《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
朝露を踏み、ティリアは森を歩く。
荷物は軽く、けれど心は重いほどに満たされていた。命を託された。あの紅の瞳が、自分を“選んだ”。それがあれば、どんな場所にも行ける。怖くなんて、ない。
そう思っていた――けれど。
森の境を越えた瞬間、すべてが変わった。
空の色が違う。
風の匂いが違う。
土の温度が違う。
そして、息を吸った瞬間――胸の奥が、かすかに引きつった。
(……薄い)
ティリアは立ち止まり、もう一度深く息を吸う。けれど、感じられない。
いつもの森の“濃さ”を感じない。
鳥は鳴いている。虫も飛んでいる。
それでも、静かなのは。多分この地に精霊が染み込んでいない。
(ここ、は……)
視線を上げる。
視界の先には開けた丘と、乾いた岩肌。
ヴィリュスの森では見られなかった、刺すような日差しが地面を照らしている。
草はある。木もある。けれど“話しかけてこない”。
気配が、遠い。肌をすり抜けていくようで、まるで――孤独感が襲ってくる。
彼女は目を伏せて、そっと手を土に触れた。
いつもなら、小さな脈動を感じるはずだった。けれど、ここには何もない。冷たく、乾いていて、音がない。
祈るでもなく、応えるでもなく。
ここは森ではなく、“世界”だった。
(ほんとうに、違う……)
思っていた以上に、遠い。
あの森の外は、こんなにも――息がしにくい場所だったなんて。
胸の奥に、小さく不安が芽生える。
だがティリアは立ち上がる。
お姉様が生きているあの森は、あたたかくて、満ちていて、優しい。だからこそ、あの場所を守るには、ここを知らなくてはならない。
(この息苦しさに、負けたりしない……)
小さく、拳を握った。
足元は不安定。けれど――進む。
“役目”を託されたただの少女は、今、初めて「世界」と対峙していた。
*
森を抜け数時間後、ティリアの前を通る風が変わった。土のにおいに混じって、油と汗と、焼けた革のにおいが漂ってくる。
(……人?)
道なき道を進んでいたティリアは、立ち止まった。丘の向こうから、幾つもの足音と車輪の軋む音が近づいてくる。
木々の間からのぞいたその一団は――人間たちだった。十人ほどの商人と荷馬車。よく磨かれた鉄の籠、袋に詰め込まれた香辛料、陶器、布。そのどれもがティリアにとっては異質で、まるで別の文明の断片のように見えた。
足が竦みそうになる。
けれど――ここで止まるわけにはいかない。
「ま、待って……! わたし……!」
木陰から飛び出し、叫んだ。
突然現れた金髪の少女に、商人たちは一斉に動きを止める。数人が腰に手を伸ばし、護衛らしき男たちは警戒の目を向けた。
「……なに?まさか、あれ……」
「見ろ、あの耳、あれ……本物か?」
ざわめきが広がる。
ティリアの尖った耳、透き通るような白い肌、風にたなびく黄金色の髪。
それは彼らにとって“話に聞いたことがある”ものだった。
「ヴィリュスの森の――あれだ。祈る民、精霊の民たち……」
「いや、俺のばあさんが言ってた。あそこに近づくと“黒雷”に魂を奪われるって……」
声がひそやかに、しかし恐怖と興奮を混じえて漏れる。そのどれもが、エルフたちにとって真実ではない。だが、彼らにとってはそれが「現実」だった。
ティリアはその視線に凍えそうになりながらも、一歩、踏み出した。
「お、お願いです……! 助けてほしいの……!」
震えた声が、風に乗って響く。
「も、森が……わたしたちの村が、襲われてて、でも、わたし、なにも……できなくて……っ!」
「それで、だから……っ! 国とか、人とか、どこでもいいから、助けてくれるところを探してるの……!」
頭を下げる。地面に手がつくほど深く。
誰にも届かないかもしれない。でも、それでも――言わずにはいられなかった。
一瞬の沈黙のあと、商人たちは目配せを交わす。
「……あれ、どうする? 関わったらまずいんじゃねえのか」
「けど、見ろよ。あれ、泣いてんぞ……」
「そもそもエルフが“本当にいる”なんて話、聞いたことねえぞ」
数人が後ずさる中、荷車の脇にいた一人の男が、足を止めていた。
頬に古傷のある日焼けした壮年の男だった。
「……お嬢さん」
ティリアが顔を上げる。泣きはらした目に、まっすぐな声が届いた。
「俺たちは今、人の国に向かってる。ここから少し南にある、でかい国だ」
「ちょっと前に、王が変わった。戦が終わったばかりなのに、また騒いで落ち着いちゃいないが……」
「今“外の話に耳を貸す”なんてことを言い出した、変わった若い奴が上にいるらしい」
そう言って、男は帽子を取り、額を拭った。
「……お前の話が本当なら、そこに行ってみるのも悪くない。乗ってくか?」
ティリアは、言葉を失った。
数秒遅れて、ようやく頷く。
「う……うん……! い、行く、行きたいです……!」
男は黙って頷き、荷車の後ろを顎で示した。
「ただし、途中で怖気づいたり泣いたりすんなよ。道は長いぜ」
「……は、はいっ!」
こうして彼女は道を見た。
この旅はまだ始まったばかり、先行きの見えぬ旅路は革命の蒼に染まった人の国へと
*
荷車に揺られるティリアの視界に、森から出て久しぶりに見る小さな光が走る。
「……あっ、いま、道の端に、小さなのが――」
「ん? なんかいたのか?」
ティリアの指差す先に、商人たちは目を凝らした。だが、誰も何も見えなかった。
「光って、小さい葉っぱの形で……何か喋ってた、と思う」
「ええと、それは、妖精? いや精霊?どっちだっけ……?」
ごつい体つきの護衛の一人が、頭をかきながら笑う。
「森の奴らはそういうの見えるんだったな。俺たちゃからっきしだ。でもな、たまに迷い込んだ兵士が『囁き声がした』って言うんだよ。怖がってすぐ逃げたけどな」
「囁きじゃないよ。あれは、多分土の中の水脈を見てたの」
「……なんでそんなことを?」
「教えてくれてたんだと思う。……森の中じゃ、誰かと話してないと、落ち着かないから」
その言葉に、商人たちは微妙な顔をする。
気味悪がっているわけではない。だが、“理解できていない”と正直に認める空気があった。
「へえ、話す相手が、精霊……か。そいつぁ……まあ、なんつうか」
「ちょっと羨ましい気もするが、商売の交渉相手にゃならんだろうなあ」
「俺の商売相手は精霊より腹の出た領主さまさ。喋るけど、こっちの財布ばっか狙ってやがる」
一同、どっと笑った。
ティリアは戸惑いながらも、小さく笑った。
(わたしの当たり前は、この人たちにとっては……おとぎ話なんだ)
森の中で感じていた“声なき会話”は、ここでは届かない。その代わり、人々はよく喋り、よく笑い、嘘をついた。
ティリアの感じる風がまた変わった。
遠くに、人の国の国境都市が見えはじめたころ。ティリアはふと、なぜこの商人たちが危険を冒してここまで来ているのかを訊いた。
「……ねえ。あなたたち、なんで人の国に向かってるの?危ないって森の近通ってまで」
「はは、それを言うかい?」
年嵩の商人が、ふっと苦笑しながら顎で荷車を指す。
「荷物運びさ。物資も手紙も、評議会に送るもんが山ほどあってな」
「半年くらい前に革命が終わって、英雄がどうとか言われてたけど……まぁ、案の定、民はすぐ飽きた」
「飽きた……?」
「ああ、ほら、重税ばかりの王が倒されて自由になったはずだってのに、今じゃ“評議会”だのなんだの。手続きばっか増えて、何も進まん」
「そんでもっていま村人たちは『こんなつもりじゃなかった!』って怒鳴ってるよ。で、そいつらの文句を、俺たちが運んでるってわけ」
「……なんだか、めちゃくちゃ」
「めちゃくちゃさ。でも―そいつらの文句ってやつ、一番の怒りの理由がまた…」
商人は言葉を止めてくつくつと堪えきれない笑みを浮かべる。ティリアが不思議そうに首を傾げると、周りの商人たちもまた笑い出した。
「“あいつら、まだ結婚してねぇ!”ってさ」
「蒼炎の灯火のエリオットと、あの神妙な連れの女――セリスだったか。二人とも評議会の中枢にいてだな」
「あの革命の最中も、いろんな村が手を貸したんだがよ。そんときからやきもきして『報われろ!』『早くくっつけ!』って応援してたんだ」
「で、同じ評議会のフレイって奴がいて、そいつが勝手に“祝言待ったなし!”って騒いで話を国中に広めちまった」
「でも実際は……?」
「まだ、らしい。いろんな理由があるとかないとか。ま、知らんけどな」
「けどそのせいで、村々が“革命の意義が揺らぐ!”だの“早く婚姻を!”だの……」
「まるで恋文が山ほど評議会に届いてる始末だぜ……はははっ!」
人々は怒りながらも、どこか楽しげだった。
民衆と彼らの憤りはーーただの祝福だった。
「……変な国」
ティリアは呟いた。
けれどその顔には、かすかに微笑みが浮かんでいた。
(でも、なんだか……温かい)
これがやりたかったから第二章終わらせたまである。