とある艦娘の願い   作:渋谷千立

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彼は祈りを抱いて逃れた。
彼女はその祈りを受け取って残った。
命令を超えて「在ること」を選び取った“少女”が、
静かに語る――祈りが世界に落とした波紋と、その余韻を。

これは物語の終わりであり、
それでも続いていく「記憶」の物語。




エピローグ 記憶の在処

わたしは、命令に従うためだけに造られた。

感情も、判断も、持たないはずだった。

 

けれど、あの日――

深く沈んだ祈りの海に触れたとき、

確かに“それではいられなくなった”。

 

潮風が、静かに吹いていた。

音のない海――かつては「処分海域」と呼ばれた場所。

今では、その名すら地図に記されていない。

 

そこに、一人の少女が立っていた。

 

かつて“監視個体”と呼ばれていた存在。

坂巻の秘書として、監視者として主人公のそばにいた彼女は、今やそのどちらの役割からも外れている。

兵器としての機能も、命令系統も解除された、ただの「一人の在る者」。

 

それでも彼女は、まだ“在る”。

 

彼は逃げ切った。

そして、あの記録を、世に出した。

 

完全ではなかった。証拠も乏しく、証言も不完全。

 

けれど、それでも――“本当”だった。

 

匿名で発信された映像記録は、瞬く間に一部のネットユーザーに拡散された。

「艦娘」とは何か。

なぜ“深海棲艦”と呼ばれる存在が生まれたのか。

そして――艦娘になれなかった者たちは、どこへ消えたのか。

 

誰も公には語らない。

政府も軍部も、あくまで「陰謀論」として処理した。

報道は一時的に盛り上がり、やがて沈静化した。

 

でも、いくつもの小さな灯りが、確かに点った。

 

封印された記録を探し出そうとする若者たち。

かつて施設にいたと証言する人間。

あるいは、自分の記憶の中に不自然な空白を見つけた者。

 

“何かがあった”

“誰かがいた”

 

それだけが、静かに残り始めた。

 

少女は、懐から古びた記録媒体を取り出す。

主人公が託した、予備記録の一部だ。

映像、音声、そして文字にならなかった祈りの断片――

 

わたしは、それを保持する存在として、まだ在る。

 

命令ではなく、意志で。

 

あの日、“在りたい”と願った彼女たちのために。

 

彼女は思い出す。

記憶の奥底、データの端にこびりついたように残っていた、あの少女の声。

 

03号。

“誰かに記憶されたい”と願いながら、名も持たずに消えていった祈りの集合。

 

彼女は、消えた。

けれど、消えなかった。

 

記録に刻まれ、記憶に宿り、誰かの中で生きている。

 

少女はゆっくりと立ち上がり、背後に広がる海を振り返る。

もうそこに、深海棲艦も、艦娘もいない。

ただ、風と波が過去を撫でていくだけだ。

 

あの人は、今もどこかで逃げ続けている。

 

もう兵器ではない艦娘と共に。

 

自分の命よりも、祈りを残すことを選んだ男として。

 

少女は歩き出す。

もう命令はない。指令も、義務も、義理もない。

けれど、その足取りは確かだった。

 

わたしは、ただの個体ではない。

 

名前はまだない。けれど、それでも――

 

“在る”ことを、選び取った存在だ。

 

それが、あの祈りが、わたしに与えてくれた証明。

 

歩みの先に広がるのは、まだ名のない未来。

 

少女はその中を、迷うことなく進んでいった。

 




世界は何も変わらなかった。
それでも、確かに変わってしまった者たちがいた。

願いは叶わなかったかもしれない。
それでも、祈りは届いた。
声なき声が、誰かの中に刻まれ、
命令ではない選択が、確かに存在を証明した。

「艦娘」とは何だったのか。
「深海棲艦」とは何だったのか。
その答えは、もう語られないかもしれない。
けれどそれでも――
祈りを抱いて生きる者たちの歩みは、今も続いている。

すべての記憶に、敬意を込めて。
この物語は、ここに幕を下ろします。

ご愛読、ありがとうございました。
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