《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
鉄の扉が閉じたあとも、エリオットの中にはフレイの声が残っていた。
あの男は笑っていた。
血を流しながら、目を腫らしながら、それでも声に芯があった。
「――彼を、見殺しにはできない。」
玉座に座る者が語る正義とは何か。
民の目に映る“王子”の役割とは。
理想を語るだけの資格も、力も、自分にはないと知っていた。
だが、それでも――。
「兵を呼ぶ。……いや、いや、それでは駄目だ。」
堂々と命令すれば、不審がられる。
フレイは再び拷問にかけられるか、あるいは……。
ならば、欺くしかない。
皮肉なことに、いま彼に必要なのは“王子の仮面”だった。
⸻
数日後、エリオットは監獄の管理責任者を呼び出し、口実を整えた。
「盗まれた物品の検分に再度立ち会いたい」
「拷問による情報引き出しは十分か確認したい」
すべて嘘だった。
だが、誰も疑わなかった。
“王子”がそう言えば、すべては真実となる。
地下牢の奥、彼は再びフレイの前に立った。
「立て、今夜は、ここを出る。」
「……は?」
「黙って従え。生きたければ。」
フレイは半ば呆れながらも立ち上がる。
鉄格子が開くと、二人の足音が闇の中に消えていった。
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向かう先は――セリスの孤児院だった。
あの火事から、数日が経っていた。
焼け落ちた施設の瓦礫の間に、仮の寝床を作っていた彼女は、まだ復興作業の只中にあった。
「……坊ちゃん、アンタ何をしに来たの?」
彼女は冷たく言った。
夜分の訪問に驚きもせず、目だけが怒っていた。
だが、次の瞬間、彼女の視線はフレイに向けられた。
腫れた顔、ぐったりとした足取り、血の跡。
「そいつは?」
「彼を、ここに置いてほしい。」
エリオットは凍った心を沸騰させる様な眼差しで、覚悟を決めたまっすぐな瞳でセリスを射抜く。
「……正気? ここは避難所じゃない。
私は、もう誰かの尻拭いをするつもりはないわ。」
「だが君は、それでも“見捨てなかった”人間だろう。」
その言葉に、セリスの目が揺れた。
居心地悪そうにフレイは頭をかく。
セリスは巷で「塵の義賊」と呼ばれる泥棒を知っていた、数日前に捕まったことも。
覚悟を決めた様なエリオットの姿と拷問を受けた男、関係ないと断言できるほどセリスは情報を持っていなかった。
「彼は……多分泥棒でしょ、罪を犯したわ。」
「けれど、この男を信じてくれ。」
沈黙が降りた。
夜風が、焚き火の火花をはらっていく。
「……一晩だけよ。」
セリスが背を向けた。
「それ以上は知らない。傷が癒えたら、勝手にするといい…子供達が起きると困るからこっちよ。」
フレイは言葉もなく、ただ小さく頭を下げた。
焼け落ちた孤児院の裏手にある小さな納屋。
かつて木工道具を保管していたその場所に、いま三人が集っていた。
蝋燭の灯りだけが、陰影を柔らかく揺らめかせていた。
フレイは壁にもたれ、セリスは冷えた石台に腰を下ろし、エリオットは躊躇いがちにその間に立っている。
しばらくの沈黙のあと、口火を切ったのはフレイだった。
「なあ、王子さまよ。……ひとつ訊いていいか?」
「……なんだ?」
「“盗む”ってのは、罪だと思うか?」
エリオットは答えに窮した。
セリスが小さく息をつく。
「法で言えば、明らかに“罪”よ。誰かの所有を侵せば、それは罰せられるべき行い。」
「じゃあさ、その“誰か”が民の飯を削って貯めた財だったら? 空っぽの倉庫の前で餓えてる子供を見殺しにして、それでも金庫に手をかけたら罪か?」
フレイとセリスの問答にエリオットは目を伏せた。その視線の先に、焼けた灰の残骸があるだけだった。
「それならこう言い換えましょう。それでも奪えば、誰かが傷つく。その“誰か”が善人であれ、悪人であれ、奪えば痛みは残る。あなたのやったことは……」
問いに対する答えを述べるセリスの言葉を、フレイが遮る。
「人の命をつないだ、俺は悪党だ。だが、あんたらみたいに黙って座ってたら、もっと多くが死んでた。」
その言葉に、セリスの眉がわずかに動く。
エリオットの視線は相変わらず残骸が映るだけだった。
「黙って座ってたわけじゃないわ。研究所を辞めて、私は……」
「それができる“余裕”があったんだろ? 居場所も、名前も、そして学びの道も。」
「……二人とも、やめてくれ。」
エリオットがついに口を開く、その声は弱く、けれど切実だった。
「俺は……何もしてない。王子である俺は、ただ“居た”だけだ。飢えもしなかったし、誰かを助ける事もしなかった。だから、君たちのどちらの正しさも……まぶしすぎる。」
セリスとフレイが彼を見た。
エリオットは視線を動かさずに言葉を繋げる。
「罪も赦しも、何が正しいかも……わからない。ただ、俺は、この焼ける孤児院の前で立ちすくむしかなかった。」
言葉を終えると、2人の視線から逃れる様に、エリオットは蝋燭の一つを手にした。
「少し、見てくる。子供達の方には行かないから安心してくれ。」
そう言い残し、彼は焼け落ちた孤児院の跡へと歩き出す。崩れた梁、焦げた玩具、黒く朽ちた木の床。
まるで何かに導かれるように、彼は静かに膝をついた。
エリオットは手のひらでそっと、灰の山を撫でる。その指先に、小さな焦げた木片が引っかかった。そこには、かすかな刻印が残っていた
──「セリスせんせいへ」──
拙い文字。
子どもが手彫りしたであろう、名もなき愛の証。
エリオットの胸に、何かが崩れ落ちた。
灰の中にすら残っていた、それでも伝えたかった“ありがとう”の気持ち。
誰かを想い、誰かを愛し、それを形にしようとした小さな意志。
その手彫りの木片を握りしめ、エリオットは空を仰ぐ。
「……違う。」
かすれた声が、胸に灯った火が、夜の静寂に溶けた。
「罪でも、罰でもない。……これは、選ばなきゃいけないんだ。たとえ誰かに裁かれようとも、選び続けることが、“生きる”ってことなんだ……!」
彼は立ち上がった。
ふたたび納屋に戻ると、セリスとフレイの前に木片を差し出した。
「……この焼け跡の中にも、誰かの気持ちが残ってる。それを受け取った人間だけが、“どう生きるか”を選べる。」
エリオットの目に、もう迷いはなかった。
それは王の息子ではなく、一人の人間の眼差しだった。
「俺は……まだ何もできないかもしれない。でも、見た。感じた。だから……もう後戻りしない。俺は国を救う。」
しばらくの沈黙の後、フレイが呟くように言った。
「……やっぱ王様だよ、アンタ。」
セリスも、そっと目を伏せたまま言った。
「子どもたちが見たら……笑うでしょうね。」
三人は、互いの言葉に返すことなく、ただしばしそこにいた。
だが、確かにその場には、目に見えぬ“灯”が生まれていた。
それは“赦し”ではなく、“受け継がれる意志”という名の火。
焼け落ちた孤児院の灰の中から――
小さな光が、静かに灯り始めたのだった。