《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》   作:ケン3ヴァルデン

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竜祭の月

 

 

風が緩み、陽がほんのりと山肌を照らす頃――

南方荒野は、一年でもっとも色彩に満ちる季節を迎えていた。

 

「竜祭」

それは半年に一度、すべての種族が集い、火山に広がる温泉地帯へと赴く大いなる行事。

 

供物は酒、布、香り、音、色。

どれもが、この荒野に生きる者たちが己の“誇り”として捧げるもの。

 

“火を纏いし、静かなる龍”――

その者に向け、一月ものあいだ、食を運び、音を響かせ、灯を絶やさず、

ただただその気まぐれなる沈黙に敬意を捧げ続ける。

 

それは信仰ではなく、生存と誓いの象徴だった。

 

 

蜘蛛たちは早朝から、酒瓶の選定に余念がない。

「今年の発酵はよろしい出来。香りの余韻が長いの。これなら、きっと“お眼鏡”に叶うわ」

 

マダム・アシュレーが手にした銀色の盃に、薄く琥珀の液が揺れる。

若き蜘蛛の娘たちはそれを囲み、香を聞き、布に酒を染ませて封じていく。

 

犬族たちは、それを巣路まで丁寧に運び、破損がないよう重ねて包み込む。

「繊維を強化した緩衝材を使うように。鳥族の織った羽布を内側に。振動にも対応できる」

 

グラウヴァルトの指揮は的確だった。

彼の部下たちが笑顔で働き、すれ違うたびに軽く頭を下げ合う姿は、まるで王宮の給仕場のようでもある。

 

アリ族は区画整備と仮設の祭殿建設に取り掛かっていた。

統制の取れた動き、響き渡る足音、寸分狂わぬ整列。

リーネ・フォルミカは陣頭に立ち、進捗を淡々と記録していた。

 

「中央台座の石板は今日中に整形を。温泉への道標も明日までに仮設しておいて。」

 

鳥の民は、晴れ間を縫って上空から警戒と観光誘導の両方を担う。

空を飛ぶ者ならではの視野で、道に迷いかけた猫を助け、群れを避けながら祝賀の旗を掲げていく。

 

「今年の飾りは風が読めておる。風向き変えの術旗も用意しとけ。」

 

イーグルハルトの声が響けば、若き鳥人たちは誇らしげに羽ばたいた。

 

そして猫族は――相変わらず怠惰だった。

 

が、祭りが“祭り”である以上、彼らの存在は欠かせなかった。

彼らの狩った獲物は供物の中心となり、

その皮は蜘蛛が加工し、骨は鳥族が彫り飾る。

 

「んー……この鹿じゃちょっと見劣りするな。もっとこう……角がイカしてるやつ欲しいんだよな」

 

気だるげに寝そべりながら、無名の青年が手にした獣骨を吟味している。

それでも、彼の周囲には常に仲間が集まり、冗談と笑いが絶えなかった。

 

やがて、温泉地帯の空気が、ほんのりと硫黄と草木の香りを混ぜはじめる頃。

遠く、龍の眠るとされる岩座が、ぼんやりと温もりを発し始める。

 

「……今年も、始まるわね。」

 

マダム・アシュレーが小さく呟いたその言葉を、誰もが、確かに耳の奥で感じていた。

 

竜はいつも姿を現さない。

だが供物がいつのまにか消え、誰もがそれを“見た”という感覚を持つ。

 

かつてすべてを焼き払い、それでもなおこの地に留まり続けた存在。供物を捧げることは、過去と向き合うことでもあった。

 

喧騒と静謐が溶け合う、奇跡のような月。

それが、「竜祭」のはじまりだった。

 

 

温泉地帯に、湯けむりが立ち昇る。

昼は陽に照らされて白く揺れ、夜は月に照らされて銀に踊る。その一帯が、いまや笑い声と音楽、匂いと熱気に満たされていた。

 

岩肌に設けられた仮設の足場では、

猫族の若者たちが瓶を掲げて踊り、

蜘蛛の娘たちが色彩豊かな布を翻しながら練り歩く。

アリ族の子らが行列をなし、食べ物を運び、

鳥の少年が上空から花を撒いた。

 

「うおっ!?落ちてきた!」

「葉っぱか……じゃねぇなこれ、花か!」

 

湯の縁でくつろぐ犬族の青年が笑い、傍らで泡を掬っていた鳥族の娘がつられて笑う。

 

温泉は、大きく三つに分かれていた。

もっとも湯温の高い「深湯」は鳥族と猫族に人気があり、中ほどの「香湯」は蜘蛛族と犬族が好んだ。

もっとも浅くてぬるい「静湯」は、アリ族の者たちが腰を落ち着けていた。

 

「この香り……柚子だな。今年も蜘蛛が用意したか。」

「いいえ、今年は果皮と花を一緒に浸けたものだそうです。」

 

湯に浸かりながら、執事長グラウヴァルトは優雅に返す。

横では猫族の青年がすでに半分寝かけており、

その毛並みに花びらがふわふわと絡んでいる。

 

「お前、祭りの間ずっと風呂に入る気か?」

「祭りってのはな……働かない日だ。」

「……まったく。」

 

鳥族のイーグルハルトが苦笑し、湯から立ち上がる。

背には無数の傷跡、その中でも一際深いものを手で押さえるようにして、彼は空を見上げた。

 

「そろそろだな。」

 

 

仮設された石造りの祭壇へ、五人の“賢人”が集う。

 

夜の風が、湯けむりの香を撫で、松明の灯りが、五人の影を岩の壁へと映し出す。

 

中央に設けられた供物台には、それぞれの種族が用意した“贈り物”が整然と並べられていた。

 

まず、アリ族のリーネ・フォルミカが一歩前に出る。彼女は緋色の布に包まれた、無数の“精密な石細工”を供える。

 

「私たちの礎です。どうか、今年もこの地を守る指標となりますように。」

 

次に、犬族のグラウヴァルト。黒革の包みを開くと、そこには特製の酒瓶と、丁寧に磨かれた銀製の盃が二つ、静かに光を放っていた。

 

「貴方の喉が乾いていようが、いまいが。我らは、杯を用意し続けましょう。」

 

三番目、鳥族のイーグルハルトは、羽根で編まれた赤と金の装飾布を両手で捧げる。

 

「この布は空の流れを読む術。願わくば、貴方が風を忘れぬよう。」

 

次いで、蜘蛛族のマダム・アシュレーが滑るように進み、小さな香炉と、艶やかな紅の瓶を祭壇へ。

 

「匂いは記憶。味は記憶。貴方の眠りに、香りと甘さが寄り添いますように。」

 

最後に、猫族の青年――名を捨てた男が、すでに酔いの混じった笑顔で、ぼろ布に包まれた骨の装飾品を投げるように置いた。

 

「これは、彼らの残した狩りの証だ。そいつの骨も、たぶんお前に笑って欲しいだろうからな。」

 

五人が並び、静かに頭を垂れる。

 

背後では、各種族の者たちが湯の中から立ち上がり、それぞれの形で、祭壇を仰いだ。

 

音もなく、風が吹く。

 

誰も言わないが、すべての者が思っている。

 

今年も、無事にこの地で、生きていられますように。そして、竜よ。お前もまた、この静かな地を愛し続けていてくれますように。

 

供物の灯りが、ゆらゆらと揺れ、

その奥で、かすかに湯が泡立った。

 

それは、龍の吐息なのか、

それともただの湯の気まぐれなのか。

 

誰にも、わからなかった。

 

だが、祈りは届いた。

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