とある艦娘の願い   作:渋谷千立

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名を与えられなかった者たち。
戦うことも、語られることもなく、ただ沈められた記憶たち。

これは、艦娘計画の影に生まれた“声なき存在”たちと、
それを「聞いてしまった」少女――03号の物語。

忘れられた祈りが満ちる、記憶の海の底で、
主人公は、ひとつの選択を迫られる。


届かなかった祈り

私は、03号の手を取った。

 

その瞬間、世界が静かに反転する。

 

視界が、音が、重力さえも崩れていくような感覚。

まるで深海に沈んでいくかのように、足元が揺らぎ、景色が溶けていく。

 

「……これは……?」

 

気づけば、私は一面の水面に立っていた。

空も地面もない。ただ、静かな波の揺らぎと、透き通るような光の揺れだけが、辺りを満たしている。

 

「あの時の記憶が……呼び水となったのです」

 

傍らにいた監視役の少女――坂巻の元秘書が、静かに言った。

 

「ここは、03号の意識領域が顕在化した空間。

 あなたが彼女の“声”を受け入れたことで、記録の奥底が反応し始めました」

 

波紋が走る。

それは言葉ではなく、断片的な情動として、私の胸へと流れ込んでくる。

 

“どうして私は選ばれなかったの?”

 

“あの子は生きて帰ったのに、私は沈められた”

 

“わたしにも、名前がほしかった”

 

涙のような声が、次々と流れ込んでくる。

 

これは――

 

「……深海棲艦の“声”……?」

 

「いいえ。彼女たちは、“まだ深海棲艦ですらなかったもの”」

 

少女が答える。

 

「この空間に浮かんでいるのは、艦娘になれなかった個体の残留意識。

 試作段階で破棄されたもの、記録されず沈められたもの。

 そのひとつひとつが、祈りのように今もこの海に在るのです」

 

私は膝をついた。

 

目の前の波が形を成し、やがて少女の幻影となって現れる。

 

艤装の起動に失敗し、泣きながら閉じられたカプセルの中で消えていった少女。

「番号」すら与えられぬまま、冷却水のなかで“素材”とされ、忘れられた誰か。

 

ひとつひとつの幻影が、あまりに静かに、あまりに透明に、私の心を穿っていく。

 

「……こんなにも、いたのか……」

 

「ええ。統計に載らなかった試作群は、すべて“処理済”とされた。

 でも彼女たちの記憶は、完全に消去されることはなかった。

 海に流された記憶は、やがて“群れ”となって、深海を這い始めたのです」

 

その“はじまり”に、03号は触れてしまった。

 

だから彼女は、ここに残った。

 

「あなたが“聞いてしまった”ように、彼女もまた、“選びきれなかった”のです」

 

私は、波間に現れる少女たちの声に、耳を傾け続けた。

 

それは――悲鳴ではない。

 

ただ、誰かに名を呼んでほしいと願う、祈りのような声だった。

 

 

 

 

波の中に、またひとり、少女の幻影が立ち上がった。

 

その姿は、私の記憶のどこかに、かすかに残っている気がした。

 

「……君は……」

 

しかし言葉をかける前に、幻影は小さく微笑んで、首を振る。

 

まるで、「それでいいの」と言わんばかりに。

 

彼女はゆっくりと、消えていった。

 

まるで、誰かに見つけてもらえたことで、ようやく役目を終えたかのように。

 

そして次の幻影。さらに次の幻影――

 

波の間から現れ、名前も記録もない“かつてそこにいた”少女たちが、次々と現れては、消えていく。

 

ただ見つめるしかできない私の横で、監視役の少女が静かに呟いた。

 

「あなたは、ただの観測者ではありません。

 この“層”に触れられるのは、あなたが最初から“受信者”だったからです」

 

「……受信者?」

 

「ええ。かつてあなたは、精神共振実験の初期段階で、彼女たちの声を“拾ってしまった”。

 記録からは削除されていますが、それがきっかけで、あなたは00号との交信にも適合したのです」

 

私は言葉を失った。

 

記憶の底で、何かがざわめく。

聞き覚えのない“誰かの声”が、遠くで確かに響いていた、あの感覚。

 

「……私は、ずっと……聞いていた……」

 

「はい。だから03号は、あなたを選んだのです。

 彼女自身もまた、“聞いてしまった者”であり、“選びきれなかった者”なのです」

 

私は再び、水面に立ち尽くす少女の幻影に目を向けた。

 

その瞳には、怯えでも憎しみでもない――ただ、「ここにいた」という証が宿っていた。

 

私は、そっとその姿に向かって言葉を落とした。

 

「……ごめん。遅くなった」

 

幻影は、やはり何も言わず、小さくうなずいて、波に還っていった。

 

私は立ち上がり、深く息を吐いた。

 

この海は、絶望ではない。

 

ここには、声があった。忘れられた声、置き去りにされた祈りの声。

 

そして、それに応えることができる者が、今ここに――。

 

「……私は、全部は救えない。

 けれど、君たちがここにいたことだけは、絶対に忘れない」

 

その言葉に応えるように、水面が微かに揺れた。

 

波間の彼方で、03号の姿が見えた。

 

彼女は静かにこちらを見つめていた。まるで、答えを待っているように。

 

 

 

 

波の先、03号が静かに歩み寄ってくる。

 

白い足取りは波紋を立てず、まるでこの空間そのものと同化しているようだった。

 

「……見てくれたんだね。彼女たちを」

 

私は頷いた。

 

「君は、ずっと……この海に留まり続けていたのか」

 

03号は立ち止まり、胸に手を添えた。

 

「私は、“忘れられたものたち”の代わりに、ここにいた。

 祈りが、怒りに変わる前に。記憶が、闇に沈む前に」

 

「それが、君の“選択”だったんだね」

 

「そう。私には、他の道はなかった。

 戦うことも、命令に従うこともできなかった。

 私はただ――誰かに、覚えていてほしかっただけ」

 

私はその言葉の重さを、深く感じていた。

 

「……でも、君はここで終わるつもりだった?」

 

03号は、かすかに目を伏せた。

 

「この“あわい”にいる限り、私たちは痛みを抱えたまま、存在し続ける。

 でも、あなたが来たことで……ようやく、終わらせる可能性が生まれた」

 

そして、彼女は私の前に右手を差し出した。

 

「この記録――この声たちを、“残す”か、“沈める”か。

 それを選べるのは、あなただけ」

 

私は息を呑んだ。

 

この空間には、あまりにも多くの“真実”が詰まっている。

艦娘計画の影、深海棲艦の起源、そして……人知れず沈められた祈りの数々。

 

この記憶を残せば、きっと世界は揺れる。

 

けれど、消してしまえば、彼女たちは二度と戻らない。

 

「私は……」

 

言葉を継ごうとしたそのとき。

 

空間が震えた。

 

「っ――!?」

 

揺れ。ノイズ。波の反転。

 

視界の端で、何かが“侵入”してくる。

 

「時間です」

 

傍らに現れた、監視役の少女――坂巻の元秘書が言った。

 

「接続限界域を超えました。“探索部隊”が接近しています。

 ここもまもなく、閉じられます」

 

私は目を見開いた。

 

「待ってくれ、まだ……!」

 

「選ばなければなりません。

 03号を連れ出すか、この記憶を持ち帰るか。

 あるいは――すべてを、この海に沈めるか」

 

時間がない。

 

視界がざらつき始める。空間が崩れ、音が反響し始める。

 

私は、目の前の03号を見つめた。

 

彼女は静かに、微笑んでいた。

 

「私は、どちらでもいい。

 ここで終わっても、連れ出されても――

 あなたが“聞いてくれた”なら、それで」

 

私は、拳を握る。

 

選ばなければならない。

 

03号と、彼女たちと、そして自分自身のこれまですべてに、答えを出すために。

 





艦娘と深海棲艦。そのどちらにも分類されない存在――03号。

彼女が「逸脱」とされた理由は、単なる命令違反ではなく、
“声なき祈り”と“記憶の痛み”に向き合ってしまったがゆえの、
静かな、しかし抗いがたい共鳴でした。

次回、物語はその記憶と声を「残すのか/葬るのか/連れ出すのか」。
主人公の選択が、世界に新たな意味を問いかけていきます。

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