《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
人の国から南へ向かえば、旅路はやがて断たれる。
黒く焦げた山々が壁のように連なり、赤く染まった空が、これより先は人の手に余る地であることを語る。
その連峰の名は定かでない。ただ、誰もがそこを“火の山”と呼ぶ。
古の時代、地殻が裂け、大地が吠えたと伝えられる。炎の河が麓を焼き尽くし、進もうとした者たちは、すべてその熱に溶けたという。
それゆえに、人の国は火山を境に南を捨てた。
かの地に何があるのか、今や知る者はほとんどいない。
だが、火山の奥には別の顔があった。
焦熱を抜けたその先に、湯煙が舞う谷がある。
岩の裂け目から湧き出る湯は毒気を帯びておらず、かすかに甘い香りさえ含んでいた。
この温泉地帯は、かつての噴火の名残か、それとも別の力がもたらした奇跡か。
真実は地の奥に沈んでいる。
ただ、そこには一体の竜が棲むという。
名も持たぬ、古き力の残響。
抑止のために造られ、破壊の時代を越えてなお燃え尽きぬ炎の化身。
そしてさらに南へ――
荒野は広がる。
赤錆びた土、灰混じりの風、ひび割れた大地。
かつてここに森があったと語る者もいるが、今では信じがたい。
時折、空を裂く鳴き声が響き、地を這う影が姿を変えながら過ぎてゆく。
それがこの地の“魔物”だ。
魔物とは、知を持たぬ獣である。
だが、ただの獣ではない。角のない蛇に翼が生え、羽虫の群れが一つの意思のように動き、岩のような体に火を灯して突進するものもいる。
彼らは言葉を知らず、群れを作らず、命を喰らうためにのみ動く。
ただ生きる。それだけで脅威となる存在。
この地では、それらと共に生きる者たちがいる。人に似て、されど異なる者たち――
犬の耳と尾を持ち、集落を作る者たち。
猫の目と爪で闇に潜む狩人たち。
鳥の羽根を背に持ち、空を駆ける族もいる。
彼らは獣の力と人の知を併せ持ち、それぞれの種の掟で生きる。
さらに、虫の如き者たちも棲んでいる。
四肢が節を成し、硬い殻に身を包み、群れとして動くアリの民。
罠を張り、糸を張り巡らせる蜘蛛の民。
彼らの目には感情が乏しいが、内には確かな誇りがある。
彼らは魔物に追われ、時に狩り、時に喰われながらも、この荒野に“生きる”という意志を刻みつけている。
人は知らない。
この地にも言葉があり、祈りがあり、火を囲む文化があることを。
彼らはただ、北の空を見ている。
かつてそこから来た者たちが残した“炎”の記憶を。
南方荒野――
それは滅びの果てに芽吹いた、もうひとつの世界。人に忘れられ、けれど確かに、生きている場所。
*
陽が昇るたびに、南方荒野はほんの少しだけ息を吹き返す。火に焼かれ、魔物に脅かされながらも、この地に根ざす者たちは、種を越えて生きる道を見出していた。
巣は静かだった。
地の底に広がる迷宮のような空間には、温もりと秩序があった。
その複雑な構造を築いたのは、アリの民たちだ。
無数の手が土を掘り、壁を固め、風を通し、火を逃がす道を設ける。
誰が命じるでもなく、ただ“群れの意志”が形となって、地の下にもう一つの街を成した。
そこは避難所であり、倉庫であり、拠点であり、故郷でもあった。
地上では、朝の光に白く輝く糸が風に揺れていた。
蜘蛛の民の仕事だ。
あの静かな目をした者たちは、夜のうちに布を紡ぎ、罠を張り、必要なものを編み上げる。
その糸は強く、美しく、触れた者の肌に冷たさを残す。
それでいて、しなやかに風をはらむ布となり、矢を放つ弓の弦ともなる。
戦いと日々のどちらにも役立つ贈り物。
そんな糸を背に、猫の民が森影を駆ける。
その目は昼でも暗がりを見通し、耳は遠くの獣の足音すら聞き逃さない。
彼らはこの地の“牙”であり、“爪”だった。
単独で獲物を仕留め、時に集団で魔物の気配を狩る。
俊敏で、誇り高く、どこか寂しげな戦士たち。
その狩りを終えて戻る猫たちを、犬の民が迎える。
忙しなく動き、荷を運び、水を沸かし、子どもを背負って手を振る。
彼らはこの共同体の“縁”だった。
争わず、けれど折れず、種を越えて心を結ぶ橋のような存在。
高く、遥か空からその営みを見下ろすのは、鳥の民。
彼らは風の流れを読む。
遠くに立つ煙、地鳴り、飛ぶ影。
それを翼の音もなく伝え、すべての種族に危機を告げる。
一つの声が千の耳に届くように。
一つの目が万の道を守るように。
彼らは“同盟”ではない。
誓いを交わしたわけではない。
だがそれでも、言葉なくして成る連帯がここにあった。
*
彼らの中で最も“交流”に長けているのは、犬の民だ。彼らは仕えることを誇りとし、よく働き、よく笑う。
巣の掃除から物資の分配、狩りの手伝いまで、あらゆる場所にその姿がある。時に屋根の上、時に蜘蛛の巣の張る洞で、時に暇そうな猫の民に首を噛まれながら。
彼らは全ての種族に気さくで、臆せず声をかけ、間を取り持つ。メイドや執事のように、種を問わず仕える者たち。
そんな彼らの中心に立つのは、一人の老執事――執事長と呼ばれる男だ。
長く伸びた耳の先に銀の輪を下げ、背筋は誰よりも真っ直ぐ。穏やかに微笑むその男の一声で、彼らが立ち上がる。
猫の民はその正反対に近い。
しなやかで、美しく、誇り高く、そして――怠惰だ。彼らは狩りには絶対の忠誠を誓うが、それ以外には見向きもしない。
会議?荷運び?水汲み?冗談じゃない、と尻尾を巻いて昼寝に戻る。
だが、そんな中にも例外はいる。
若く、鋭い瞳を持つ一人の青年がいる。
名を持つことを良しとせず、ただ「リーダー」とだけ呼ばれる者。
彼は誰よりも誇りを知っている。祖たちの狩猟の技を守り、誰よりも早く、静かに、獲物を仕留める。
その背中を、やがて他の猫たちも黙って追う。
鳥の民は常に空を見ている。
彼らは風と共に生き、戦いの中で己の価値を量る。空より急降下し、槍を手に舞い、叫びで仲間を鼓舞する。
武に誇りを持ち、剣よりも爪、言葉よりも一撃で語る民。
彼らの頂に立つのは、古びた槍を握る老兵――力の長(なが)と呼ばれる男だ。
その羽根はすでに白く、翼に裂傷の痕を幾つも刻んでいる。だが、その一振りには若者たちすら手も足も出ない。
そして虫の民。彼女たちは皆、女性である。
アリの民は重厚な殻に覆われ、整列して歩くその姿はまるで軍勢。
巣を作り、門を守り、道を測り、敵の侵入を許さない。彼女たちの中で、唯一「王」に最も近いのが――次期女王アリと呼ばれる若き指導者。
声はまだ細く、言葉にもたどたどしさがあるが、その目には鋼の意志と揺るがぬ指揮力があった。彼女が指を挙げれば、百の兵が一糸乱れず動き出す。
対して、蜘蛛の民は謎に包まれている。
柔らかな布で口元を隠し、長い指で糸を紡ぎ、
夜には踊るようにして静かに動く。
彼女たちの糸は、戦にも、装いにも、趣向にも、快楽にも通じる。
その美しさと、どこか淫靡な雰囲気に、多くの種族が近づきながらも一歩引いてしまう。
その中心にいるのが、誰もが“マダム”と呼ぶ女。優雅な笑み、指先から糸を流す姿、そして何より、年経た美の中に漂う恐ろしさがあった。
彼女は多くを語らない。だが、彼女の一声で、蜘蛛たちは何もない闇を一夜で館に変える。
他にも多数種族がいるが、その中でも数が多くまとめ役として南の地に生きる者たちだ。
彼らは特に盟約を交わしてはいない。
だが、必要な時に必要な力を出す。
誰かが守り、誰かが狩り、誰かが編み、誰かが仕える。それが当たり前のように成り立っている。
それを「同盟」と呼ぶには、少しばかり形がなさすぎる。
だが、「絆」と呼ぶには、充分すぎるほどに確かなものだ。