《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》   作:ケン3ヴァルデン

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湯煙に立つ、灰の姫君

 

 

供物の儀が終わり、夜の静けさが戻りかけたその瞬間だった。

突如、温泉の奥深くから――音ではない“気配”が立ちのぼった。

 

空気が震え、湯けむりが渦を巻く。

石がかすかに鳴動し、誰ともなくその方角を振り返る。

 

「……うそ」

 

それはマダム・アシュレーの唇から、無意識にこぼれた言葉だった。

 

そして湯の中心――もっとも深く、もっとも熱き地より、銀白の鱗を持つ巨竜が、ゆるりと姿を現した。

 

美しくも恐ろしい、優美にして峻烈。

その身体は炎ではなく“灰”を纏い、瞳は月の光のように冷たく光る。

 

それが、この地に眠る守りの竜――灰の王

 

巨体が音もなく地へ降り立つと、五人の代表は息を呑んだ。

 

「長らく、贈り物を届けに来てくれていたな。」

 

その声は、低く岩を擦るような重音に、鈴を仕込んだような響きがある。

 

「我に見返りを求めるなとは言わぬ。だが感謝というものは、礼を言わずとも、身に染みる。」

 

五人は跪き、誰もが言葉を探せずにいた。

 

竜はひとつ、ため息のように鼻から熱を吐き、

そのままくぐもった声で告げた。

 

「続けたいのなら、好きにしろ。我は止めぬ。面倒でも捨てはしない。」

 

するとその場に重く垂れこめていた空気が、一瞬で光へと変わった。

まばゆい閃光の中、竜の巨体が緩やかに縮み、

光の粒が衣を紡ぎ、髪を流し、肌を露わに変えていく。

 

やがてそこに立っていたのは――

人の姿となった、ひとりの女性だった。

 

長い銀髪をゆるく結い、琥珀色の瞳を湯煙に透かしながら、艶やかな唇に酒の瓶を当てて一口含む。

 

「ふぅ。居ぬものとでも思っていたか?ずっと見ていたぞ。お前らの賑わいも、供物の山もな。」

 

声の艶やかさは変わらず、だが今は肌に近く響いた。そのまま彼女は、しなやかな足取りでマダム・アシュレーに近づき匂いを嗅ぐ。

 

「……お前の香り、特にいいな。」

 

マダムは目元に微笑を浮かべ、扇で口元を覆ったまま静かに応じる。

 

「お気に召しましたなら、光栄ですわ。

けれどこれは、“秘香”……そう易々とは。」

 

「そうか――」

 

竜の女は、くすりと笑った。

 

「ならば“交渉”といこう。」

 

そして酒瓶をもう一口。

唇の端に艶やかに残る琥珀色の滴を、親指でぬぐって見せた。

 

「いつもすまんな。こうして“姿を見せる”のは、どうにも骨が折れる。」

 

それでも、と彼女は目を細めて言った。

 

「……生きてる奴らと顔を合わせるのも、たまには悪くない。」

 

灰の王は、そう言って、再び空を見上げた。

 

湯けむりと星明りの間に、

“ただ一夜限りの、火と灰の姫”が静かに立っていた。

 

 

夜も更け、湯けむりが淡く沈んでいく頃。

賑わいを終えた祭壇の奥にて、五人の代表と、灰の姫グレイ・セレスティアが静かに向かい合っていた。

 

琥珀の瞳に酔いを浮かべながらも、その言葉は、すべてを焼き尽くす炎のように容赦なかった。

 

「交渉をしようかと思ってな。」

 

そう言った瞬間、五人の背筋がぴんと張る。

だが、グレイ・セレスティアは片手で空になった酒瓶を地に転がしながら、

まるで天気の話でもするかのように、静かに続けた。

 

「この数日、あの“もの”がこの地を彷徨いている。魔物でも、魔族でも、どちらとも言い切れぬ異形。」

 

「……魔族?」

グラウヴァルトが口を開いたが、姫は首を振った。

 

「魔族など、どうでもいい。飢えて、苦しんで、何かを探している……それが問題だ。」

 

瞳に微かに宿る、見下ろすような鋭さ。

 

「私が動けば、あれを焼くのは容易い。けれど、ひとつだけ――“条件”を付けよう。」

 

言葉を止めた彼女に、誰もが続きを待った。

 

やがて、グレイ・セレスティアはひとつ吐息を洩らし、火山風に髪をなびかせながら、静かに言った。

 

「――ある男を、探してほしい。」

 

五人の視線が揃って動く。

 

「名前は無い。姿も……もう、わからなくなった。けれど、旅をしている。彷徨い、何かを追い、何かから逃げている。」

 

その声には、酒では消えない“寂しさ”が滲んでいた。

 

「……昔、私を“娘”と呼び、“罪の墓標”と呼びわたしの傍にいてくれた男だ。」

 

誰も口を挟めなかった。

その言葉が、あまりに個人的で、あまりに切実だったからだ。

 

「その男を、もう一度だけ、見ておきたい。」

 

手を合わせるでもなく、頭を下げるでもなく。

それでも、そこに在ったのは――真の願いだった。

 

「あれには私が力を貸す。だからあの人を探してくれ……ただ、それだけだ。」

 

彼女はゆるりと背を向け、温泉の湯へと脚を戻していく。

 

「“交渉”とは便利な言葉だな。こちらの望みを押しつけながら、それっぽく聞こえる。」

 

水音が、その呟きと共にゆるく夜に溶ける。

グレイ・セレスティアの背は再び湯けむりの向こうへと沈んでいった。

 

 

湯けむりの向こうに、竜の姿が再び溶けて消えたあと。温泉地帯に残されたのは、微かに香る香油と、言いようのない緊張の余韻だった。

 

しばらくの沈黙のあと、最初に口を開いたのはイーグルハルトだった。

 

「……本当に、“竜”だったのだな。」

 

その声は、驚愕というよりも“確信に至った者の声”だった。長く荒野を見守ってきた老兵の眼が、どこか怯えすら帯びている。

 

「我々が拝してきたのは“気配”や“加護”の象徴……だが、あれは――」

「間違いなく、生きていた。“在る”のだ、竜が。」

 

グラウヴァルトが呟くように言った。

眉間に深く皺を寄せながら、掌を見つめている。長年の理性が、神話と現実の境界を溶かされていた。

 

「香り……本当に、嗅がれていたのね……」

 

マダム・アシュレーは扇をゆるく揺らしながら、口元に笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。

艶やかな眼差しの奥で、静かに何かが揺れていた。

 

「……問題は、“探し人”よ。」

 

言葉を繋いだのは、アリ族の次期女王リーネ・フォルミカだった。

彼女は指を組みながら、淡々と議題を整理するように言った。

 

「名もなく、姿も分からず、旅をしているという……情報としてはほぼ皆無に等しい。」

「しかも、“竜を娘と呼んだ男”だ」

 

猫の青年は木の根に座り込んだまま、眠たげな目を見開いた。

 

「どういうこった……つまり、育ての親ってことか?」

「彼女の言葉には、どこか“世話された側”のような響きがあった」

「……あの竜が?」

 

グラウヴァルトが鼻を鳴らした。

 

「それが真なら、尋常な関係ではないな。人に竜の世話ができるかどうかも疑わしい。」

「おそらく可能よ」

 

イーグルハルトにマダムが静かに言った。

 

「竜は、今の様に“人の形”を取った。知性があるなら、愛し、喪い、探すことだって……ある」

 

その言葉に、四人が黙った。

 

マダム・アシュレーは、扇を閉じて胸元に当てる。

 

「――もし、その男がまだこの荒野にいるのなら。我々は、この依頼を“断れない”。……魔物の討伐と引き換えに、彼を見つけるという契約だから。」

「だが、問題はどこから手を付けるか、だな」

 

イーグルハルトが腕を組み、鋭い目で周囲を見渡した。

 

「旅人――それらしい者を探るなら、鳥族の偵察網と、蜘蛛族の記録が要になる」

「うちの倉庫に、過去の分の往来記録があるわ」

 

マダムがさらりと言う。

 

「記名のない者も混じっているけれど……探る価値はあるかもね」

「犬族も動こう。祭の記録、供物の運搬に関わった者たちから聞き取りを」

 

グラウヴァルトの言葉に、皆が頷いた。

 

そして最後に、猫族の青年がぽつりと言った。

 

「……それでも、見つかんねぇ気がするな。」

「なぜだ?」

 

リーネが訊ねると、彼は空を見上げたまま答えた。

 

「誰かを探しても、見つかんねぇ奴ってのはいるんだよ。それは、たぶん――“見つかる気がない奴”だからさ。」

 

その言葉に、誰も返すことはなかった。

 

ただ、風が湯けむりを優しく撫でていった。

 

――竜が望んだ男は、いまどこで、何を見ているのか。

――彼が“見つかること”を望んでいるのかすら、誰にも分からなかった。

 

だが、それでも。

 

探さなければならない。

 

竜が願ったからではない。

 

この地に、“灰の姫の寂しさ”が刻まれてしまったからだ。

 

 

それは、夜だった。

荒野を渡る風が乾いていて、星は濁り、空には雲がひとつもなかった。

 

南方の廃れた岩間を、何かが這っていた。

否――歩いていた。だが、それは“人の歩行”ではない。6本の足によって四肢の長さが合わず、筋肉と骨の動きが乖離している。

首は異様にねじれ、顔面はどこかで潰れたように歪んでいる。ただ、眼だけが生きていた。血のような赤に燃え、何かを渇望していた。

 

周囲に散らばるのは、既に“屠られた魔物”たちの骸。

 

喉を裂かれた猛獣、頭を潰された有翼の異形、内臓を引きずり出された蛇型のもの。

それらの残骸を一瞥することもなく、

“それ”――異形の魔物は、目的もなく彷徨うように歩いていた。

 

……否、目的はある。

ある“もの”を探している。

 

それはやがて、風に晒された岩の裂け目に足を止めた。そして、手のようなもの――皮膚の剥がれた腕を差し入れ、

何かを掘り起こす。

 

ザリ、ザリ、と。

 

やがて、掴み上げたのはひとつの“破片”だった。

黒鉄のような色。

だがその表面には、かすかに輝く紋様が浮かんでいる。

 

前文明の痕跡――この地に今も埋もれる“かけら”。

 

“それ”は、それを両手で掲げ、見つめた。

 

……だが、違う。

“それ”の眼が、狂気と失望の境界に揺れる。

喉から、低い呻きが洩れる。

 

違う、違う、違う。

 

違うものだった。

 

違う破片だった。

 

そして次の瞬間――

“それ”は雄叫びと共に、手にした破片を粉々に砕いた。

 

振り下ろされた腕が地を穿ち、破片は数秒のうちに灰と金属片の屑へと変わる。

 

息が荒い。

 

身体が震えている。

 

何かを、探している。

だがそれは、いまだ見つからない。

 

喉を焼くような、飢え。

 

心を削るような、渇き。

 

“それ”は、叫ばずにはいられなかった。

 

「……ォオアァ……アアアアアアア……!!!」

 

だがその全てを、静かに見つめる者がいた。

 

――岩の上、木の影、魔物の正面。

どこにも“いる”はずのない男が、そこに立っていた。

 

フードを目深にかぶり、黒衣の放浪者。

 

彼は、動かない。

目の前で魔物が発狂し、破片を破壊し、雄叫びを上げても、微動だにしなかった。

 

ただ、ひとつだけ。

 

その眼だけが、

深い悲しみと、静かな理解を湛えていた。

 

「……まだ、見つかっていないんだな」

 

誰にも届かぬ声で、放浪者はそう呟いた。

 

風が吹く。

荒野の静寂が戻る。

 

魔物は再び歩き出す。

探し物は、まだ見つかっていない。

 

そして放浪者もまた、

それを見届けたまま、何も言わずにその場を去った。

 

――まるで、かつて何かを託した者を追うように。

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