《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
風が緩み、陽がほんのりと山肌を照らす頃――
南方荒野は、一年でもっとも色彩に満ちる季節を迎えていた。
「竜祭」
それは半年に一度、すべての種族が集い、火山に広がる温泉地帯へと赴く大いなる行事。
供物は酒、布、香り、音、色。
どれもが、この荒野に生きる者たちが己の“誇り”として捧げるもの。
“火を纏いし、静かなる龍”――
その者に向け、一月ものあいだ、食を運び、音を響かせ、灯を絶やさず、
ただただその気まぐれなる沈黙に敬意を捧げ続ける。
それは信仰ではなく、生存と誓いの象徴だった。
*
蜘蛛たちは早朝から、酒瓶の選定に余念がない。
「今年の発酵はよろしい出来。香りの余韻が長いの。これなら、きっと“お眼鏡”に叶うわ」
マダム・アシュレーが手にした銀色の盃に、薄く琥珀の液が揺れる。
若き蜘蛛の娘たちはそれを囲み、香を聞き、布に酒を染ませて封じていく。
犬族たちは、それを巣路まで丁寧に運び、破損がないよう重ねて包み込む。
「繊維を強化した緩衝材を使うように。鳥族の織った羽布を内側に。振動にも対応できる」
グラウヴァルトの指揮は的確だった。
彼の部下たちが笑顔で働き、すれ違うたびに軽く頭を下げ合う姿は、まるで王宮の給仕場のようでもある。
アリ族は区画整備と仮設の祭殿建設に取り掛かっていた。
統制の取れた動き、響き渡る足音、寸分狂わぬ整列。
リーネ・フォルミカは陣頭に立ち、進捗を淡々と記録していた。
「中央台座の石板は今日中に整形を。温泉への道標も明日までに仮設しておいて。」
鳥の民は、晴れ間を縫って上空から警戒と観光誘導の両方を担う。
空を飛ぶ者ならではの視野で、道に迷いかけた猫を助け、群れを避けながら祝賀の旗を掲げていく。
「今年の飾りは風が読めておる。風向き変えの術旗も用意しとけ。」
イーグルハルトの声が響けば、若き鳥人たちは誇らしげに羽ばたいた。
そして猫族は――相変わらず怠惰だった。
が、祭りが“祭り”である以上、彼らの存在は欠かせなかった。
彼らの狩った獲物は供物の中心となり、
その皮は蜘蛛が加工し、骨は鳥族が彫り飾る。
「んー……この鹿じゃちょっと見劣りするな。もっとこう……角がイカしてるやつ欲しいんだよな」
気だるげに寝そべりながら、無名の青年が手にした獣骨を吟味している。
それでも、彼の周囲には常に仲間が集まり、冗談と笑いが絶えなかった。
やがて、温泉地帯の空気が、ほんのりと硫黄と草木の香りを混ぜはじめる頃。
遠く、龍の眠るとされる岩座が、ぼんやりと温もりを発し始める。
「……今年も、始まるわね。」
マダム・アシュレーが小さく呟いたその言葉を、誰もが、確かに耳の奥で感じていた。
竜はいつも姿を現さない。
だが供物がいつのまにか消え、誰もがそれを“見た”という感覚を持つ。
かつてすべてを焼き払い、それでもなおこの地に留まり続けた存在。供物を捧げることは、過去と向き合うことでもあった。
喧騒と静謐が溶け合う、奇跡のような月。
それが、「竜祭」のはじまりだった。
*
温泉地帯に、湯けむりが立ち昇る。
昼は陽に照らされて白く揺れ、夜は月に照らされて銀に踊る。その一帯が、いまや笑い声と音楽、匂いと熱気に満たされていた。
岩肌に設けられた仮設の足場では、
猫族の若者たちが瓶を掲げて踊り、
蜘蛛の娘たちが色彩豊かな布を翻しながら練り歩く。
アリ族の子らが行列をなし、食べ物を運び、
鳥の少年が上空から花を撒いた。
「うおっ!?落ちてきた!」
「葉っぱか……じゃねぇなこれ、花か!」
湯の縁でくつろぐ犬族の青年が笑い、傍らで泡を掬っていた鳥族の娘がつられて笑う。
温泉は、大きく三つに分かれていた。
もっとも湯温の高い「深湯」は鳥族と猫族に人気があり、中ほどの「香湯」は蜘蛛族と犬族が好んだ。
もっとも浅くてぬるい「静湯」は、アリ族の者たちが腰を落ち着けていた。
「この香り……柚子だな。今年も蜘蛛が用意したか。」
「いいえ、今年は果皮と花を一緒に浸けたものだそうです。」
湯に浸かりながら、執事長グラウヴァルトは優雅に返す。
横では猫族の青年がすでに半分寝かけており、
その毛並みに花びらがふわふわと絡んでいる。
「お前、祭りの間ずっと風呂に入る気か?」
「祭りってのはな……働かない日だ。」
「……まったく。」
鳥族のイーグルハルトが苦笑し、湯から立ち上がる。
背には無数の傷跡、その中でも一際深いものを手で押さえるようにして、彼は空を見上げた。
「そろそろだな。」
*
仮設された石造りの祭壇へ、五人の“賢人”が集う。
夜の風が、湯けむりの香を撫で、松明の灯りが、五人の影を岩の壁へと映し出す。
中央に設けられた供物台には、それぞれの種族が用意した“贈り物”が整然と並べられていた。
まず、アリ族のリーネ・フォルミカが一歩前に出る。彼女は緋色の布に包まれた、無数の“精密な石細工”を供える。
「私たちの礎です。どうか、今年もこの地を守る指標となりますように。」
次に、犬族のグラウヴァルト。黒革の包みを開くと、そこには特製の酒瓶と、丁寧に磨かれた銀製の盃が二つ、静かに光を放っていた。
「貴方の喉が乾いていようが、いまいが。我らは、杯を用意し続けましょう。」
三番目、鳥族のイーグルハルトは、羽根で編まれた赤と金の装飾布を両手で捧げる。
「この布は空の流れを読む術。願わくば、貴方が風を忘れぬよう。」
次いで、蜘蛛族のマダム・アシュレーが滑るように進み、小さな香炉と、艶やかな紅の瓶を祭壇へ。
「匂いは記憶。味は記憶。貴方の眠りに、香りと甘さが寄り添いますように。」
最後に、猫族の青年――名を捨てた男が、すでに酔いの混じった笑顔で、ぼろ布に包まれた骨の装飾品を投げるように置いた。
「これは、彼らの残した狩りの証だ。そいつの骨も、たぶんお前に笑って欲しいだろうからな。」
五人が並び、静かに頭を垂れる。
背後では、各種族の者たちが湯の中から立ち上がり、それぞれの形で、祭壇を仰いだ。
音もなく、風が吹く。
誰も言わないが、すべての者が思っている。
今年も、無事にこの地で、生きていられますように。そして、竜よ。お前もまた、この静かな地を愛し続けていてくれますように。
供物の灯りが、ゆらゆらと揺れ、
その奥で、かすかに湯が泡立った。
それは、龍の吐息なのか、
それともただの湯の気まぐれなのか。
誰にも、わからなかった。
だが、祈りは届いた。