《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
夜は静かだった。
蜘蛛の酒場の奥、
誰もいない部屋の床に横たわり、
グレイ・セレスティアは、眠っていなかった。
目を閉じているだけ。
息を殺し、鼓動の音すら聞こえぬようにして。
ただ――あの夜のことを、思い出していた。
*
──焚き火の音がした。
細い枝を折るような、やわらかい音。
その向こうには、男が座っていた。
髪はぼさぼさで、手は煤で黒く、
指先は震え、目の下には濃い隈が落ちていた。
……ひどい顔だ
そう思った。
それでも彼は、火の向こうからこちらを見て、ゆっくりと微笑んだ。
その微笑は、どこまでも優しかった。
酷く痛んでいて、醜く衰えていて、それでも――美しかった。
「グレイ」
初めて、名を呼ばれた日のことは、忘れていない。
その声はかすれていた。
喉を焼いた灰がまだ残っているような声だった。
それでも、優しかった。
その手は震えていた。
皮膚は裂け、血が滲んでいた。
それでも、その指はわたしの頭を撫でた。
大きな手だった。
痛みを抱えた手だった。
なのに、何よりもやわらかかった。
「……お前は、慰めだ」
そんなことを、彼は言っていた。
わたしには意味がわからなかった。
なぜ、彼の苦悩が、わたしに向けられる?
なぜ、わたしを慰め手と呼ぶ?
わたしは爪で敵を引き裂き、翼で空を裂く“抑止の獣”だったはずなのに。
なのに。
「……この罪が、許されなくとも。お前がいるなら、せめて……」
彼はそう呟いて、火に手を伸ばし、
それで自分のノートを炙っていた。
焼け焦げた紙に、彼はまた文字を書いた。
意味のわからない言葉たち。
けれど、彼はひとつずつ、教えてくれた。
「これは、“風”だ」
「これは、“祈り”」
「これは、“死”」
「これは、“赦し”」
わたしは、すべてを覚えた。
彼の声で、彼の指で、彼の匂いで。
──ある夜、彼は突然立ち上がり、
わたしの頭に手を置いて、微かに言った。
「お前は、ここにいろ。いいな?」
「なぜ?」
わたしはそう聞いた。
はじめて、言葉を使って。
彼は少し驚いたように目を見開き、
それから――苦しそうに笑った。
「……“誰か”が、帰る場所が必要だろう」
「“誰か”とは?」
彼は答えなかった。
ただ、頭を撫でて、歩き出した。
あの背中を、わたしは何度も夢に見る。
あれは、去った者の背じゃない。
戻れなくなった者の背だった。
*
グレイは、ふっと目を開けた。
頬をひとすじ、夜気が撫でた。
涙ではなかった。
それでも、それはどこか、濡れた記憶だった。
「……どこに、いるの」
そう、呟いても届かない。
それでも――まだあの夜の“ぬくもり”が、髪に残っている気がした。
わたしは竜。
すべてを焼き尽くすもの。
だというのに、わたしの一番深いところには、ただ、ひとりの男の“あの手”が残っている。
忘れたいのではない。
忘れたくないのだ。
あの苦悩と優しさが、
わたしに“言葉”と“人”を教えてくれた。
だから、探す。
どれだけ姿が変わっても、“空気”だけは、焼け残るから。
*
石造りの階段を、ひときわ重たい足音が響く。書庫の扉が軋んだ音を立てて開かれ、埃を孕んだ冷たい空気が顔を撫でた。
灯りもつけぬまま中へと入ったドルンは、無言のまま一歩、また一歩と棚の間を進む。
棚の隙間に指を差し込み、古い皮表紙を一冊ずつ引き抜いては開き、乱暴に閉じて脇へ積み上げていく。
その動きは荒々しく見えるが、どれも確かに「それではない」と見極める的確さがあった。
「門番とは……なんだったか……」
ぽつりと独り言。
受け継いできた誇りがある。
ドルンの知る、禁忌を監視する者。
ならば、なぜ放浪者は“意味”を問うたのだ。
さらに、“管理者”──レドを操っていた魔族が発したその言葉。
精製機、精霊、集合体、魔族、そして上位個体──あまりに断片的で、繋がるはずの糸がどこにも見えない。
「これも違う……これも、違うな……くそっ、どこに……!」
机の上には崩れかけた古書の山。床にも積まれ、石畳が見えなくなるほどだった。
外の騒乱が嘘のように、ここは静まり返っていた。ただ、書物の捲れる音と、ドルンの低い吐息だけが満ちていた。
ふと手にした一冊──ドワーフの古語で綴られた、錆びた金属綴じの記録帳。その表紙には、ただ一文字、「鍵」とあった。
ドルンの目が細められる。
今までと違う、妙な緊張が指先を伝った。
ページを開いた瞬間、古い香が鼻を突く。ドルンの手元にあるその書は、他のどれとも違っていた。まるで人に読まれることなく、ただ待ち続けていたような……そんな風格があった。
そこには、こう記されていた。
『門番は、開く者ではない。
閉ざし、見届け、問う者なり。』
問い──あの放浪者の言葉が頭の中に蘇る。
そしてもう一文。
『管理者とは世界における、秩序の設計者。我らはただの装置ではない。試練であり、記録者であり、“仕組み”である。』
ページをめくる手が止まらなかった。
真実の一端に触れたドルンの呼吸は、重くなっていた。ページをめくるたび、皮革の綴りが軋み、乾いた音を立てる。
――管理者。それは記録と制御の役目。
読み進めるうち、かつての「管理者」とは、ただ技術を維持する者ではなく、各地に散乱する《遺物》の保守と点検、それを中心に展開された“環境”や監視の監督者たちだったことが判明した。
それは天候すら調整し、地表の魔力循環を導き、精霊の流れを安定させる機能すら持っていたという。
「……土地を、管理していた……?」
言葉を呟いたドルンの視線が、ある折り込み地図の頁に引き寄せられる。
そこには、この世界全体を写した精緻な地図があった。驚くほどに細かく、そして精密に描かれている。
北方山岳から始まり、エルフの森イゼリア、人の国の城郭群。
そして――
「……これは……」
ドルンが知らぬ地が、そこには明記されていた。
南方の地――現在は荒野とされる地域。そこには《緑の回廊》と書かれており、広大な森林帯だったことが示されている。現在の乾いた大地とはあまりに異なる姿。
さらに、西の海を越えた先《西部域》と名付けられた大陸には、《隔離区》と記され、全域に斜線が引かれていた。
「ここは…魔族が蔓延る土地のはずだ。」
ドワーフを含め誰も近づこうとせず、語る者もほとんどいないあの西の大地。
この記録によれば、そこには前文明が自ら封印した《区域》があったとされている。
『彼らは隔離を選び、管理者に地図を託す。封じられし西方に、彼らの失敗が在り。』
ページに走るその一文に、ドルンは深く息をついた。
それはまるで、前文明が“魔族”の誕生と関係していると、はっきりと認めているかのようだった。
「……ならば、我らが門番の役目とは……」
思考が深みに沈む。
過去の文明が作り、そして封じた存在。今、その封印は破られつつある。ならば、門番は再びその扉を閉じるのか、それとも開いて向き合う者になるのか。
地図の上に手を置いたドルンは、遠く離れた西の地を見つめながら、小さく呟いた。
「放浪者よ……お前は、すべてを知っているのか……?」
静まり返った書庫に、呟きが響く。
ドルンはその本をさらに読み通そうと姿勢を正す。指先に積もった埃が重く、時折咳き込みながらも、彼の目は真剣だった。
積み上げた古書の山が小さく軋んだ時、背後から腕が伸び、ぱたり とドルンが見ていた本が閉じられる音が響いた。
「……っ!?」
反射的に振り返ったドルンの目に飛び込んできたのは、棚の隙間から伸びた一本の腕。そして――
本を閉じたまま、放浪者がそこに立っていた。
いつからいたのか。どこから現れたのか。気配など、微塵もなかった。
だが確かに、放浪者は存在していた。ひどく自然に。まるで、初めからそこにいたかのように。
「……!」
言葉にならない問いを、ドルンは目で向けた。
だが、放浪者は視線を逸らさず、閉じた本の表紙をなぞりながら、低く呟いた。
「“覚醒”したといえ、まだ……お前たちには早いと思っていた。だが見てしまったのならば仕方ない。」
ドルンが無言で動きを止めたまま、放浪者は地図へ目を移す。
「この南方荒野の何処かに、古き《鍵》が眠っている。……それは、前の世界が、最後に開けることを恐れた場所だ。」
放浪者の目が、書庫の奥ではなく、遥か地平の向こうを見据える。
まるで、そこにあるものを視ているかのように。
「遺跡を調べろ。お前たちの“問い”が、まだ生きているうちに。」
言い終えると同時に、放浪者の姿はまるで煙のように消えた。
本の上にかけられていた手も、棚の影も、何ひとつ残らない。
ただ、閉じられた一冊の本だけが、微かに熱を帯びたように感じられた。
ドルンは、ふと息を吐いた。
そして自分の胸に向けて、低く言った。
「問い……か。ならば、俺も答えに辿り着いてみせる。」