《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
誰も私に語りかけはしない。
いや、その必要もない。
誰もが知っているのだ。私はただの古き者、かつての時代を繰り返し語るだけの、声だけ残った抜け殻だと。
もうどれほどになるだろうか。
足が動かなくなってから。
この車椅子と共に、軒下の定位置に腰掛け、朝の風と昼の陽、夜の虫音をただ数える毎日。
いつしか雷が耳に触れるたび、何かを奪っていくようで、私は目を閉じるしかなくなった。この身体はもう、若き狩人たちのように軽やかには動かぬ。足の感覚など、とうの昔に忘れた。
祈りはもう意味を持たない。
若い者たちは「精霊様」「神々の機嫌」と唱えるが、それは命との会話ではない。
自分の欲を隠すための、形式にすぎない。
本来、祈りは――そう、静かに命の流れを感じる行為だった。
土に触れ、葉に触れ、雷の振動に耳を澄ませ、風の温度に季節を聞く……。
そうして、流れの乱れに優しく手を添える。
それが「浄化」だった。
だが、今の者たちはそれを忘れた。
病葉を見つければ、刈り取る。
育たぬ実は、神の咎だと言って捨てる。
祈るふりをしながら、実のところ命の声など一度も聞いていない。
だが、私はまだ、覚えている。
かつてこの森が「話していた」ことを。
雷鳴が試練ではなく、音律の調べだった時を。
私は、最後の語り部だ。
この黒雷の森で、「祈り」がまだ意味を持っていた時代の記憶を、織物のほつれのように胸にしまい込んでいる。
かつて私の祖母が語ってくれた。
もっと昔、もっと深く、この森には「雷に選ばれた祈らぬ者」がいたのだと。
その少女は、言葉を捨て、雷とだけ語り合ったのだと。
信じる者は誰もいなかった。
私自身も、歳を重ねるにつれ、それを物語の一部として口にするようになった。
誰かが望む“伝説”として、現実から遠ざけるように。
……私も、それに慣れ始めていた。
かつての伝承は、皆が笑って聞き流すだけのものになった。雷と語る少女の話など、もはや子供ですら信じはしない。
それでもなぜ、私は今もここにいるのだろう。
口にこそ出さなかったが、心のどこかで「まだ何かが来る」と思っていたのかもしれない。
……本当は、忘れてしまいたかったのだろう。
私は、ひどく疲れていた。
もう希望はなかった。
誰も本当の「祈り」を思い出せないまま、ただ世代が過ぎていくだけ。
語っても、笑われ、忘れられ、火の粉のように散っていくだけ。
それでも……わずかに、ほんのわずかに、願っていたのかもしれない。いつか、誰かが……祖母の語った“昔話”を現実に変える日が来るのだと。
“彼”が語った者が再びこの森に現れ、
忘れられた対話を、再び命に思い出させてくれるのではないかと、夢のようなことを。
誰にも言わず、ただ、この老いた心の奥底で、炎のように小さく灯していた。
*
かつて、私はまだ子供だった。
指も細く、弓を持つことも許されぬ年頃。
それでも心は、いつも遠くを見ていた。
なぜなら――私は探していたのだ。
祖母から聞いた伝承に語られし、「紅雷の神」。
名を持たず、語らず、祈らぬまま雷を纏ったという少女のことを。
長老たちは笑った。
「あれは昔語り、作り話よ」
「祈らぬ者は神の加護を得られぬ、雷に焼かれて消えたはずだ」と。
だが私は信じていた。
その少女はこの森のどこかで雷を宿し、誰かに何かを託そうとしていると。
ある日、私は森の奥深くへ迷い込んだ。
誰も入ってはならぬとされた、神の柱の奥。
祈るように倒れた巨木たちのあいだを抜けた先に、それはいた。
ひとりの男――いや、男のようでいて、風のようでも、影のようでもあった。
彼は私に名を問わなかった。
「お前は、何を探している?」
しわがれた声に、私は答えた。
「紅雷の神。雷に選ばれた祈らぬ者を」
そのとき、彼の目が、わずかに揺れたように見えた。それはまるで雨が降る前の、湿った風の揺らぎに似ていた。
「……その者は、もうこの世にはいない。少女は、祈らぬことを選び、雷を抱いたまま、自らの命を雷とした」
私は絶望しかけた。
だが、彼は続けた。
「だがその意志は、途絶えはしない。彼女の雷は、次の器を探す。似た者に、自らに似た“渇き”に、きっとまた宿る。そして――その者が本当に“問い”を持ったとき、私はまた現れる」
「あなたは、誰なのですか?」
彼は、まっすぐに私を見た。
その目は、雷よりも深く、夜よりも古かった。
「私は……放浪者。お前たち、“探す者”の前に現れる影だ」
彼はそう言って、姿を消した。
風の音もなく、ただ空気が、ひとつだけ言葉を残した。
「やがてまた、紅雷が森に落ちる。
そのとき、名を呼ぶ者が必要になる」
*
それから何十年が過ぎた。
私は年を取り、語るばかりの老い木となった。
だがあの日の言葉だけは、胸の奥で決して消えなかった。
そして――風が変わったのは、数日前だった。
森が、ざわめきを変えた。
木々が、沈黙の中に別の呼吸を宿した。
雷鳴が遠くでうねりながらも、どこか律を刻むような、懐かしい“間”を帯びていた。
私はその時、目を閉じて思ったのだ。
そうして“彼女”が現れた時、期待しなかったとは言えなかった。その目に宿る怒りと、その掌に走る、制御されざる雷光。
私の祖母が語った、祈らぬ少女。
言葉を捨て、命の声を選んだ者。
その面影が、確かにあの娘に宿っていたのだ。
彼女は「雷の落とし子」と呼ばれた。
禍を背負い、火を呼び、破滅を連れてくる娘だと。
……だが私は見た。
その背に、確かに――対話の影があった。
まだ語られてはいない。
まだ現れてもいない。
だが、あの娘は問いを持っている。
力に溺れながら、手探りで何かを探している。
そして私はあの浄化の紅い閃光を見た時、はっきりと理解した。
祈らぬ少女よ――お前こそ、紅雷の神だ。
リン・イゼリア・ナヴェラ。
命と交わし、再び雷を祈りへと還した、
“語り継がれるべき者”よ――