《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
ヴィリュスの森は静かだった。
風が梢を撫で、葉がかすかに揺れる音が、遠くで鳴く鳥の声に溶け込んでいる。
そこに立つリンとドルン、そして少数のドワーフ達は、肩の力を抜いた。
「そうか、何もなかったか」
リンの声に、長老の一人が静かに頷いた。
「ええ。特に変化も襲撃もなく、いつもの森と集落のままです。民も落ち着いています」
その言葉に、ドルンは眉をひそめながらも肩を下ろした。
「人の国とは大違いらしいな……派手な炎も、叫び声もない。まるで――」
安堵。
その瞬間だった。
――シュッ!
重い音が森の静寂を裂く。
振り返った一人のドワーフが、何かを言おうとした刹那、胸を押さえて崩れ落ちた。
そこには、黒い羽根を持つ矢が突き立っていた。
「――伏せろ!」
ドルンの怒声とともに、周囲の空気が一気に緊張へと変わる。
だが、火の手は上がらない。敵の叫びもない。
ただ、また一本。
音もなく、矢が風を裂いて飛来し、リンのすぐ真横の木の幹に突き刺さる。
「これはただの襲撃じゃねぇ。狩りだ……!」
そう呟いたドワーフの一人が、戦鎚を構えて周囲を見回す。
だが、何もいない。
静かすぎる。
まるで森そのものが敵の味方をしているかのように、矢の出処は見えず、気配もなかった。
「……教徒だ」
長老の1人がぽつりと呟いた。
「この矢は狩人達のもの。魔族を信奉し、救いを語る者達。まさか、狩人の中にも……!」
ドルンは低く唸るように息を吐いた。
「人の国の混乱は派手だったが、こっちは“沈黙”で侵されていやがる」
火一つ、叫び声一つない。
だが、その分だけ恐ろしい。
いつ放たれるかもわからぬ矢が、誰の背を狙っているかもわからぬ不安が、静寂の中に確かにあった。
森の風すら、今は――敵に思えた。
*
集落の中心、焼けぬ暖炉を囲んだ臨時の会合。長老たちの顔には疲労と不安が滲んでいた。
「正直言って教徒と……普通の者の違いが、分からんのだ」
年嵩の長老が嘆くように漏らした声は、誰も否定できなかった。
先ほど倒れたドワーフの血痕は、すでに布で隠されている。しかしその記憶は、まだ皆の背を震わせている。
「外から入り込んだ者ならいざ知らず……今ここにいる誰かが、我らの敵かもしれぬのだぞ……!?」
静かに、しかし確かに怒気を含んだ声。
その言葉に反応したかのように、ドルンは首元の鎖を手にかけ、銀色の輪を露わにした。
《サリ=グラムの輪》
人の目にはただの古びた首飾りにしか見えないが、ドワーフの間では“識る者の環”とも呼ばれる遺物だ。
魔族、あるいはそれに侵された者を見分ける唯一にして、確かな証。
「これで魔族か、魔族に操られた者かどうかは、見分けられる」
ドルンの言葉に、集まった者たちの目に微かな光が灯った。だが、その希望はすぐに打ち砕かれる。
「だが万能ではない。判別には一度に一人しか試せん。」
「……この集落に、何人いると思っている?」
長老の問いに、ドルンは目を伏せて応える。
「全員を調べるには数日、いや、もっとかかるだろう。それに集めた所で人質にされたら目も当てられん。」
「その間に何人が矢を受けるか分かったもんじゃない……」
誰ともなく呟かれた言葉に、重苦しい沈黙が落ちる。長老たちは絶望を、リンは焦燥を、そしてドルンは悔しさを噛みしめる。
ドワーフの秘術でさえ、全てを救えるわけではない――その現実だけが、今の森を覆い尽くしていた。
*
イゼリアの地に、かつてない張り詰めた空気が漂っていた。
長老たちの命により、警戒態勢が格段に強化され、集落の周囲には見張りのエルフたちが交代で立つようになった。
しかし、それは安心をもたらすどころか、むしろ不安を濃くした。
「……反応があった」
輪を掲げたドルンの声に、その場が凍りつく。
集められた自警団の一人。森を守る矢の名手の1人として知られていた青年に、《サリ=グラムの輪》が、微かに反応した。
反応は僅かだった。明確な魔族の眷属かどうかは分からない。しかし――“何か”があるのは確かだった。
「誤作動だ! 私は……私は……っ!」
目を見開いた青年は狼狽し、後退る。その姿を見て誰かが弓を引こうとするのを、リンが鋭く制止した。
「まだ確定じゃない。反応したからといって、即座に敵と決めつけるのは早計だ」
その言葉に、矢は下ろされた。しかし、それでも周囲の視線は、もう彼をかつての仲間としては見ていなかった。
――信じていた者が、敵かもしれない。
その可能性がひとたび提示されるだけで、森の絆は音もなく軋み、崩れていく。
「こんな状態で、いったいどうやって守れというのだ……」
ある長老が疲弊した声を漏らす。
その声は、警戒の強化という方針が、いかに脆い足場の上にあるかを思い知らせた。
“どこに敵がいるのか分からない”
それは、外の襲撃者以上に、恐ろしい“内なる崩壊”の兆しだった。
*
「……次」
《サリ=グラムの輪》が前に立つ青年の脈動に反応した。リンは一つ頷き、警備にあたる者たちが青年を丁寧に、しかし確実に拘束していく。
「……落ち着いて。まだ“確定”ではない。ただの反応だ」
リンの言葉に、連れていかれる青年は虚ろな目で小さく頷いた。この場に集められたエルフたちの誰もが、声を殺してその姿を見つめていた。
――反応した者は、縛られ、地下牢に送られていく。それが、いま唯一成し得る“安全の確保”だった。既に十名を越える者が拘束されていたが、まだ終わらない。
ドルンが輪を持つ手を構え、次の者へと視線を向けた、そのとき――
「……次は、私か」
声は静かだった。
けれど、その“音”には何かが混じっていた。微かな、鋭い異音――金属を擦るような、だがどこか有機的な響き。
「……っ!?」
ドルンの目の前の男。銀色の腰まで届く長い髪。エルフとしてはやや珍しい、男か女か不明瞭なほど端正な顔立ち。
「離れろ、ドルン!」
リンの叫びが届くより先に、男――いや、“レド”は一瞬で距離を詰め、腕を槍のように伸ばして襲いかかった。
「っ……!」
ぎりぎりで後方に跳び、ドルンはその一撃をかわした。土煙と衝撃が周囲に弾け、近くにいたエルフたちが叫び声を上げる。
「まさか、レドッ!」
リンが目を見開く。目の前のレドの存在が、どこか既視感を持つ。だが――それを自覚するより先に、ドルンが呟いた。
「……なぜ、ここに」
誰に向けるともなく漏れた問いに、レドのようなものは微笑を返す。いや、それは“笑み”ではなく、形だけを模した仮面のようなものだった。さらにレドの“身体”が変質した。
皮膚だったはずのそれが波打ち、幾重にも層をなして膨れ上がる。肉の中から、もう一つのレドの顔――いや、それに“似せた何か”がずるりと現れる。
その様子にドワーフの1人が睨みつけながらも呟く。
「――あいつ、“混ぜられてる”。手遅れだ」
ドルンが歯噛みする。この存在は、もうエルフでもない。たとえ魔族が精神を操っているだけならばまだ救いはあったが“その先”は助けられない。
「白髪、距離をとれ。今仕留めんと不味い」
リンは頷くと、構える。
レドの姿は、もはや森に在るべきものでも、あっていいものでもなかった。それは、影と肉と祈りが混ざり合った、“祈りの獣”――
「……ふざけるなッ!」
リンの怒声と共に雷の魔法が放たれた。
が、それは“レドの形”を取った魔族に命中する直前、黒い粘膜のような魔力の膜に飲まれ、かき消える。
「駄目だ……この個体、ただの魔族じゃない。レドの“記憶”も能力も、全てを取り込んでいる」
ドルンが言うと、魔族の顔に幾つもの口が浮かび上がり、いくつもの声で同時に呟いた。
「管理地の外のエルフ…精製機を持ち出すとは…お前だな、門番」
喉の奥から搾り出すような、歪んだ声だった。ドルンをまっすぐ指差し、その言葉を反芻する。
「門番……精製機を外に出した……愚かなる管理者が……!」
「なに、を言ってやがる」
ドルンが眉をひそめる。
“精製機”という聞き覚えのない言葉。そして“門番”という、まるでドワーフに綴られるドルン達一族の総称。その意味を知っているかのような呼びかけ。だが、それらは確かに胸の奥に重く沈むものをもたらしていた。
レドもどきは呻くように、嘲るように嗤う。
「門番ごときが……余計なことを!」
「黙れッ!」
ドルンが叫び、斧を構えた。その時、魔族はドルンに飛びかかる。
地面が割れるほどの一撃――だがそれを阻んだのはリンの雷の結界、そして他のドワーフたちの連携だった。
「ドルン、下がって!」
リンが叫び、間一髪のところで魔族との距離を引き離す。
下がったドルンは自らの首元を無意識に触れた。あの奇妙な“箱”をティリアに渡したときの感触が蘇る。
《精製機》ドワーフたちの間でも詳細な用途や正体は伝えられていなかったはずの遺物。ドワーフでは扱えず、魔力に富み精霊の声を聞く者達が扱えると書かれていた箱。だがそれを“精製機”と名指ししたのは魔族――それもレドの“模倣体”だ。
「……あれが精製機だっていうのか」
低く、呟くドルンの声。
リンが不安そうに問うた。
「精製……って、何を?」
ドルンは答えなかった。いや、答えられなかった。だが、ひとつだけ確かに感じる“可能性”があった。
ドルンが歯噛みする。
「分からん、だが奴は俺がティリアに手渡した物を知っている。ティリア達が今戦っているのを共有しているのか、すでにティリアは殺されて、ここにいるのか……」
苦々しい声で呟く。
「……どちらにせよ、最悪だ」