《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
雷鳴は今日も遠く、森が目覚めていた。
焼けた木々には若葉が芽吹き、傷ついた者たちの居場所が少しずつ戻ってきていた。
かつて失われた命の全てを取り戻すことはできずとも、エルフ達は生きようとしていた。
イゼリアの地、かつて祈りの民が散り散りに身を寄せていた森の奥。そこに――人の声が戻りつつあった。
燃やされた木は灰の中から再び芽を吹いた。癒えぬ傷を抱えた者たちは、それでも互いを支え、細い橋を繋いでいく。
イゼリアの地に集った集落の数は三に増えた。祈りの技を継ぐ者、木を組み住まいを作る者、わずかながら祈りを呼べる者。
希望と呼ぶにはあまりにかすかだが、
それで十分だった。
だが、その微かな希望を踏みにじる者たちもまたいた。森の北端、星の音さえ聞こえぬ夜。エルフの村が一つ、消えた。祈る者は焼かれ、逃げる者は裂かれた。救援の声は届かず、助けを求める声は風に消えた。
そして、また一つ。
また一つ。
破壊の影は音もなく広がり、誰も気づかぬうちに静かに、着実に、森の呼吸を奪っていた。
雷雲は今もそこにあり、何かを睨むように静かにうごめいている。
*
リン・イゼリア・ナヴェラは、傷だらけの地図を見つめていた。
地図の上には血のような赤い印が三つ。いずれも、村が“あった”場所。いまは、そこにもう何もない。
「……これ以上は、守れないかもしれない」
低く、掠れた声がこぼれる。
その指先からは微かに雷光が漏れたが、紅い光は不安定で揺れていた。
守るべき者が増えていく。けれど、手は届かない。
力はある。だが、それだけでは足りない。
その事実が、彼女の心に、かすかな焦げ跡を残していた。
孤独だった彼女の周囲には仲間がいた。剣を持つ者、祈りを教える者、森と話す者。
彼らは皆、リンのことを「姉」と呼び、「紅嵐の神」と呼び、「希望」とすら口にした。
――だが。
(私は違う……)
その思いだけは、どれだけ時が経とうとも変わらなかった。
誰かを癒す祈りを持たぬ自分。憎しみで燃え上がった雷しか持たぬ自分。
そして、守りきれなかった幾つもの声が、未だに耳に残る。
*
そんな彼女を、木々の影から見つめる瞳があった。
木々の陰、朽ちた根の奥に、息をひそめる少女が一人――ただ、心酔するように。
誰も彼女に気づかない。気づかれたくもない。そう、彼女は“ただ見ているだけ”でいいのだ。
見るだけで、いい。
彼女の雷を。
彼女の背中を。
名をティリア・フェンリエル。
(美しい……間違いない。あの人は、王子様だ)
自分でもおかしいとは思っている。
でも、それでいいのだ。
昔読んだ、おとぎ話の中に出てきた王子様。
黒い鎧をまとい、雷と剣で悪しきものを滅ぼす存在。
口に出せば、壊れてしまいそうな感情。
心に押し込めても、抑えきれない衝動。
その美しい姿、ティリアは“生”を見た。
今も彼女は木々の影から、リンをただ、見つめている。
声をかけられない。話しかける資格などないと、わかっている。
それでも――その背を、もっと見ていたいと思ってしまう。
彼女だけは、私のことを見つけてくれるはず。
まだ出会ってもいない。話したことすらない。
でも、それは問題じゃない。
「お姉様♡」
小さく呟いたその名は、熱を帯びていた。
声にならぬ恋慕、声にしてはならぬ狂気。
ティリアの中には、熱と冷たさが同居していた。
それが、普通でないことくらい、本人も分かっていた。
けれど、彼女にとっては、それが初めての“本当の感情”だった。