《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》   作:ケン3ヴァルデン

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交渉と恋の香

 

 

陽はすでに落ち、温泉地帯から戻った者達が落ち着きを取り戻したなか、夜を照らしていた。

 

蜘蛛の酒場本店

その二階、薄明かりの下で――マダム・アシュレーは、手元の帳簿を整理していた。

 

「……果実酒の残り、これだけ? ふふ、困ったわね」

 

手指に絡むように、柔らかな糸が舞い、帳面の端を巻き取る。

薄い布の下から覗く唇には、いつもの微笑。

けれどその目は、商人というより領主のそれだった。

 

一段落をつけたマダムは、椅子から立ち上がり、軽く伸びをしながらつぶやいた。

 

「……たまには外の風も吸わなきゃ、干からびてしまうわ」

 

夜着のまま、階段を静かに降りる。

一階には誰もおらず、酒瓶たちが灯のもとで眠っている。

 

彼女は何の気なしに玄関へと歩き、

取手に手をかけ、そっと扉を――

 

開けた、瞬間だった。

 

「――っ!」

 

ごく自然に、けれど拒絶のように、

押し返される“圧”が胸を突いた。

 

まるで指で軽く押されたような感覚。

けれどそれは皮膚ではなく、本能に直接触れるものだった。

 

反射的に一歩下がるマダム。

だが驚きも戸惑いも、一瞬で消える。

 

そこに立っていたのは、長い銀髪をなびかせ、

浴衣のような黒衣に身を包んだ――グレイ・セレスティア。

 

人の姿で、夜気に濡れ、

その瞳に、ほんの微かな悦びを灯していた。

 

「……見つけた」

 

声ではなかった。

唇はほとんど動いていない。

 

けれど、その空気が、匂いが、視線が、そう告げていた。

 

マダムは息を吸い、そして微笑んだ。

 

「ごきげんよう。お探しものは……香りの先に、あったかしら?」

 

グレイは答えなかった。

ただ、微かに目を細め、鼻先をかすかに震わせ、まるで“飢えた獣”がそうするように――静かに一歩、マダムに近づいた。

 

「……今宵も、酒はあるわよ」

 

マダムの声には、恐れも、戸惑いもなかった。

あるのはただ、この夜の気配を楽しむ、妖しい余裕だけ。

 

そして二人の間に、再び沈黙が落ちた。

 

だが、それは冷たくはなかった。

 

むしろ、温泉の湯のように、ゆるやかに心を溶かす沈黙だった。

 

外では風が、遠くを吹き抜けていた。

 

 

二階の帳場裏――蜘蛛の館の中でも、

最も外界から遮断された小さな間。

 

古い瓶が並ぶ棚、微かに香る果実酒、

そして、絹のように滑らかな沈黙。

 

グレイ・セレスティアは、静かにその空気に身を預けるように椅子に腰を下ろした。

人の姿であっても、その存在には重みがあった。

けれど、マダム・アシュレーはまるでそれを楽しむかのように、小さなグラスをひとつ、目の前に差し出す。

 

「今日はまた交渉の続きに来た。」

 

そう切り出したのは、竜のほうだった。

彼女はグラスを指で転がしながら続ける。

 

「例の魔物、手を出した。」

 

マダムの目が僅かに細くなる。

 

「深追いはしなかった。だが……あれは“探している”。確かに何かを」

「……何を?」

「分からない。だが、おそらくは“前の時代の何か”だ。あれは、かつての“破片”を喰らい吐き出した。違うと知って」

 

マダムは言葉を飲み込むように、静かに酒を口に含んだ。言葉を紡ぎながらもどこか揺れる竜の姿にグレイの視線が動く。

 

「……そして、“彼”のこと?」

「そうだ」

 

グレイの声は冷たくも熱くもなく、

ただ静かな灰のように、言葉だけが落ちていく。

 

「その男を、見つけたか?私は……彼に干渉できない。」

「ええ、その依頼なら承ってるけど――」

 

マダムは肩をすくめ、笑った。

 

「さすがに、まだ早いわ。目撃も足跡も、まるで無し。気配の欠片すら、蜘蛛たちは拾っていないの」

「……ほう?」

 

グレイは、グラスに口をつけた。

マダム・アシュレーはその様子にゆるく身を乗り出す。

その仕草はどこか挑発的で、けれど視線は優しく、まるで幼子をあやす姉のようでもあった。

 

「その人の姿も、匂いも、声も、骨すらわからない。けど人には変えられないものがあるの、それは雰囲気。雰囲気だけは、変わらない。」

「雰囲気?」

「忘れようとしても、残るもの。触れた空気の温度。夜明けの匂いと同じ。それは、形ではなく“記憶”に近い」

 

沈黙が落ちる。

 

グレイは、ゆっくりと視線を向ける。

その瞳に、揺れるものはない――そう見えた。

その表情に浮かんだのは、答えではなく、ただ一瞬の翳り。

マダムはくすりと微笑んだ。

 

「あなたってさ……本当に、恋する少女みたいよね」

 

その一言に、微かな沈黙が落ちる。

グレイの眉が、ぴくりと動いた。

 

「……なんだと?」

「なに怒ってるの。からかっただけよ」

 

マダムは笑う。

口元を扇で隠しながら、肩を揺らして。

 

「でもね、本当にそう思ったのよ。探してるのは“誰か”じゃなくて――“あなたの心”じゃないかしらって」

「くだらん」

「ふふ……でも、“くだらない”と思ってるくせに、顔に出てる」

「……」

「人の姿になるたびに、きちんと香りを纏って、肌を整えてるでしょう?」

 

グレイは静かに目を伏せた。

 

「竜では、獣のままでは追えぬ香りもある」

「まあ、言い訳はお好きに。でも――」

 

マダムは、椅子の肘に頬杖をつきながら、低く問いかけた。

 

「結局その人、どんな雰囲気だったの?」

「……」

「見た目じゃなくて、声でもなくて。あなたが、その人を“探したい”と思った、その理由」

 

グレイはしばし言葉を探していた。

やがて、小さくグラスを置き、

遠い昔を思い出すように、ぽつりと呟いた。

 

「……夜だった」

「うん」

「焚き火の前に、背を向けて座っていた。何も言わずに、ただ、何かを……書いていた。風が吹いても、雨が降っても、黙ったまま筆を走らせていた」

 

マダムの目が細くなる。

 

「それだけ?」

 

グレイは首を振った。

 

「……時折、私の名を呼ぶでもなく……ただ、目を細めて、私を見ていた。慰めるような、謝るような……でも、言葉にはしなかった」

「……」

「その時だけ、風が止む。静かで、穏やかで……不思議と、眠れた」

 

そう言ってグレイは、

自分の手に残る微かな温もりを、確かめるように見つめた。

 

「“安心”だった。あれが」

 

マダムは微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと立ち上がった。グレイの前まで歩き、そっと指先で彼女の髪を整えながら言った。

 

「それなら――任せなさいな。香りのないものでも、雰囲気は残るものよ。恋に落ちた女の目は、鋭いの」

 

グレイは鼻を鳴らすように小さく笑った。

 

「……私が、恋を?」

 

「うん。認めちゃえばいいのに。恋は、悪くないわよ。特にこの荒野では、貴重な贅沢だわ」

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

だがその後、グレイはほんの少しだけ目を細めて言った。

 

「……ならば、恋のために、世界の底でも探してこい」

「はいはい、お代は高くつくわよ、灰の姫」

 

二人は、わずかに笑い合った。

 

それは、竜と蜘蛛の女主――

どこか似た者同士の、戦場の外にある優しさだった。

 

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