「03号」は、ただの脱走者ではなかった。
今回、彼女が残した“呼び声”の意味に、物語は一歩踏み込みます。
本話では、かつて「観月湾」で行われていた封印された実験、そして艦娘と深海棲艦のあわいに生まれた存在としての03号の姿を描きました。
物語は、続きます。
観月湾――地図に記されたその名は、戦後のどこにも存在しなかった。
だが、飯塚が示してくれた古地図と、映像に映り込んでいた構造物の断面図が指し示す場所は、確かに実在した。南方にぽつんと取り残された湾の奥。現在では封鎖区域とされ、立ち入りは厳しく制限されている。
私は無理を承知で、そこへ向かった。
誰にも知られないように、誰にも止められないように。
道中、00号のことを何度も思い出した。久遠廠で私を逃がすため、あの闇へ突っ込んでいった彼女の姿。今どこにいるのか、無事なのか、それすらわからない。
けれど、彼女の意志が今も私を支えている。
「……03号を、見つけなければならない」
観月湾へ続く林道は荒れ果て、かろうじて人が通れる幅を残していた。私は背中の荷物を下ろし、手に入れた資料を改めて見つめる。
“第零接続実験区画”
かつて、深海棲艦との交戦に先立って行われた非公開実験。その一部が、この湾の奥に隠されていたのだという。
私は防潮堤の切れ目から崩れかけたコンクリート通路に入り、海の匂いの濃い空気を吸い込んだ。潮の満ち引きはすでに止まっているかのように感じられた。
やがて、朽ちた鉄扉が現れた。
薄暗い中、懐中電灯の光が扉に貼りついた文字を浮かび上がらせる。
【観測区域3-B】
【立入厳禁/特別処理区画】
扉は鍵で閉ざされていたが、錆びていた。私は工具を使い、なんとかそれをこじ開ける。
中から漏れ出す空気は、生臭さと機械油の混じった異様な匂いだった。
一歩、足を踏み入れた瞬間――
低く、鼓動のような音が響いた。
まるで施設そのものが、生きているかのように。
「……これは」
私は奥へ進む。廊下の壁には、誰かが引っ掻いたような跡が無数に走っていた。
そして、朽ちたモニター端末のひとつに、見覚えのある識別コードが残されていた。
【個体記録:03】
【収容観測記録:隔離E区画/覚醒試験実施済】
【通信状態:“不安定”】
私は画面を操作し、映像記録を再生する。
その中には、海水のような液体に沈んだ03号が映っていた。
目を閉じ、まるで何かに耳を澄ませているかのように。
ノイズ混じりの音声が、かすかに流れる。
「……ここではない……わたしの記憶は……波の……むこうに……」
その声は、確かに聞こえた。私の心を、確実に貫いた。
そして映像の終わり際――
彼女はふいに目を開け、こちらを見た。
そして、唇を動かす。
その言葉は、音声として記録されていなかったが、私は確かに読み取った。
「見つけて。……あなたも、呼ばれている」
私は息を呑んだ。
――これは、03号からの“呼びかけ”だった。
私は03号の視線から目を逸らせなかった。
あのカメラ越しの、真っ直ぐな、どこまでも静かな目。
それは私を見ていたのではない。
“向こう”を見ていた。
だがその“向こう”が、私のすぐ後ろにあるような気がした。
再生は終わった。
だが私は立ち上がることができなかった。どこかで聞いたこともない音が、遠く、微かに、反響していた。
それは波の音ではない。
それは風でも、鼓動でもない。
共振――
「深海棲艦の共鳴音に似ている」と飯塚が言っていた。
だが今、私の耳に届いているそれは、どこかもっと“人間の声”に近いものだった。
私はふと、壁際に設置されたもう一台の端末に目をやった。
電源は入っていなかったはずだ。
だが、その画面だけが、真っ黒なまま“何か”を待っているように光っていた。
私はそっと手を伸ばし、起動キーに触れた。
……その瞬間。
画面がひらくと同時に、ノイズの中から一文が浮かび上がった。
【接続要請受信中】
【識別信号:C-03(旧形式)】
「……接続……?」
意味がわからなかった。
ネットワークは遮断されているはずだ。
この施設は封鎖され、記録も廃棄されたはずだった。
なのに――誰かが、ここを通じて私に**“何か”を繋ごうとしている。**
次の瞬間、端末の画面が切り替わり、奇妙な映像が再生された。
それは湾の奥、海に面した小さな洞窟のような空間を映していた。
その壁面には、かつての実験設備が打ち捨てられたまま残っており、その中央には、浸水しかけた格納庫のような空間が広がっている。
「ここは……」
観月湾の“さらに奥”に、まだ何かが残っている――。
そのとき、画面にノイズ混じりで03号の姿が一瞬だけ映った。
照明の届かない水面に立つ彼女。
彼女のまわりに、かすかに光る人ならざる輪郭。
深海棲艦でもない、艦娘でもない――“中間の存在”。
彼女“海”と対峙していた。あるいは、対話していたのかもしれない。
03号の声が、ノイズの奥から割れるように届いた。
「……来て……この海の“はざま”へ……」
画面はそこで突然切れた。
そして、端末が完全に沈黙する。
私は呆然としたまま、暗闇の中に立ち尽くす。
03号は生きている。それだけは確信できた。
だが――
どうして彼女はここにいるのか?
自由を求めて地下施設から逃げ出したのなら、真っ先にこの“監獄”から離れようとするはずだ。
にもかかわらず、彼女はここに「留まって」いる。
それどころか、誰かに導かれるように“さらに奥へ”と進んでいた。
その姿は、まるで――「呼び戻された」かのようだった。
私の背筋に、得体の知れない冷たさが走る。
逃げたのではない。
あれは、何かに応じて戻ってきた存在なのかもしれない。
私も、呼ばれているのかもしれない。
読了ありがとうございました。
03号は逃げたのではなく、「呼ばれて戻った」のではないか――
その可能性が浮上したことで、彼女の存在は単なる被害者や兵器ではなく、
より能動的な、“境界”に立つ者として描かれていきます。
次話では、その「はざま」にある場所への探索が始まります。
今までよりも一層、物語は現実と非現実の境目に踏み込んでいきますが、
最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
感想・評価など、お寄せいただけると励みになります。