午後の陽射しは柔らかく、植物園のベンチにはうっすらと木漏れ日が落ちていた。
「……日陰とはいえ、少し暑いですね」
そう言って扇子を仰ぐモルガンの手は、いつもより緩やかだった。
金糸のような髪が風にそよぎ、耳元で揺れる飾りがかすかに鳴る。
「モルガン、大丈夫? 暑さ、苦手だったっけ」
「暑さそのものは問題ありません。ただ、こうして人の多い場所で、あなたと並んで座るなど……初めてのことでして」
「ん……うん。でも、嬉しいよ。今日はモルガンがここに来たいって言ってくれたから」
「勘違いなさらないでください。これは、“あなたと並んで歩いても悪くない”という結論に至った結果です。……特別扱いではありますけれど」
肩が、ほんの少し触れ合う距離。モルガンの背筋はすっと伸びていて、けれど目線はそっと藤丸の方へと傾いていた。
「あなたは、こういった場所が好きなのですね。静かで、騒がしくなくて……そして、恋人同士が手を繋ぐことも珍しくない」
「うん、そういうとこも好き。……あの、手、繋いでもいい?」
「ええ。ただし、指を絡めるのは私からです。そうでないと……気が済みません」
そっと伸ばされた手が、藤丸の手を優しく包み込む。
普段は支配と命令に満ちたその手が、今はただ一人の男の手を求めていた。
「……我が夫。あなたは、今のこの時間に満足していますか?」
「もちろん。モルガンと一緒にいる時間は、どれも大切で――幸せだよ」
「……そう。では、よろしい。次は……もう少し、人目のない場所にしましょう。今の私は……他人の視線に少し、落ち着きませんので」
そう呟く横顔に、淡く宿った微笑み。
妖精國の女王であっても、誰かにとってはただ一人の恋人でいられる。
手の温もりを確かめながら、二人はしばらく風に吹かれて座り続けていた。
ふたりは、植物園の奥にある小さなベンチに腰をかけていた。
人通りも少なく、温室の奥まった通路沿いには甘い花の香りと湿った緑の空気だけが漂っている。
「……落ち着きますね。騒がしくなく、視線も少ない。ええ、とても好ましいです」
モルガンは、藤丸の肩にそっともたれかかる。
普段なら決して見せない無防備な仕草だったが、ここでは彼女なりの“甘え”が許されるようだった。
「モルガン、こういうの……案外好きなんだね」
「好きかどうかと問われれば……そうですね、否定はいたしません。我が夫の隣という条件下でのみ、“こうした時間”は……」
一瞬言葉を切って、モルガンは喉元まで言いかけた言葉をごくりと飲み下す。
「……いえ。やはり、“好ましい”と認めましょう。私はいま、満たされているのですから」
「ふふ、ありがとう。……その言葉、嬉しいよ」
藤丸が微笑んで、彼女の髪にそっと指を通す。
繊細な金糸のような髪が、彼の手の中でふわりと舞う。
「っ……我が夫、無断で触れるとは。……いえ、いいでしょう。今だけは、特別に許可いたします。……存分に、甘えなさい」
「……甘えてるのはモルガンのほうじゃないかな」
「黙りなさい。我が夫」
それきり、ふたりは言葉を交わさず、ただ寄り添い続ける。
モルガンは目を閉じ、彼の肩にもたれたまま、まるで眠るように深く息をついた。
「……このまま、時間が止まっても構いませんね。あなたが隣にいるのならば」
彼女の声はいつになく柔らかく、そして――確かに、幸せそうだった。
「……我が夫。そろそろ、次の温室に移動いたしましょうか」
「うん、でもまだ……こうしてるの、名残惜しいな。もうちょっとだけ……」
藤丸が、モルガンの手を包み込むように握る。
それだけの仕草に、モルガンの耳がわずかに赤く染まる。
「……我が夫。まことに甘やかされ過ぎではありませんか? とはいえ……この感触、悪くは……いえ、むしろ良すぎて困りますね」
「俺のほうが甘やかされてると思ってたよ、ずっと」
「何を言っているのです。私は“王”です。貴方を庇護するのは当然のことで……でも……その、もう少し近くに寄っていただいても……構いません」
そう言って自ら肩をすり寄せてくるあたり、もはや照れの欠片もない。
むしろ、モルガンの方が甘やかしを要求していた。
ふと、頭上を鳥の影が横切る。視線を追ったモルガンは、ふと口元を綻ばせた。
「我が夫、あの鳥……つがいですね。ふふ、ちょうどよい。真似してみましょうか?」
「……モルガン、真似って」
「ぴったりと寄り添い、羽を絡ませ……ちゅっ、などと……」
「待った、ちょっと待って! や、やる気満々だよね!?」
「当然でしょう。我が夫。貴方が“好き”と申したのでしょう? ならば、私も“全力で応える”のが礼儀というものです」
「うん、うん……間違ってないけど、モルガン……声、大きい、大きいって!」
「聞かれて困るようなことではないでしょう。私が、我が夫のことを“好きで堪らない”のは事実なのですから」
藤丸の顔が真っ赤になる。モルガンは一方で、ややドヤ顔をしている。
まるで勝ち誇ったように胸を張ってみせるその姿は、完全に“バカップルの上”だった。
「では、次の温室では、もっと本格的に……」
「お、お手柔らかに頼みます、女王さま……!」
温室の奥、誰もいない静かな一角。そこに腰を下ろした二人の距離は、気づけば、ぴたりと寄り添うほどに縮まっていた。
「……我が夫。ここは少し……陽の光が強いですね。貴方の影、貸していただけますか?」
そう囁いたモルガンは、まるで当然のように藤丸の肩にもたれかかる。
「うん。俺でよければ、いつでもどうぞ」
「ふふ……随分と柔らかいお返事。まるで、抱き枕のようですね……いえ、それ以上かもしれません」
頬がかすかに触れる。息遣いも感じ取れるほどの距離。
そのままモルガンは視線を上げると、ゆっくりと、藤丸の胸元に手を置いた。
「我が夫。貴方の心音、いつもより少し早い気がいたしますが……?」
「あ、あー……それは、うん……距離感というか、なんというか……」
「ほう……まるで、私のせいだと?」
「そう言った覚えは……ないけど……うん、ごめん、ちょっとドキドキしてる」
「謝る必要などございません。それだけ、私を意識してくださっている証でしょう?」
くすり、と微笑むモルガン。その笑顔は女王のそれではなく、明らかに“好意を隠さない”誰かのものだった。
彼女は手を伸ばし、藤丸の頬にそっと触れる。
やわらかな指先が、確かめるようになぞる。
「……この温度。この輪郭。すべてが、私のものであって当然です。異論など、ございますか?」
「……あるわけないだろ。俺も、モルガンがいてくれるだけで……嬉しいよ」
「……っ、我が夫。まったく、貴方という人は……」
彼女はわずかに俯き、小さく口元を押さえる。
その仕草だけで、彼女の鼓動もまた藤丸と同じように高鳴っているのが、手に取るようにわかった。
「では……このあとの予定も、私に捧げてくださいませ。我が夫。よろしいですね?」
「もちろん」
二人の手は、もう離れようとはしていなかった。
陽の光が傾き始めるころ、温室の奥にあったベンチを立ったモルガンは、
藤丸の手を自然に取って、そのまま扉の外へと導いた。
「……夕方の風。気温の変化にはお気をつけください。我が夫が冷えるのは、好ましくありませんから」
その言葉に、彼は笑って手を握り返す。
「優しいな、モルガンは」
「当然です。貴方は私のもの。私が世話を焼かずして、誰が守るのです?」
そう言いながら、彼女は少しだけ肩を寄せる。
舗装された小道を歩きながら、ふたりの影がひとつに重なった。
藤丸が足を止めると、モルガンも自然と立ち止まり、首を傾げる。
「我が夫?」
「いや……このまま、ずっと歩いていたいなって、ふと思っただけ」
「……ふふ。私も同じ気持ちです。少し、寄り道しても……いいでしょう?」
視線を交わすだけで、互いの意図がわかる。
歩く先には、静かな芝の広場と、木々の間からのぞく夕焼け空。
ベンチに並んで腰掛けると、モルガンは膝を揃えて座り、やがて――
「我が夫。……膝、貸して差し上げましょうか?」
「え、いいの?」
「ええ。貴方の顔を間近で見たいと、思いましたので」
そのまま膝枕の姿勢になると、彼女の手が優しく髪を撫でてきた。
その指先は、女王のものではなく、どこまでも柔らかな温度で。
「……寝息など、立ててはいけませんよ。我が夫。私は今、とても満ち足りておりますが……油断なさらぬよう」
「……じゃあ、逆に聞くけど。こんなに心地よくされて、眠らないでいられる?」
「……可愛いことを、さらりと」
照れ隠しに少し頬をつねったモルガンの表情は、
それでもどこまでも甘く、やわらかくほころんでいた。
モルガンの膝の上に頭を乗せたまま、藤丸は小さく息をつく。風が葉を揺らす音のなか、彼の指がそっと彼女の手を探し、指先を絡めた。
「……この時間、ずっと続けばいいのに」
「叶えましょうか? 我が夫の願いであれば、この世界の時の流れを変えることも、私には――」
冗談めかしたその響きに、彼はくすりと笑って、指を少し強く握る。
「気持ちだけで、充分すぎるくらいだよ」
「そう、ですか……。では、今はこうして……私のことだけを、見ていてください」
言葉と同時に、モルガンはほんの少し身をかがめて、前髪をかき分けながら彼の額に唇を触れさせた。軽く、優しく、けれど確かな熱を持って。
「……いけませんか? 貴方に触れていると、つい――」
「嬉しいよ、全部。モルガンが、俺にだけ見せてくれる顔が、すごく」
「ならば、もっと見せましょう。……他の誰にも許さない、私だけの甘えを」
そう言って、彼の胸元に手を滑らせ、服の皺を整えるふりをしながら、その指先をそっと留める。まるでそれが当然であるかのように。
彼の頬がゆるむのを確認したモルガンは、わずかに声を低くして囁いた。
「我が夫、もっと私を喜ばせてください。優しい貴方が……私だけを見て、私のために笑う姿が、何よりも好きですから」
言葉の余韻が残るなか、彼はゆっくりと身を起こし、モルガンの手を引いて、今度は彼女の頭を自分の肩に預けた。
「じゃあ、今度は俺が、モルガンを守る番だね」
「……ふふ。どうぞ、お好きなように。私は、貴方にされることなら、何でも……」
言いかけて、唇を閉じる。その瞳がほんの少し潤んだように見えたのは、きっと夕陽のせいだけではなかった。
モルガンが肩に寄りかかったまま、藤丸はそっと彼女の髪を撫で続けていた。
「……こうしていると、時間の感覚が曖昧になるな」
「はい。けれど、貴方と過ごす時間なら、たとえ無為でも……意味のあるものになります」
言いながら、モルガンの指が彼のシャツの袖口をきゅっと摘まんだ。まるで、ほんの少しの距離も許したくないと言わんばかりに。
「そんなに、俺にぴったりくっついてて疲れない?」
「疲れるわけがありません。私は今、とても機嫌が良いのです。……その証拠に、こうして触れていられるのですから」
藤丸はその言葉に笑って、小さく肩をすくめる。
「そっか。じゃあ、もう少しこうしてようか」
「もう少し、ではなく……できれば、もっと、です。我が夫」
しっかりと彼の腕に抱きつきながら、モルガンは耳元でささやく。
「このまま、誰にも邪魔されずに……私の言葉だけを聞いて、私の存在だけを感じていてください。……貴方の愛が、他の誰にも向かないように」
その声音は、甘やかで独占欲に満ちていた。けれど、それ以上に――どこか、少しだけ寂しそうでもあった。
だからこそ、藤丸はそっとその手を取り、頬に寄せる。
「モルガン。俺は、君だけだよ。約束する」
「……言いましたね。我が夫。ならば、破ればどうなるか……よく覚えておいてください」
警告めいた響きを残しながら、それでもモルガンの頬はどこか火照って見えた。嬉しさを隠そうとしても、隠しきれていない。
「では、報酬として……」
彼女はそっと身を寄せ、彼の首筋に唇を寄せる。ふわり、と風が吹いた。夏の陽が傾きはじめ、木々の隙間から射す光が、ふたりを包む。
「次は、どんな“我儘”を言っても許されるのですね。……ええ、楽しみです。我が夫」藤丸の腕に抱きついたまま、モルガンは頬を少しだけ膨らませて言った。
「……我が夫。もう少しだけ、このままでいていただけますか? 動かれると、拗ねます」
「拗ねるんだ?」
くすっと笑いながら、藤丸は肩越しにモルガンの表情を盗み見る。彼女はじっと、少しだけ潤んだ瞳で彼を見つめていた。
「はい。私は今、とても満たされているのです。だからこそ、終わらせたくない。……いいえ、終わらせる気など、初めからありません」
「そんなに……俺のことが好き?」
「当然です。我が夫は私にとって、すべてなのですから。私を見捨てず、支え、そして愛してくださる。そんな存在を、私は離したくない……いいえ、離しません」
その言葉の一つひとつが真っ直ぐで、強い意志に満ちていて、藤丸は一瞬、胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。
「……ありがとう。俺も、モルガンがいてくれるだけで、何度だって頑張れるよ」
「ええ。ですから、もっと甘えてください。命令ではありません、お願いです。我が夫」
モルガンはそっと藤丸の手を引いて、自分の頬に押し当てる。肌の温もりを確かめるように、目を細めながら。
「……このまま、永遠にこうしていたいですね。無理なことだとわかっていますが、それでも願ってしまうのです。……貴方となら、“終わり”ですら、怖くないと」
日はゆっくりと傾き、夕暮れが辺りを朱に染めはじめる。ふたりの影が寄り添うように伸び、重なり、溶け合っていく。
モルガンは、彼の肩に額を預け、そっと目を閉じる。
「今だけは、すべて忘れてください。私も、貴方のことだけを考えますから……」
風が吹く。柔らかなその音が、ふたりの間に揺れる愛情を、そっと包み込んでいった。