の最後の言葉が、心をよぎる。

 

 「……祈りとは、“命と向き合うこと”。

 浄化とは、その命に干渉する“責任”を受け容れること……」

 

 自分は今――逃げなかった。

 怒りも、憎しみも、恐怖も使わずに。

 ただ、向き合った。

 

 そのときだけ、リンにとって雷は復讐の刃ではなく、両親の優しい声に思えた。

 

 

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