《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》   作:ケン3ヴァルデン

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賢人会議

 

「――荷運び班は第三巣路を通り、回避路を避けるように。蜘蛛の貴婦人方に泥をかけてはならぬぞ。礼を忘れるな。鳥の報告には、余裕を持って返答せよ。よろしいか?」

 

低く、通る声。

灰色の毛並みを滑らせた黒いマントが、風に微かに揺れていた。

 

犬種族の中でも最も古株とされるその男――グラウヴァルトは、指揮官のように働き、同時に執事としての礼節と機転を常に纏っていた。

 

彼の耳は常に周囲の声に傾いており、目はわずかな乱れも見逃さない。口数は少なく、命令は的確。だが、冷たくはない。

時に崩れかけた荷を抱える猫の若者に手を貸し、糸に足を取られたアリの娘にさりげなく道を譲る。

 

「美しくない行動は、我々の信用を削る。犬の名にかけて、誠実にあれ。」

 

そう言って背を向けるその姿に、多くの種族が自然と頭を下げる。彼は指揮をする者であり、同時に“全体の調律者”であった。

 

 

草を踏む音もない。

風すら、彼の存在を捉えられない。

 

猫種族の中で、名を捨てた者がいた。

名を持たぬ青年。それが、彼の唯一の呼び名。

かつて「名前」は誇りであった。だが彼はそれすらも土に還した。

 

「狩人は名を持たぬ。獲物に名乗る口はない。」

 

細身の体に、無骨な弓。

蜘蛛の糸から作られた滑らかな黒布を纏い、彼は岩陰から獣を見つめていた。

獲物は魔物――腐肉をまとった鹿のような形。

一歩、また一歩と彼に近づく。

 

呼吸は止まっていた。

世界のすべてが、その瞬間に沈黙した。

 

ピン、と小さく糸が鳴き、

次の瞬間、矢は音もなく魔物の目を貫いた。

 

狩りが終わった。

猫たちはその死体を囲み、軽くうなずいた。

誰も言葉を交わさない。

だが、その場の中心にいる男が“リーダー”であることは、誰もが理解していた。

 

彼が背を向け、次の狩り場へと歩き出すと、

猫たちは音もなくそれに続く。

 

誇りとは、語られるものではない。

ただ、背中で示すものだ。

 

 

「腕が遅い!空に生きる者の名折れだ!」

「お前、くちばしの形に自信があるなら、まず飛び方で見せろ!」

 

広場に響く怒声と、槍の打ち合う音。

砂を巻き上げながら、若き鳥人たちが羽ばたき、回転し、突き刺す。

 

その中央に、傷だらけの翼を持つ老兵が立っていた。

イーグルハルト――かつて“空を裂く咆哮”と恐れられた男。今もなお鋭く光る瞳で若者たちの技を見抜き、鍛え上げている。

 

背には、刃こぼれの激しい鉄槍。

老いてなお、その一撃は雷鳴のように地を穿つ。

 

「剣は心を映す。雑念があれば羽は揺れ、構えが崩れる。お前らはまだ“空に祈られていない”。」

 

吐き捨てるように言いながらも、

訓練後には必ず自ら酒を配り、食料の火を起こしてやる。老兵の不器用な情――それを知る者は、皆黙って従う。

 

「俺が飛べなくなる日が、お前たちが戦う日だ。」

 

それが、彼が若者たちに贈る唯一の誓いだった。

 

 

この三人は、それぞれが“族”の顔である。

優しき執事長、無名の誇り高き狩人、老いてなお空を守る戦士。

 

 

「第五区画、南壁が脆い。補強部隊を二班追加、第二営巣群から資材を回して。」

 

乾いた声が、巣の中に響いた。

次期女王の名はリーネ・フォルミカ。

“フォルミカ”は、代々女王の名を継ぐ者だけが許される名。

その音が告げられると、巣内の兵たちは皆一斉に動きを止め、静かに姿勢を正した。

 

地中深くに広がる幾重もの区画を、アリの民は「構造」と呼ぶ。それはただの住処ではない。

迎撃、避難、保管、出産――すべてが明確に整理され、目的を持って組まれている。リーネは、そのひとつひとつを正確に把握していた。

 

隊長たちが並ぶ前で、彼女は無言のまま図面を広げる。薄暗い空間に、小さな光石が淡く照らし出すその手元には、すでに多くの修正印が重なっていた。

 

「気流が滞る。第三から第六通風路まで貫通させて。避難民が増えている、暑気に備えて冷却層の拡張も。」

 

細く、だが揺るがぬ指示。

兵たちは何も問わず、すぐさま持ち場へと散っていく。

 

リーネはまだ若い。身の丈も高くはなく、声も大きくない。だがその眼差しに込められた責任感と統制力こそが、アリの民の「次代」を形作っていた。アリの名を継ぐにふさわしいその姿は、誰よりも静かで、そして誰よりも強かった。

 

 

酒の香りと果実の甘い匂いが入り混じる、薄暗い石造りの廊下を、彼女は音もなく歩いていた。

 

マダム・アシュレー

誰も彼女を“女王”とは呼ばない。だが、蜘蛛の民で彼女に逆らえる者はいない。

 

口元を薄い黒布で覆い、絹のような衣を纏った彼女は、どこか異国の香りを纏っている。

その姿は常に柔らかく、艶やかで、どこか“危うさ”すら感じさせる。だがその手には、あらゆる生活の鍵が握られていた。

 

蜘蛛の民は糸を扱う。だがそれだけではない。

繊細な手先を活かして、瓶詰めの酒、乾燥保存食、果物や根菜の栽培に至るまで――

南方の“食”と“癒し”は、ほぼすべてが彼女たちの手から生まれる。

 

「今年の石苺は小ぶりね……水路、少し絞ったかしら。」

 

畑地に視線を落としながら、アシュレーは一人、手帳に走り書きを続ける。口数は少ないが、常にすべてを“把握”している。誰が何を摘み、何を仕込み、どの瓶が今夜の酒場で空になるか。彼女は全てを記録し、全てに目を通す。

 

やがて、温かな灯りの集まる地下の一角――蜘蛛の酒場に辿り着く。

 

ここは安らぐ場所。各種族が集い、静かに盃を交わす夜の社。

 

アシュレーは軽く片手を挙げて、笑顔も見せずに静かに酒場の帳簿を受け取る。

それだけで、周囲の者たちは空気を整え、空いた器が音もなく回収される。

 

「人は、戦で死ぬだけじゃないの。疲れて、崩れて、それきり……ってこともあるのよ。」

 

彼女がそう言う時、その声は布越しでも柔らかく、深く、なにより魅入られたように響いた。

 

癒しの象徴でありながら、

誰よりも鋭い知性と、時に残酷なまでの采配を持つ。

 

 

 

蜘蛛の酒場本店

深き岩盤の下に設けられたこの空間は、単なる憩いの場ではない。夜ごと各種族の者たちが集まり、静かに火を囲む場所。そして、月に一度だけ、特別な役割を持つ。

 

それが「賢人会議」

荒野に生きる五つの種族の代表が集い、言葉を交わす夜。

 

天井には柔らかな糸で編まれた灯籠が吊るされ、その揺らめきが灰色の石壁に静かな模様を描いている。

 

テーブルは円形。

誰が上座でもなく、誰が下座でもない。

それが、ここでの掟だった。

 

マダム・アシュレーは席の中央に立ち、柔らかく一礼する。

 

「ようこそ。相変わらず気取る場でもないけれど、せめて敬意だけは持って始めましょう。」

 

それを皮切りに、報告が一つずつ、重ねられていく。

 

鳥の民の老将――イーグルハルトは、

「西の稜線、風の流れが乱れている。嵐の兆しあり。空路の偵察に二羽を失ったが、補充済みだ」と冷静に述べた。

 

犬の執事長――グラウヴァルトは、

「物資の仕分けと巣路の交通整理に問題なし。

アリ族との連携は今月も滑らか。次回、蜘蛛糸荷台の補強を要請したい」と記録をめくりながら語った。

 

アリの次期女王――リーネ・フォルミカは、

「第五区画は拡張完了。冷却層と換気口の調整も済。ただし幼生室の保温石が不足。交換手配をお願いしたい」と明瞭に告げる。

 

マダム自身も果樹畑の収穫量や、保存庫の酒瓶数、地下の浄水槽の検査結果まで静かに報告していった。

 

そして、最後に話す者。

 

猫の民の“無名のリーダー”は、報告書も持たず、ただ静かに立ち上がると、椅子を押す音さえ立てずに語った。

 

「……東の狩場で1人を除き全て、戻らなかった。」

 

短く告げたその言葉に、場の空気がひやりと冷えた。

 

「死は初めてではない。だが――殺した“何か”は、見たことがない形だった。」

 

彼は目を伏せ、言葉を慎重に選んだ。

 

「黒く、角があり、足が六本。大きく、動きは速い。噛み跡には時間が経ってなお毒があった。爪で削られた石には、熱の痕があった。

……伝承にも、記憶にも、ない存在だ。」

 

誰もすぐには口を開かなかった。

火の音だけが、酒場の静寂に弾けていた。

 

やがて、グラウヴァルトが重く呟いた。

 

「この荒野は、我々が知る以上に深い。

生き残った者の記憶だけで、すべてを測ることはできぬ。」

 

アシュレーが杯を伏せ、目元の布を指で整える。

 

「犠牲者は?」

 

「“集めて”埋葬した」と、猫の青年は答える。

 

イーグルハルトが唸るように言った。

 

「……戦うか、逃げるか。それを決めねば、次は誰の命が奪われるかもわからん。」

 

蜘蛛の酒場は、いつになく静かだった。

杯は干されず、酒も冷めたまま。

火の揺らぎの奥に、“未知なる死”の影がちらついていた。

 

「……議論の余地はある。だが、我々はまだ、共に在ることを選んでいる。」

 

リーネ・フォルミカが、はっきりとそう告げた。

 

それが、この地に生きる者たちの誇りだった。

“同盟”ではなくとも、逃げるべきではない。

そう思う者が、そこには確かにいた。

 

会議は深夜まで続いた。

それぞれが語り、記録し、静かに決断へと近づいていく。

 

そして、“その魔物”の名なき影が、南方荒野の運命を揺るがせる最初の夜だった。

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