《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
彼らエルフの暮らす森、かつて神々に祝福されたヴィリュスの森。
だが、雷の怒りに打たれてからというもの、森は祈りを拒み、エルフたちは散り散りに逃げ、祈ることすら忘れ、ただ生き延びる術を選んでいた。
しかしある日を境に、遠くの集落や村に風の便りが届きはじめる。
「ヴィリュスの北、かつて消えた村の者が……生きていたらしい」
「東の谷で、一夜にして祈り手が目覚めたと」
「“紅嵐の神”が来た――そう噂が広がってる」
紅い雷を纏い、病める作物を癒し、動物に道を聞き、そして絶望を内に秘めながらも、祈りを拒む者だったはずの少女――
リンの姿が、彼らの中に変化をもたらしていた。
*
誰が最初にそう呼んだのかは、わからない。
けれど、確かにその名は――雷と共に、風の向こうから届いた。
「イゼリアの地」
それは、紅嵐の神が拠り所とした集落、
“祈りと浄化”の力が再び芽吹いた、森における新たな神域として語られるようになった。
かつて“雷の落とし子”と畏れられ、
その眼差しひとつで動物も人も怯えを抱いた少女の名が、今では、民を集わせ、祈りを共に、病を癒し、森を癒す――そんな土地そのものを示す言葉となった。
「イゼリアに行けば、祈りが戻る」
「イゼリアの雷は、怒りではなく命の兆しだ」
そう囁く者たちの群れは、やがて川を越え、谷を渡り、北の断崖や東の滝からも、老いも若きも、命を抱えて歩いてきた。
彼らは皆、“森の分断”の時代を生き抜いてきた。
集落を焼かれ、言葉を失い、祈りを忘れ、
雷の轟きにただ身を竦めていたエルフたちが――
今、再び歩き出していた。
*
リンの指先が、再び土に触れた。
枯れかけた蔓に触れると、そこに一筋の紅い閃光が走り――蔓はしなやかさを取り戻し、小さな花を咲かせた。
それを囲むように、幾人ものエルフが息を呑んだ。静寂の中、少年が震える声で言う。
「……今のは……本物の、浄化だ……!」
そして、イゼリアの地に集まったエルフたちは、リンと共に祈った。
かつて失われた“本当の祈り”を手探りで思い出すように。
誰かの手を取るように。
死を嘆くのでなく、生を迎え入れるように。
「ねえ……どうして私も、あの花に……」
少女が問いかければ、リンは少し戸惑いながらも手を重ねてみせる。
紅雷がその少女の手に流れ込み、優しい光が芽吹きを導く。
それは、紅雷の模倣ではなかった。
リンという“芯”に触れることで、かつて忘れ去られた本来の祈りの回路が、他のエルフたちにも徐々に目覚めていくのだった。
彼女は、自分が「神」などではないことを知っていた。
この力は祝福ではない。
ただ、世界が壊れた時に宿してしまった、名もなき灯火。
けれど――
この地を巡る風が柔らかくなったこと、
動物たちが逃げずに眠るようになったこと、
病める草が葉を広げたこと、
そして誰かが誰かの名を呼び、笑っていたこと。
それらすべてが、リンに“ここにいていいのだ”と、
そう告げているように思えた。
かつて、祈れなかった少女は。
かつて、命に触れられなかった少女は。
いま、無数の祈りの中心で、風の中に立っていた。
*
雷鳴のない夜――
リンは、紅い光の夢を見る。
湿った大気が、肌を濡らす。
そこは森ではなく、空でもなく――虚無だった。
踏みしめるものもない暗闇に、ぽつりと赤い光が灯る。それは、少女の姿。
だが、その輪郭は絶えず揺らぎ、雷のように震えていた。
その少女が、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
「……あなたは……」
声に出したはずなのに、自分の声は反響しない。声は霧散し、代わりに響いたのは――雷の音。
ビリビリと頭の奥に触れる、鋭く、脳髄に沁み込む感覚。だがそれは、痛みではなかった。
記憶だ。感情だ。言葉ではない、“雷の言葉”だ。
少女が、何かを伝えようとしている。
――“私は祈りを捨てた。けれど、祈りは消えていなかった。”
紅雷が、ゆるやかに絡み合い、空に文字のような残光を残す。
その軌跡が意味を成す前に、リンの心に“理解”だけが流れ込んでくる。
――“彼らが来る。過去は繰り返されようとしている。”
雷がまた、はじける。
“警告”だった。
少女は、リンの胸に手を差し伸べる。
そしてその掌が触れる前に、紅い雷がふたたび弾けた。
――“その光は、呼び寄せる”
リンの瞳が見開かれる。
少女の視線が虚空を指す。
空が裂ける。
そこに、何百という影が蠢いていた。
咆哮のようなノイズ。
聞き取れない叫び。
かつて夢で見た魔族の声が、再びリンの頭蓋を軋ませる。
――“かつて私が用いたその力は、
滅びの端緒となった”
少女の肩から流れ落ちる紅雷は、まるで涙のように見えた。
その光に包まれながら、少女は一歩、リンに近づく。
リンは無意識に後ずさる。
雷が強くなりすぎる――思考すら焼かれてしまいそうだった。
「これは、私が……呼んでいるの……?」
雷が応える。
それは肯定でも否定でもなかった。
ただ一つ、確かに伝わってきたのは――
“紅い雷は、誰にとっても、見つけさせる光”だということ。
エルフはそれに惹かれ、近づく。
魔族がそれに惹かれ、近づく。
それはリンという存在が、「灯火」となったことを意味していた。
少女が振り返る。
背後に開く裂け目から、無数の“影”がリンに手を伸ばしてくる。
紅雷が、それを焼き払う。
少女の姿が消えていく。
その瞳だけが、最後までリンを見つめていた。
――“繰り返さないで。
選び取るのは、あなた。”
⸻
外では鳥の声がし、朝霧の中に光が差していた。だが、彼女の胸の奥では、まだ雷の残響が鳴り止まなかった。
「はっ……!」
息を吸う暇もなく、リンは跳ね起きる。
額を伝う汗が、まるで雨のようだった。
夜は明けかけ、空の端が紫に染まりつつある。
森の向こうで、雷の鼓動が低く響く。
夢――いや、あれはただの夢ではなかった。
リンは、自分の手を見下ろす。
微かに指先が赤く光る。まるで、生きているように。
「私が……呼んでる?」
その呟きは風に溶け、どこにも届かない。
だが、心の奥底で確かに響く不安。
それは、“警告”という名の震えだった。
*
森の深層、光さえ届かぬ朽ちた聖域にて。
黒き影が立ち、無数の“それら”がざわめいていた。
その影の中心にあった存在は、かすかに首を傾げた。
「……」
魔族だった。
その声は、誰にも届かない。
だが森は――確かに、その予兆に震えていた。
紅嵐は静かに森を包み、
同時に、漆黒の波が再びその歩みを始めようとしていた。