《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
放浪者は、丘の上に立っていた。
視線の先には赤黒い焔と蒼炎の揺らめきと、崩れた城壁、逃げ惑う人々。そしてその混乱の中でなお、必死に抗う者たちの姿があった。
「……また、繰り返すのか」
その声に、怒りはなかった。
悲しみも、希望も、憎しみも、なかった。
ただ、問いとして。
言葉にならない叫びのように、かつての光景と今が重なり、ぽつりと洩れたのだった。
——そのときだった。
影が揺らぎ、風が止まった。
背後に何かが立っている。
放浪者が振り返るよりも早く、何かが彼の胸を貫いた。
赤黒い棘のような刃。それは、何の予兆もなく、音すら立てずに突き刺さった。
「……そうか」
言葉は震えていたが、声に恐怖はなかった。
そのまま、魔族は無言で、さらに一突き、また一突きと刃を繰り返す。
背中から腹を貫く一閃。胸元から喉を突き上げる一撃。
放浪者の体が揺れ、膝が崩れ、それでも魔族は止めなかった。
刃を引き抜き、再び刺す。
何の怒りも、何の声もなく。ただ、機械的なまでに無表情に。
血が滲み、衣を染めても、放浪者は呻き一つ漏らさなかった。
動かなくなった身体を見下ろして、魔族は数秒の沈黙を置いたのち、ふと気配を霧のように消し、闇に溶けるようにして姿を消した。
あとには、崩れ落ちた放浪者の骸と、空気のひび割れるような冷たさだけが残された。
*
矢が風を裂き、魔法が木々を焦がす。
森の静寂はとうに破られ、代わりに忍び寄る殺意と焦げた土の匂いが満ちていた。
「くっ……!」
ドルンが叫びながら、盾のような斧で飛来する矢を叩き落とす。その背を守るようにドワーフ達が展開し、反撃の機会を窺う。
一方、リンは素早く身を伏せると、眉を寄せた。矢の軌道が、あまりにも正確だった。……狙っている。彼女だけを。
「そういうことなら……」
空気が軋んだ。
リンの掌に宿った雷は、青でも白でもない。
かつて、誰よりも先にそれを抱いたとされる紅い稲妻。
「……貫けっ!」
赤く輝く雷が森を裂き、樹上に潜んでいた数名の教徒を灼き落とした。
短い悲鳴と共に、葉が燃え、煙が立ち昇る。
その刹那、耳障りな声が響いた。
「上位個体、門番だけでなく!」
レドだった。
人間ともエルフともつかぬ風貌に、異様な薄笑い。そしてその瞳は、まるで捕らえた獲物を見つめる獣のそれ。
「門番、上位個体、どちらも!」
意味を成さぬ単語が唇からこぼれ続ける中、レドの身体が不自然に歪み、跳ねるようにしてリンへと飛びかかってくる。
「ッ、来るな……!」
雷を構え直すリン。
だが、レドの速度は速い。風を裂き、矢を避けるように動きながら、まっすぐに彼女を――その“雷”を、狙っていた。
「ドルン、援護を!」
リンの声に反応し、ドワーフの斧がうなりを上げる。次の瞬間、雷が再び空を裂き、レドの動きを一瞬止めた。
その隙にリンは後退する。
「奴の狙いは、やっぱり私!」
だが、それを確認する暇はない。
レドは雷に焼かれながらも、炎の中からなお笑っていた。
*
「――上位個体!」
レドの叫びが脳裏に残響のようにこびりつく。焼かれた皮膚から立ち上る煙をものともせず、彼はなおも這い寄るようにこちらへと歩を進めていた。
その姿を見て、リンの胸奥が冷たくざわつく。「上位個体」に、確かな既視感があった。
(あの光を得てから……)
思考が深淵に沈む。
ヴィリスの森で、紅い光が自らに宿ったその日から、彼女は夜ごと、同じ夢を見ていた。
夢の中――
彼女は霧の深い空間に佇んでいた。
そして、必ずそこに現れる少女がいた。
言葉を発さない。雷の音だけがする。
ただ、じっと、静かにこちらを見ている。
その目には怒りも喜びもなかった。ただ、あまりにも深く、見下ろすように――神のように、そこに在った。
リンは初め、彼女を「精霊」だと考えた。
だが、それはすぐに否定される。
放浪者がかつて言った言葉を、彼女は覚えている。
「雷と語らう者。祈りを拒絶した者。紅雷の神。」
意味の通らぬようで、確かな指針を持った言葉。
あの少女は、確かに“名前”を持っている。
ただの夢などではない、意志ある何か――この世界の法則にすら背を向けるような存在。
その存在が、紅い光を彼女に与えたのだ。
「……上位個体。」
リンは呟いた。
「そうか。狙われているのは私じゃない。この力……“あの少女”に由来する何かを、魔族は探している。」
自らが“鍵”であるという感覚。
自身が“目”であり“手”であると誰かに定められているような違和。
「リン、下がれ!」
ドルンの怒声が耳を打つ。しかし身体が動かない。それは恐怖や硬直ではなく――ただ、意識が深く、沈んでいたからだ。
目の前にレドが迫ってくる。
その姿が奇怪な影を引きずり、森の静寂を引き裂くように――けれど、その動きが、奇妙な遅さを伴っていた。
(……あれ?)
リンはまばたきをした。
だが、レドの伸ばした腕が、まるで水中で動くかのように、じわじわとしか迫ってこない。
(まるで、時が……)
止まったかのようだった。
その瞬間――雷鳴のような衝撃が走る。
森の陰から、否、リンとレドの間の“虚空”から、ひとりの少女が現れた。
それは夢で見たあの少女だった。
白銀の髪は風もないのに揺れ、淡い光を纏いながら、ただ静かに歩いている。
全ての音が、消えていた。
風も、鳥も、レドの呻きも、ドルンの声も、何一つ聞こえなかった。
――雷の音だけが、そこに在った。
少女は口を動かさない。
ただ、彼女の周囲で、微かな稲光が踊る。
空気が裂けるような雷の“旋律”が、まるで詩のように流れてくる。
(貴女は……だれ……)
声にならない声。問いにすらなっていない呟きを、リンは口の中で結ぶ。
少女はそれに応えるように、光の粒子を散らす。「名」を持たないその存在は、かつて放浪者が語ったように、「雷と語らう者」「紅雷の神」「祈りを拒絶した者」――
けれど、そのどれでもなく、同時に全てだった。
“呼び寄せる、そう言ったでしょ。”
稲光がそう語る。
“繰り返そうしている彼らを私は止められなかった。でもあなたは違う、1人でだけでなく周りへ手を伸ばせたあなたなら。”
リンの胸の奥で、何かが脈打った。
“魔族に取り憑かれた者を、討たないこと”
リンは眉をひそめる。
(それは、救えるということ?)
“――攻撃してはならないの”
少女の声音は、まるで遠くで鳴る雷のように脆く、しかし芯のある響きでリンの心に届く。
“精霊よ、あの子達に話しかけて。精霊は……すべてに作用する”
(すべて……?)
“土に、風に、命に、そして祈りにすら”
(でもなぜ……なぜ、精霊に語りかければ魔族に作用するの?)
少女は少しだけ、肩を震わせた。
問いを無視するわけではなく、それに答えることができない者のように。
“それを知るには……まだ、あなたの雷は幼すぎる”
あまりに突拍子もない話にリンはひとり、眉を顰めそうになる。
(……貴女は、いったい何者?)
思わず漏れた問い。
その声音に、少女は静かに目を伏せ、風に舞う髪を整える仕草をする。
“最初のエルフ”
答えはあまりにも簡素で、あまりにも重かった。
(最初……? 私たちの始まり……?)
リンの胸に、遺跡の記憶が蘇る。
かつて訪れた、崩れた部屋。
中空の人型の筒、まるで命を抜かれた抜け殻たち。セイロスが繋げた可能性の話。
――あれは。
「貴女は、あの……エルフを生み出す施設と関係があるの……?」
少女は少しだけ視線を外す。
その横顔は、まるで罪でも思い出すかのように、痛々しいまでに静かだった。
“だから私は祈りを……捨てた”
言葉が雷の音と共に、空間に流れ込む。
リンは戸惑いの中で、少女を見つめ続けた。
少女の言葉は意味を含んでいた――だが、すべてを語ってはいなかった。
(祈りを……捨てた?)
その言葉の裏には、確かな拒絶と、抗いがある。施設が“祈り”によって作られていたとすれば、彼女はその祈りを拒み、形なき神に背を向けた者――
そう思った瞬間、少女はふいに消えた。
空気が爆ぜ、時間が流れを取り戻す。
レドの爪が迫り、ドルンの叫びが重なった。
けれど次の瞬間――
「っ!」
リンはレドを蹴り、ドルン達の方へ飛ぶ。
蹴られたレドの双眸が紅く染まり、黒い影がその身を蝕むように蠢いていた。矢が空を裂き、教徒たちの声が狂気に満ちた叫びを上げるなか――
リンは、そっと瞳を閉じた。
紅雷が彼女の周囲に走る。
だが、それはもはや敵を焼き尽くすためのものではない。
呼吸と魔力を合わせ、少女の言葉を反芻しながら、リンは“語りかけた”。
──精霊よ。この森に宿りし、名もなきものたち。
──どうか、その声を、震えを、私に聞かせて。
瞬間、森に雷鳴が凪いだ。
淡い光が、空から静かに降り注ぐ。
まるで雪のように、静かに、柔らかく。
それは精霊だった。
これまで目に見えぬ存在であったはずのそれらが、リンの紅雷に導かれ、その姿を顕現させていく。
「……お願い」
リンの言葉に、精霊たちは応じた。
そのうちのいくつかがレドに向かって流れ込む。黒い影が苦悶のようにのたうち、レドの体を包む闇と激しく衝突する。
その時だった。
リンの脳裏に稲妻が走った。
思考が白く焼き尽くされる。
それは痛みではなく、「やらなければならない」という確信だった。
「“浄化”」
その一言と共に、彼女の掌から紅雷が精霊と同調して放たれた。それは攻撃ではなく、穢れを焼き尽くす清めの雷。
雷鳴が轟いた。
そして次の瞬間、静寂が訪れた。
地に伏す魔族の姿。
まだ息はある――だが、レドの面影は無くなっていた。
リンの胸に、少女の声が重なるように響く。
「……精霊は、万物に作用する」