《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
この国は、すでに“国”と呼べるものではなかった。
かつて石造りの街は、理と技術の誇りを宿す「王都」と謳われていた。
だが今では、その誇りは煤け、ひび割れ、雨水のように地に流れ落ちている。
広場の噴水は止まり、中央通りの舗装は割れ、少し入った路地には紙のように軽い死体が転がる。
民衆の顔は痩せ、目は伏せられ、誰もが“沈黙”という仮面を被っていた。
かつて歌われた祝祭の歌は消え、代わりに聞こえるのは、空腹を訴える胃の音と、見張る兵士の足音だけ。
そして、城。
高く、冷たく、いびつな塔。
王が鎮座する王座は、光なき玉座と化し、民衆の誰も近づこうとはしない。
法はあった。だがそれは、王に都合よく書き換えられるものだった。
税はあった。だがそれは、王の飢えを満たすためのものだった。
秩序はあった。だがそれは、民に恐怖を植え付けるためのものだった。
――誰がそれを「狂気」と呼ばなかっただろう?
誰も声を上げなかった。
反旗を翻す者は“反逆者”とされ、影も残さず処刑か追放された。
誰かの失踪は、翌日には“もとからいなかったこと”になる。
沈黙は蔓延し、無関心は伝染する。
そして、痛みに慣れた民は、痛みそのものを感じなくなる。
私の名はエリオット。
この国の王の息子。
――そして、恥ずべきあの王の“血”を継ぐ者。
私はこの腐った国の天井に住み、
民が食べることのない果実を味わいながら、
そのすべてに違和感を抱いていた。
違和感、などという言葉では足りない。
それは、喉に刺さった小骨のような、鈍く、鋭い痛みだった。
しかし――
私もまた何も、してこなかった。
この“裂け目”に、背を向けてきたのだ。
けれど、今日。
私は初めて、自らの足で城の外に出た。
この目で見るために。
この手で確かめるために。
この国が、どれほど深く崩れているのかを。
──そこで私は、奇跡に出会った。
城の壁の外──そこは「王都」として地図に記されてはいるが、
誰も「王国」だとは信じていない場所だった。
瓦礫に囲まれた下町。
金貨一枚の価値が、命の重さよりも重い場所。
役人はこない。兵士は通らない。
王の名は呪いのようにしか口にされない。
けれど、私はそこに立っていた。
――初めて、自らの意志で。
それは偶然だった。
いや、後に理解する奇跡の出会いを、偶然という腑に落ちる言葉に思いたかっただけなのかもしれない。
城の外での視察。
名目は「民情把握」。
だが本当は、父の命令ではない。
誰にも告げず、誰にも見られず。
私は、自分が何に怯えているのかを確かめたかった。
近衛の兵から離れ、1人で走っていた。
視界に入った立ち昇る煙に、足が動いていた。
火が上がりひとつの家ー孤児院が焼けていた。
崩れた屋根が、乾いた音を立てて崩落した。
炎が木造の柱を嘲るように舐め、黒煙が空へと昇っていく。
焦げた薬瓶の香り、焙られた紙の匂い、そして――
「……誰か! 中にまだ……!」
おもむろに声を張り上げた瞬間だった。
私は世界を見た。
叫ぶ者も、止める者もない。
見ている。
皆、ただ見ている。
怒るのではない。泣くのでもない。
──諦めの目で。
「これが……“外”の姿なのか」
私は呟いた。
その声に、誰かが返した。
「何をしている、坊ちゃん。燃える建物は王族の遊び場か?」
振り返ると、若い女がいた。
長い黒髪に、焦げ跡のついた白衣。煤けた粗末な布をまとい、焼けた孤児院から助けたであろう子どもを抱きかかえていた。
顔に煤をつけ、声は冷えていた。
ひどく冷たい目をして、私を見るや正体を言い当て吐き捨てる。
私は咄嗟に言葉を詰まらせてしまった。
それを見たからか女の口から出たのは、ごく自然なもので、雑談の様に投げられた言葉だった。
「見てるだけなら、坊ちゃんも“アレ”と同じさ。こっちは、毎日だ」
「私は……」
「王子なんだろ? なら、帰りな」
……刺されたような痛みだった。
私は、この国を知らなかった。
この地を、民を、そして、自分が何者であるかすら。
だがこの言葉だけはなんとか喉から絞り出すことが出来た。
「……子供たちは……無事か?」
女はその言葉に一瞬だけ目を細め、しかしすぐに顔を背けた。
腕に抱かれた、ピクリとも動かない子供を女はおろして突き放す様に言葉を放った。
「助けたわけじゃない。間に合わなかっただけだ。私は、ただ――ここで、彼らと生きていただけ」
近くの瓦礫の上に座り込んでいた子供達のうち1人が、すすだらけの顔で女の白衣を掴む。その手を、彼女は静かに握り返した。
私は、火の粉が頬をかすめても立ち尽くしていた。
初めて見る“誰かのために傷つく姿”だった。
「君は……名は?」
「セリス。……ただの研究者。もう、“国の”は外していい」
「孤児院を? 一人で?」
「この国が壊れたのは“アレ”が狂ったせいだと、誰もが知っている。それでも黙っていたのは誰かが燃えても、それを“当然”と思ったから。私は……その当然に加担したくなかった。それだけだ」
その言葉は、まるで今まで感じていた違和感そのもの…喉刺さった小骨ではなく、突き立てられたナイフのようだった。
私は、それが私自身の胸に向けられたものだと理解していた。
彼女が言った「黙っていた者」は、
自分のような“王の息子”に他ならなかった。
私は焼ける孤児院の熱に浮かされてか、口を開いた。
「……違う。私は…俺は、もう目を逸らさない。」
「やめてくれ。坊ちゃん。あんたの正義は、いらない」
冷たい風が、ふたりの間を通り抜けた。
そしてその瞬間、甲冑の擦れる音が迫る。
「エリオット殿下! 危険です、こちらへ!」
振り返ると、武装した近衛兵が数名、駆け寄ってきていた。
「待ってくれ、まだ……!」
エリオットが手を伸ばす。だが、その手は兵に掴まれ、半ば無理矢理に引き離されていく。
「セリス!! 君は――!」
セリスは答えなかった。
ただ、背を向け、燃え残った孤児院の子供たちを静かに抱き寄せる。
その姿は、王都の瓦礫よりも強く、王の城よりも遥かに大きく見えた。
私は遠ざかりながら、この日、初めて“自分の国が燃えている”ことを知った。
そして、浮かされていた熱は燃える建物ではなく――
きっと、自分の内側なのだと、ようやく気付いた。
セリス。
後に、私の運命を変える人間のひとり。
この日、焼ける孤児院の前で交わされた短い言葉こそが、すべての始まりだったのだと──今になって、ようやく理解できる。