《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
「……救世主だってさ」
山積みの報告書をめくりながら、エリオットはぼそりと呟いた。
「またか。襲撃者と関係があるって?」
セリスが顔を上げると、額の前髪がふわりと揺れる。
「いや、正体不明。街を救った、村を守った、光を降らせた、なんて話が各地から……どれも証拠はない。けど、声が大きくてね。民は期待し始めてる」
エリオットの声は、静かながらも疲れの色がにじんでいた。
「救世主って便利だよな。見えないうちは希望になって、現れたらきっと失望される」
「…アンタ、わりと現れちゃった側だからね」
セリスは苦笑混じりに言い、資料に視線を戻す。
「でも、無視できる規模じゃなくなってる。声がでかい。……ほんと、声だけでかくて困ってるんだ」
その少し後方、扉の外――評議会メンバーたちが、隠れて様子を見ていた。
「さて……いつ抱きしめると思う?」
「いやいや、キスが先でしょ。あの流れは」
「いや、おでこを小突いて照れ笑いが来るね、俺は賭ける」
「お前らな……」
一人の真面目そうな議員が、眉間に皺を寄せて呆れたように言う。
「仕事はどうした。今日まだ提出終わってない分が――」
「終わった!」
「さっき全部終わらせた!」
「お前の分も俺たちで終わらせた!」
「今は“見守る時間”だ!」
まるで軍隊のような無駄のない手際と団結で、わずか数分で仕事を処理していたらしい。
全員が手に湯飲みと茶菓子を持ち、扉のすき間から中を覗いている。
「お前も黙って見てろ、我らの歴史が動くぞ」
「いや、資料の確認くらいは……」
「今は資料じゃなくて“恋”の確認の時間だ!」
「仕事に戻ってくれないかな……?」
「ダメだ、ここが一番重要な仕事だ!!」
茶の湯気が立ちこめる中、誰もが同じ方向――エリオットとセリスの背中を見つめていた。
*
「……つまり、言葉じゃ足りない」
エリオットは立ち上がり、広げた地図の上に指を滑らせる。そこには、未接触領とされる地域――ドワーフやリザードマンの住むとされる山間、沼沢地、峡谷などが点在していた。
「挨拶だけでも百通以上の文書を送ってるが、返事は少ない。そもそも言葉が通じてない可能性もある」
「音じゃなく、映像……姿や表情の共有。目に見える“魔法通信”の応用か、できるわね。魔力の指向性を利用すれば、一対一の双方向可視化。……でも安定には触媒が要るわ。こちらと向こうにそれぞれね。」
「ずいぶん速いな、元々考えてたのか?」
「そりゃそうよ。こっちは“救世主ごっこ”してる暇ないんだから」
セリスは吐き捨てるように言った。
「この技術があれば、他の種族と誤解なく向き合える。“水と油”を少しずつ、混ぜるための容器にはなる」
「……すごいな」
エリオットはふと笑みをこぼした。
「魔法で敵を倒す時よりも、こうして話してる時の君の方がずっと魔王みたいだ」
「失礼ね。それ、褒めてないでしょ?」
「ちょっとだけ、褒めてる」
二人は冗談を交わしながらも、視線は資料の地図へと戻る。しかし扉の向こうでは、すでに“賭け”は一時中断していた。
「……これ、ほんとに政務の会話だよな?」
「いや、聞こえないけど、多分真面目なやつ」
「姿が見えた方がいいとか言ってるし、新しい魔法考案中?」
「……なあ、もうさ、早く押し倒せばいいのに」
「おい下品だぞ下品」
「下品っていうかおまえ、品がない」
「お前みたいな浅はかな考えの奴はいらない」
「なんか当たり強くないか!」
数名の評議会メンバーが、扉のすき間に交互に顔を寄せながらボソボソと呟き合っていた。
「会話の内容は魔法の応用とか他種族との交渉とか、未来に向けた真面目なことばっかなんだよな」
「だから余計に腹立つんだよ、真面目なのに仲良すぎて。見てて胃がこそばゆくなる」
「くっつけ。早くくっつけ。結婚しろ。式は秋にやれ」
「わたしは春婚派だね」
「いや、秋の方が衣装が重厚で……」
「ていうか早く告白してくれないとこっちが風邪引く」
最早評議会の機能は完全に停止していた。
「おまえら、仕事はどうした」と言ったはずの議員も、今は率先してスケッチ帳に「2人の衣装案」を描いている。
*
「……はぁ。やってるやってる」
屋根の上に腰を下ろしたフレイは、視線を下の薄暗い路地へ向けた。その眼下では、顔を布で隠し、身振りだけは堂々としている数名の男たちが、集まった十数人の聴衆に向けて声を張り上げていた。
「我らは見た! 光を身に宿した者が、村を、子を、家を救う姿を!」
「天より来たりし使者――救世主こそが、真の導き手だ!」
拍手、ざわめき、そして興奮。庶民の服を着てはいるが、その足元は妙に整っている。口調は稚拙だが、抑揚と間が的確すぎる。
フレイはひとつ、ため息をついた。
「……わかりやすすぎて、逆に笑えねぇな。なんでだろうな、顔を隠して耳まで布巻いて、“これは悪いことしてます”って自己紹介してるようなもんなのに」
男たちの動きは統一され、誰かが合図すれば誰かが笑い、誰かが泣く。見張っているフレイの目は、すでにその動線と視線の仕組みに気づいていた。
「……煽動だ。まぎれもねぇ」
目の前で見せられているのは、“救世主信仰”というよりも、“不安と混乱の利用”だった。
「アホらしい……けどな」
フレイは腰の短剣を弄びながら、軽く口の端を吊り上げた。
「こういう連中ほど、煽動の呼吸を知ってる。本物より、演技がうまい嘘つきの方が、民を動かすってな」
数秒後、彼の手元から一枚の紙片が舞い上がった。描かれているのは、該当する数名の似顔絵と特徴の走り書き。
「念のため、エリオットのとこに回しておくか」
煽動者は群衆から離れ、人気のない裏通りへと消えていった。フレイは屋根の上から影のように付かず離れず。足音も気配も消していた。
その先、細い通路の奥で、誰かと接触する様子が見えた。
「仲間のとこか? いや、雰囲気が違うな……」
煽動者の前に現れたのは、一人の人物だった。旅人のような外套を纏い、品のある立ち居振る舞い。明らかに“市民”の中にはいない匂い。
「……おや?」
フレイは、建材の継ぎ目に身を伏せたまま、微かに身を乗り出す。
“そいつ”は、柔らかく整った顔立ちをしていた。男か、女か。言葉を交わすその姿からは、どこか演劇めいた芝居がかった雰囲気すら漂っている。
「……女か? いや、男? ……どっちでもいいが……うさんくせぇ……」
ぼやくフレイの目が、相手の“髪”に向く。
夜でも目を引く、滑るような銀色。
風が吹いた。
その瞬間――
外套の隙間から見えたのは、尖った耳。
「――エルフ……!?」
反射的に、フレイの指先が短剣にかかる。
(どういうことだ?エルフが、救世主の噂を煽ってる連中と繋がってる?ティリアの話じゃ、森の民はそんな余裕ないはず。女が嘘をついた…流石にそれは早計か?)
次の瞬間、煽動者が恭しく頭を下げるのが見えた。その仕草はまるで、貴族に向けたもののようだった。
「いやな予感がするな……」
フレイはそれ以上動かず、ただ視線だけを深く潜らせた。
(……まさか、森の中とは別の“エルフ”か?)
王都の影で、思いもしなかった“火種”が、ひっそりと燻り始めていた。
*
――あのとき、僕は死ぬはずだった。
燃える村。仲間たちの悲鳴。雷の光で焼けた空と、崩れた枝の下で、僕の身体はもう動かなかった。
祈りは届かなかった。
浄化の言葉も、術式も、なにもかもが通じなかった。
あぁ、そうか。
あれは罰だったんだ。
僕たちは、ただ“祈っていた”だけで、何も守れなかった。剣を捨て、力を持たず、ただ神を信じて――何も変えられなかった。
だけど、あの“光”だけが違った。
焼け落ちた木々の向こうに立っていた影。
黒い霧のような――あれが“魔族”なのだと、後から聞いた。
でも、僕には違った。
僕を踏みつけもせず、ただ静かに……あの目で見下ろした。
すべてが止まったようだった。
その瞬間、僕の中の“何か”が変わった。
僕はあの日、生き延びた。
他の誰でもない、僕だけが。
そして知ってしまった。
あれこそが、真の“神意”だ。
人も、森も、祈りも、愚かだった。
生きるには、気高く、美しく、理に適っていなければならない。
あの者たちは、そう在った。
痛みと恐怖を越え、僕の中に新しい秩序を刻んでくれた。
だから僕は、こうしている。
彼らという救世主を語り、神の御使いを喧伝し、民に啓きをもたらす。
……馬鹿にされてもいい。
嘲笑されても構わない。
だって僕は――選ばれたのだから。
“救われた者”として、あの神々しき影の名に応えねばならない。
*
不思議なものだ。
森を出て、谷を越え、かつての存在するとされた“人の国”へと足を踏み入れたとき、僕は心の奥底で、きっと斬られると思っていた。
蔑まれ、拒まれ、捕えられるだろうと。
けれど――誰も僕を咎めなかった。
刃も、矢も、魔術の結界も、僕に触れることはなかった。
まるで世界が、僕の進む道をあらかじめ空けてくれていたかのように。
……いや、違う。
それは、“彼ら”の導きだ。
あの、静かなる影。
声なき言葉を宿した眼差し。
誰も気づかないうちに、僕の背後には“彼ら”が立っているのだろう。
拒む者は沈み、疑う者は言葉を失う。
恐れとともに、受け入れていく。
まるで神託を受けるように、彼らは人々の心に微かな揺らぎを与える。
僕はそれを、ただ言葉にするだけ。
何も知らぬ子供には、やさしく。
信仰に縋る老婆には、静かに。
怒りに燃える者には、語りかける。
――「これは祝福だ」と。
人の国では、革命後の混乱に乗じて“救世主の再来”として迎えられることもある。
イゼリアの地では、嘆きと祈りの谷間に、そっと種を蒔くように教えを紡ぐ。
ときに疑問を向けられても構わない。
いずれ、彼らも気づくだろう。
祈りが通じなかった理由を。
守りたいと願った者すら守れなかった理由を。
――“古き神々”は去り、新たな支配者が現れたのだと。
そして、僕はその始まりを告げる者。
真なる光の使徒。
誰に何を言われようと、それは揺らがない。
なぜなら、僕の旅路には一度として“敵”が現れないのだから。
それが、答えだ。