担当していた子は興味のあること以外は怠惰で私が食事などを用意していた。これが失敗だった。平日のみならず休日までトレーナー宿舎に押しかけて来た。その程度ならまだ許容範囲だが長期休暇中に帰省先に来られたのはさすがに引いた。どうしようか考えていると「外部委託のボイラー技士がトレーナーの逃走を手引きしている」という噂を聞いた。このままではあの子に飼い殺しにされる・・・一縷の望みをかけてボイラー技士の元へと向かった。
県境に差し掛かる。あと少しで同僚との合流地点に到着しようとしていた。あとは待機している同僚にトレーナーを引き渡してしまえば私の仕事は終わりだった。しかし、なおも追跡は続いていた。「相手はFDとはいえズブの素人・・・あんな操舵で追いつける訳ない」BK5Pは少し心許なかったが何とかなりそうだった。トレーナーの息は荒くなっている。「俺は・・・俺は、自由になるんだ!」拳銃を取り出し頭に当てていた。「おい・・・待て!止め・・・」言い終える間もなく銃声と共にフロントガラスが赤く染まった。
ガタン!という音と共に体に衝撃が走った。「またあの夢・・・」仕事中にも関わらず寝てしまったらしい・・・床から起き上がり、倒れた椅子を元に戻して腰掛ける。 ボイラー資材室で交代を待っていた。中央のトレセン学園からの委託を受けてボイラー管理をしている。表面上の話だが・・・裏ではトレセン学園のウマ娘からトレーナーを逃がす「逃がし屋」だった。もちろん学園側には認知されていなかった。「相手が悪かったよ、相手が・・・」以前の仕事を思い出し口に出した。「あのウマ娘、どこの令嬢か王族か知らないけどまさか、SPを8人も投入してくるんだからな・・・しかも、そのSPもウマ娘だよ?挙動を見た限り、あのウマ娘の私兵っぽいんだよな・・・どうしようもないよ」依頼を達成出来ずトレセン学園側にも手引きが明るみになり私は今月限りで移動することになっていた。「せめて依頼主のトレーナーが生きていればな・・・気がふれて拳銃で頭ぶち抜くとは思わないよ・・・」そう思っていると資材室の扉が開いた。
「あの、ウマ娘から逃がしてくれるって聞いてきたんですけど」小柄な女が立っていた。襟にトレーナーバッヂが付いているから恐らくトレーナーだろう。「知らないな・・・他を当たれ」バタン!と勢いよく戸を閉めた。ドンドンドン!とドアを叩きながらドアを開けようとしてくる。鍵が壊れて内側から閉めることが出来ずドアを抑えていた。「お願いします!話だけでも!」「そんなものは知らん!帰れ帰れ!」この問答は十数分続いた。
「そこまで言うなら、訳を聞こうじゃないか」根負けしてドアを開けた。トレーナーは嬉々として部屋に入ると丸椅子に腰掛けた。「なるほど、実験に使われたり身の回りの世話をするのが嫌になったと・・・」「そうなんですよ!最初は可愛げあっていいなって思ってたんですけど・・・」「他は?」「え?」明らかに動揺していた。「逃げる動機としては弱すぎる。他になにかあるだろう?」トレーナーは何も言わなかった。あるんだろうな・・・疑わずにはいられなかった。
「事情はわかった」「それじゃぁ」「このことは後任に伝えて置いてやる。来月には着任するはずだから・・・」明るくなった女の顔が一気に曇った。「それじゃダメなんです!」「約束通り話は聞いてやった。これ以上なにかすると左遷程度じゃ済まなくなるんだ。悪く思うなよ。」いったい何をそんなに急いでいるのか?何を隠しているのか?面倒事になるのはほぼ確実だった。
「そもそもなんで私なんだ?」 「成功率100%だって聞いて」あれだけ必死になっている理由が釈然とした。「広義の意味ではな、前のやつなんて絶対に追いつけないところまで行けたぞ」トレーナーの表情が明るくなった。「どこなんですか!」嬉しそうに聞いてくるトレーナーを横目に天井を指さした。「いつでも会えるぞ・・・まぁ、二度と帰っては来られないがな」ひきつったトレーナーの顔を見つつ諦めると確信した。
トレーナーは肩を落として帰っていった。後ろめたいとか、罪悪感なんてものはもう感じなかった。「保身に走るとは・・・私も随分落ちたものだな」時計は16時を回っていた。資材搬入の時間だった。搬入リストを車両に放り込み搬入口まで急いだ。
搬入口にはすでに業者が来ていた。「やぁ、遅かったね。いつもはいるのに」 「すみません、来客があって・・・」そんな他愛のない話をしているうちに資材搬入は思いのほかあっさり終わった。「そういえば、移動するんだって?」この人とは着任当初から一緒だった。「手引きが露呈してしまいましたから」 「君が失敗するんだから今回の件は相当だったんだろうな」トレーナーの精神錯乱のせいだとは言えなかった。
「次回の搬入の予定ですが・・・」私はもう逃がし屋はできない。話題を変えよう。「そのことなんだけど、これ見てくれない?」そういって目録を差し出す。「B重油?」通常は使わない物品が記載されていた。「そうなんだよ、船舶用の燃料だろ?」「一応、70年製の重油焚きボイラーはありますけど、SOx規制を満たせなくて使えないんですよ」改修しようにも煙突の高さが足りないそうで、私が着任してからは防錆剤を添加した水をポンプで循環させているだけだった。「本当にこれでいいのか理事長に聞いてくれない?挨拶も兼ねてさ、どうせまだなんだろ?」 「いいですけど・・・」こんな穏やかな日々がずっと続けばいいのに。
理事長室に行かなければならなくなった。自動車を停めて建物に入る。基本ボイラー室くらいしか出入りしないから生徒、教員とはほとんど面識がなかった。しかし、逃がし屋の件が露呈してしまいそうではなくなっていた。「こんなところで何してるんだよ?」男が声をかけて来た。凄腕のトレーナーと言われている奴だった。担当しているウマ娘がトリプルティアラを達成したとメディアでも取り上げられていたからすぐにわかった。「理事長に搬入物の確認を・・・」いらん波風を立てたくはなかった。「人殺しで得た金で喰う飯はうまいか?」前言撤回、徹底抗戦だ。「逃げたくなったらいつでも言えよ。必ず逃がしてやるよ。前のヤツと同じように絶対においつけないところまでなぁ」 「こいつ!」トレーナーが掴みかかった。
「待て、やめろ!どうせ来月にはいなくなるんだから」もう一人のトレーナーが引きはがす。「クソっ」そう吐き捨てて不満げに去っていくトレーナーたちを見ながら服を整える。「金持ちどもが・・・」書類を拾い上げて理事長室に急いだ。ここにいると自分がどう見られているかを痛感する。
足早に理事長室に向かっていた。人殺し・・・前回のトレーナーの担当ウマ娘にも言われた事だ。「私が直接手にかけたわけじゃない、それがまかり通るならトレーナーを限界まで追い込んだ君こそ本当の人殺しだ」いつの間にかトレーナー室の前に差し掛かっていた。扉が開いていたが気にすることではない。「また頼むよ、トレーナー君」ウマ娘の声がした。目をやると資材室を訪ねて来たトレーナーがいた。「これからもずっと傍にいておくれよ」ウマ娘の言葉をよそにトレーナーがこちらに気付いた。待ってました!と言わんばかりの顔でこちらを見た。「嫌だと・・・いったら?」トレーナーの問いかけに対してウマ娘はあからさまに機嫌を損ねていた。
「ふぅん、君に拒否けー」パァン!言い切る前に私は引き金を引いた。拳銃の発砲と共に踏み込む。ウマ娘は耳をピクリとさせると回避行動をとっていた。さすがはウマ娘だ拳銃弾程度造作ないか、私はウマ娘が体勢を立て直す前に横切り、トレーナーを抱え窓ガラスを突き破る。「ちょっ!待って!ここ三階・・・うわああああ」ガラスの割れる音が部屋に響いていた。
着地して窓の方に向き直る。ウマ娘も飛び降りようとしていた。素早く窓の方に弾倉の限り発砲する。飛び降りるのを諦めたのか姿を消した。まだ追って来るに違いない。のびたトレーナーをたたき起こしてこの場を離れた。
「これからどうするんですか?」計画なんてあるわけがない。前回のように会社の備品も人員も使えない。だったら・・・乗って来たバンのところまで来た。「これで逃げるんですね!」トレーナーが助手席に乗ろうとしていた。「ちょっと待ってろ」そういって荷室のドアを開けた。
資材搬入の時の事を思い出していた。「必要だろうと思って持ってきたよ。まぁ餞別だと思って」 「今の私には必要ないよ。それにしてもどこから・・・」 「カナダから直送だよ」 「ホント、敵いませんよ」まさかこんなにも早く使う時が来るとは予想していなかった。
荷室の木箱に手をかける。メープルシロップと書かれたラベルを破いて蓋を取るとそれは姿を現した。レミントンM870、国内でも流通しているがこれは日本向けに改造されていないオリジナルだった。「それ・・・密輸品?」「だったらなんだ?ここで終わりにするか?」 「いや・・・」まぁ妥当な反応だ。前回も銃火器を使うなと無理難題を吹っ掛けられたくらいだからこの程度で騒いではいられなかった。
「とにかく、駐車場に別の車が停めてある。そこまで走るんだ」 「この車で逃げればいいんじゃ・・・」 「中の資材を壊すことはできない、可燃性の物もあるし・・・それに、何かあったら払えるのか?」伝票と領収書を差し出す。「え?こんなに?」固まったトレーナの手を引いて走った。特徴的な足音が聞こえてきたのはすぐ後だった。
補足
FDーマツダRX-7
BK5Pーマツダアクセラ
B重油ー軽油と重油を50%の割合で混合した燃料。船舶、ボイラーなどに利用されていたが 現在は生産量が減っている。
SOxー硫黄酸化物。硫黄分が含まれる燃料が燃焼した際に発生する。ぜんそくや酸性雨の原因
Q&A
Qなぜ当たり前に銃を使ってるの?
Aこの世界ではウマ娘の暴行事件を皮切りに銃規制が緩和されたという背景があります。レース場の厩務員は政府の紋章と管理番号を打刻された回転拳銃を所持しています。後の話で描写する予定でしたがそこまで書き続けられるか分からないのでここで言及しておきます。