《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
バルコニーに吹く風は、会食の熱気とは対照的に冷たく、心安らぐほどに澄んでいた。
「……こんな時に夜風に当たるなど、王子殿下は随分と風流なこった。」
その声に、エリオットは振り返った。
影の中から、月明かりに浮かび上がる黒いマントの男。
ぼさぼさの髪、粗末な衣。
腰に短剣を差し、片足にわずかに血が滲んでいる。明らかにこの城に属する者ではない。何より、立ち振る舞いに“エリオットの知る常識”がない。
「……誰だ、お前は。」
「通りすがりの義賊、ってとこだ。仕事は済んだんでな、帰る途中だったんだが……どうにも出口を間違えたようだ。」
男は片眉を上げ、気まずそうに頭をかく。
そしてすぐに身を翻し、石の欄干を乗り越えようとする。
「待て。」
思わず、エリオットの声が出た。
自分でも、何が「待て」だったのかわからない。
ただ、その背に――逃げる者ではなく、何かを背負って立ち去る者の姿を見た。
「……なんだ。止めるのか?通報でもするか?」
「いや……名は?」
「名乗るほどの身分じゃねえ。だが、そうだな……“フレイ”とでも呼んでくれ。」
「フレイ。……なぜ“盗む”?」
その問いに、男――フレイはわずかに笑った。
皮肉とも苦笑とも取れる、しわがれた笑いだった。
「じゃあ訊くが、殿下。持つ者が持たざる者に、分け与えるのが当然だって、誰が決めた?
王か?神か?それとも……ただの幻想か?」
エリオットは言葉を失った。
「こっちはな、病気の弟がいて、親もいなくて、食うのにやっとだ。
そっちは、使い切れねえほどの銀食器に、捨てられるほどのパンだ。
俺が盗まなきゃ死ぬ奴がいる。そっちが“許さなきゃいけない”ほどのことかよ。」
夜の風が、二人の間に吹き抜ける。
「……だが、それでも罪だ。そう教えられてきた。」
「そいつを決めてるのが、ここにいる“誰か”なんだよ。」
フレイは、会食の明かりがもれる窓をちらりと見やった。
「“法”と“正義”があいつらの口から語られるとき、俺たちはもう生きていない。
だから俺は、盗む。生きるために。」
エリオットは初めて、自分が座っていた金の椅子の重さを思い出した。
その椅子が誰の背中に乗っていたのかを、考え始めた。
「……フレイ、お前はここにいたことを誰にも……」
「驚いた、こりゃ明日は槍でも降ってくるってか?」
フレイはおどけつつも、バルコニーの欄干に軽やかに足をかけ、下に降りようとする。
しかし、ふと振り返る。
「殿下。あんた、何に迷ってる?」
「……自分が何者なのかを。」
「ならひとつ教えてやるよ。」
フレイは夜の闇に消える寸前、低く笑って言った。
「“知った”やつの方が、地獄を見る。
けどな、知らねえままでいるよりは――
よっぽどマシだ。」
そして、影は月の下に溶けていった。
残されたエリオットは、バルコニーの欄干に手をかけたまま、ただその言葉を噛みしめていた。
彼はもう、元の席には戻れなかった。