モルガンと手をつなぐだけのお話   作:得夜の


原作:Fate/
タグ:R-15 Fate
任務の合間、ひとときの散策へ出かけた藤丸とモルガン。
歩き疲れたふたりは、園の奥にひっそりと佇む石造りのベンチに腰を下ろす。


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モルガンと手をつなぐ

ここ数日、藤丸の仕事は連続していた。朝から深夜まで資料整理や報告作業に追われ、誰が見ても疲労の色は隠せなかった。

 

 そんなある朝、仮眠を終えたばかりの彼が、モルガンの部屋をノックすると――。

 

 

 

 「おはよう、モルガン。今日はようやく一日、自由に――」

 

 

 

 言葉の途中、彼の胸元にするりと手が伸びてきた。モルガンだった。化粧も戦装束もまとっていない、少しだけ柔らかな表情の彼女が、無言でそのまま彼の手を取る。

 

 

 

 「よろしい。今日は私と過ごしなさい。我が夫」

 

 

 

 「え?」

 

 

 

 「質問は許しません。あなたは、ここ数日ろくに眠れていなかった。それは、私が見ていないはずがありません。ですから、今日は私が予定を立てました」

 

 

 

 そう言うと、モルガンはすでに手にしていた帽子を被り、手首に藤丸の腕を絡めた。まるで“これが当然”というように。

 

 

 

 「……休息は大義名分に過ぎません。あなたが私と歩く――ただそれだけで、今日は十分に“意義ある日”になるでしょう?」

 

 

 

 彼女の言い分は、相変わらず堂々としていたが、どこかくすぐったいものが含まれていた。

 彼女なりの気遣いと、彼女なりの甘え。それを悟った藤丸は、素直に頷いた。

 

 

 

 「……じゃあ、今日は、モルガンの言う通りにするよ」

 

 

 

 「良い判断です。我が夫。では、行きましょう。あなたの左手は、今日一日、私のものです」

 

 

 

 そしてふたりは出かけた。目的地も、理由も、モルガンの胸の中にある。

 けれど藤丸には、それが「とても楽しみだ」と思えるだけで十分だった。

 

緩やかな坂道を登ると、視界が開けた。季節の花が控えめに咲き、ベンチには誰の姿もない。

 

 「ここです。我が夫。日差しが程よく遮られ、視線も交わらない……理想的です」

 

 モルガンはそう言って、先にベンチへ腰を下ろす。藤丸もその隣に腰掛けると、自然に肩が触れた。

 

 すぐに、手のひらが重なる。

 

 「……こうして、ただ隣に座っているだけで満たされるとは。あなたのせいです」

 

 少しだけ頬を膨らませて言うモルガンの声は、けれど柔らかくて、どこかくすぐったかった。

 

 彼が小さく笑うと、彼女はそっと手のひらを握り直す。

 

 「……あまり、笑わせないでください。我が夫。真剣なのです」

 

 「うん、ごめん。でも、モルガンが隣にいると、自然と笑っちゃうんだよ」

 

 その言葉に、モルガンは一瞬目を伏せた。少しだけ照れたように。

 

 「……それ以上、軽率に褒めると困ります。……今すぐ抱きつきたくなりますので」

 

 「それは……ここでは、ちょっと、ね」

 

 「だからこそ、です。我が夫。人目のある場所で、こうして“少しずつ”近づく行為……あなたも、嫌いではないでしょう?」

 

 言葉の最後に、わずかに身を寄せる。その頬が彼の肩に触れた。

 

 「ねぇ、モルガン」

 

 「……何でしょう」

 

 「今日、ここに来てよかった?」

 

 「愚問です。我が夫。あなたがいる場所が、私にとっての“最も良い場所”です」

 

 モルガンは真面目な顔で言い切ったあと、小さく鼻先で笑った。

 

 そして、そっと自分の額を彼の肩にあずけながら、つぶやいた。

 

 「……だからもう少し、こうしていてもいいでしょう。……あなたが許す限り」

 

風がひとつ、枝葉を揺らしながら通り過ぎる。

 

 モルガンの髪がさらりと揺れ、光の中で柔らかにきらめいた。

 彼女は肩を寄せたまま、ふと空を見上げる。

 

 「……雲のかたち。あれ、見てください。我が夫。ほら、あの丸いもの。何かに似ていませんか?」

 

 指さす先には、ふんわりとした楕円形の雲。

 藤丸が少し目を細めて首をかしげると、モルガンは顔を覗き込むようにして言う。

 

 「……団子です」

 

 「だんご?」

 

 「ええ。三段の。中でも私は……真ん中が好みです。やわらかくて、甘すぎなくて」

 

 「モルガンって、団子の話するとき、なんか楽しそうだよね」

 

 「……うっ」

 

 不意を突かれて、モルガンはわずかに唇を尖らせる。

 

 「そんなことを言って。……では、確認しますか?」

 

 「確認?」

 

 「その、私が“甘すぎない”かどうかを、です。我が夫」

 

 急に顔が近づく。

 モルガンの瞳はまっすぐに彼を見つめ、頬をわずかに染めながら囁くように続ける。

 

 「人のいない、もう少し奥の場所へ……移動してみませんか?」

 

 「それってつまり……」

 

 「……その“つまり”の部分を、私に言わせたいのですか?」

 

 挑発的に見えたその微笑は、すぐに少し照れくさそうな表情へと変わった。

 

 藤丸は笑って立ち上がり、手を差し出す。

 

 「うん、行こう。モルガンの“確認”なら、いくらでも付き合うよ」

 

 「ええ……では、しっかりと覚悟してください。我が夫」

 

 彼女の手が重なり、指先が強く絡む。

 そしてふたりは、木陰の奥へとゆっくりと歩き出した。

 

奥まった小道に入ると、木々の影が濃くなり、周囲の喧騒がすっと遠のいた。

 

 「……これほど静かだと、まるで別の世界のようですね」

 

 モルガンはそう言って、軽くスカートの裾を整える。

 木漏れ日が編み目のように彼女の肩に落ち、そのたびに表情がふわりとやわらぐ。

 

 「なんだか……すごく落ち着くね」

 

 「はい。私も、そう思っていました。我が夫の隣にいると……余計なことを考えずに済むのです」

 

 そう言って、彼女は少しだけ身体を寄せてきた。

 

 「他人の目もありません。貴方のために、もっと甘えてみても……罰は当たりませんよね?」

 

 藤丸は微笑みながら、その肩に手を回す。

 

 「もちろん。むしろ、そうしてくれると嬉しい」

 

 「……では、もう少し、遠慮せずに」

 

 モルガンは身体を預けるように寄りかかる。

 頬が彼の肩にふれ、胸元から静かな吐息がもれる。

 

 「こうして触れているだけで……不思議と、安心します。どうしてでしょう」

 

 「それは……好きだから、じゃないかな」

 

 「……っ。貴方という人は、どうしてそう、真正面から」

 

 耳元が赤くなるのが見えた。

 それでも彼女は離れようとはせず、むしろさらに腕の中に納まってくる。

 

 「やはり、私は……このまま、貴方に捕まっていた方が幸せなのかもしれません」

 

 「モルガンは“捕まってる”って思ってるの?」

 

 「違います。捕まえていただいているのです。私は、それを心から望んでいる」

 

 言葉と共に、彼女はそっと顔を上げた。

 ほんの一瞬だけ迷うようなまなざしのあと、彼女の瞳が静かに微笑む。

 

 「……我が夫。少しだけ、目を閉じていただけますか?」

 

 藤丸はその意味を問わずに、優しくうなずいた。

 

 

目を閉じた彼の頬に、そっと風が触れた……ような気がした。

 けれど、すぐに分かる。違う。

 それは、モルガンの唇が静かにふれた、やわらかくて、控えめな、けれど確かな接触だった。

 

 「……我が夫」

 

 声が、近くで震えている。

 

 「これは、命令でも、誓約でもありません。ただ、私の意志です」

 

 藤丸が目を開けると、すぐ目の前に彼女がいた。

 頬が紅く染まり、けれど視線は逸らさず、真正面から彼を見つめている。

 

 「いまの私は、“王”ではありません。“妻”として、貴方に……そう、愛されたがっているのです」

 

 彼女は、そっと指先で藤丸の胸元をなぞる。

 その動きは、指先の震えのせいか、ひどく慎重で、愛おしいほどに頼りない。

 

 「触れて、抱いて、名前を呼んで……我が夫のすべてに応えたいのです。今は、ただそれだけを」

 

 藤丸は、静かに彼女の両肩を抱いた。

 拒まれないのを確かめてから、その背へと、安心という名の体温を返してやる。

 

 「モルガン」

 

 「……はい」

 

 「俺も、今だけは“マスター”じゃない。ただの、君の……夫でいたい」

 

 彼女は、腕の中でふわりと息をもらし、胸のあたりで小さく笑った。

 

 「では、契約違反ではありませんね。……一時的な役職放棄、私も便乗いたします」

 

 ふたりは、しばらくのあいだ、何も言わずに木陰にいた。

 鳥の声と風の音、そのすべてが、遠くなるくらいに静かに――。

 

 やがて、モルガンがぽつりとつぶやく。

 

 「このまま、誰にも邪魔されずに……昼寝でも、してみたいものですね」

 

 「いいね。俺も、そう思ってた」

 

 「やはり似ていますね。……心の底では、私たち」

 

 肩にもたれるその重さが、少しだけ増した気がした。

 そしてその手は、まるで“離さない”という意志を伝えるように、しっかりと彼の胸元をつかんでいた。

 

木陰のベンチは、思ったよりも涼しく、静かだった。

 

 寄り添う彼女の体温が、じんわりと伝わる。

 藤丸は背凭れに身体を預けながら、その肩をそっと抱いたまま、空を見上げた。

 

 「……我が夫、」

 

 モルガンがぽつりと口を開く。

 

 「このような時間に、私はまだ慣れておりません。けれど……」

 

 彼女は言葉を切り、ゆっくりと彼の膝へと頭を乗せる。

 

 「この位置、とても落ち着きます。……我が夫の匂い、心地良くて」

 

 頬が少し紅潮している。だがその目は閉じられ、安らいでいた。

 

 「眠くなってきた?」

 

 「ええ……責任を取って、貴方が毛布になってください。……我が夫ですから」

 

 冗談のように言いながらも、指先は彼の手を探り、きゅっと絡めてくる。

 

 「私は、こうして触れているだけで、心が安らぎます。貴方にしか、できないことです」

 

 モルガンの声音は、少しずつ熱を帯びていた。

 それは情熱というより、微睡みと信頼の混ざり合った、穏やかな“甘え”。

 

 「私、今だけは……ただの女で、いてもいいのでしょうか?」

 

 「もちろん。君が望むなら、いつでも」

 

 藤丸は手を解かず、モルガンの髪を優しく撫でる。

 

 「……ふふ。撫で方も心得ていらっしゃる。さすが、我が夫」

 

 頬をすり寄せてくる彼女の姿に、自然と笑みがこぼれる。

 

 「このまま、陽が傾くまで……いえ、夜になっても、帰りたくありませんね」

 

 「それじゃ、今日はもう、ふたりでサボっちゃおうか」

 

 「ええ。夫婦そろって怠惰……ですが、それもまた、魅力的です」

 

 小さな風が吹き抜ける。葉擦れの音の向こう、時間がゆっくりと流れていく。

 彼女は微笑んだまま、藤丸の膝で目を閉じ、もう二度とこの場所を離れたくないと、声にはせず願っていた。

 

しばらくの静寂。

 モルガンは藤丸の膝に頭を乗せたまま、うとうとと目を閉じていた。

 

 だが、風がひとつ強く吹いた拍子に、木の葉が大きく揺れ、その音に目を細めた。

 

 「……あまり、眠れませんね。落ち着きすぎて、逆に気が抜けません」

 

 「そういうの、すごく分かるかも。リラックスしすぎると、逆に眠れないよね」

 

 「ええ。我が夫の膝という絶対的な安心に、もう一段階の背徳が必要なようです」

 

 藤丸が小さく笑った。彼女の“背徳”という言い方に、なんとも彼女らしい理屈の甘やかしを感じて。

 

 「じゃあ……こういうのはどう?」

 

 彼が自分の上着を脱ぎ、それをそっとモルガンの肩にかけた。

 

 「……我が夫。これは、思っていた以上に……破壊力があります」

 

 「破壊力?」

 

 「はい。あなたの匂いと体温に包まれながら、こうして見下ろされる構図……言葉にはできません。ですが、心がふわふわします。……もっと、堕ちてしまいそうで」

 

 少しだけ膝の上で身じろいだモルガンが、わざとらしく咳払いする。

 

 「……ふむ。問題です。我が夫、責任を取りなさい。こうなっては、私はもう立ち上がれません」

 

 「じゃあ……このままお姫様抱っこして帰る?」

 

 その冗談に、モルガンはぷいと顔を背けた。

 

 「……冗談でも、そういう提案をされると、胸の奥が妙に騒がしくなります。……何ですか、その、ぬくもりと真面目さの中間のような声は」

 

 「そんなつもりはなかったけど……たぶん、モルガンのことをちゃんと大切にしたいって気持ちが、声に出ちゃったのかも」

 

 「…………我が夫」

 

 モルガンはもう一度、彼の方へ顔を向けると、ゆっくりと体を起こした。

 

 彼の顔と、まっすぐに目を合わせる。指先が、頬に触れる。

 

 「大切にされることに、私は慣れていないのです。ですが……」

 

 彼女は、きちんとその指で藤丸の髪を撫でるように下ろしながら、柔らかく微笑んだ。

 

 「貴方にされるのであれば、いくらでも甘えたい。……我が夫、甘えさせてください。あと一歩、あと一歩だけ、そばに寄りたいのです」

 

 「うん。俺も、あと一歩近づきたい」

 

 指先が、指先に重なって、静かに、手を重ね合った。

 

 そのままの姿勢でしばらく黙っていたふたりを、陽の光が柔らかく包んでいた。

 

 

 日差しがやや傾き始めた頃、ふたりは園内の奥へと足を進めていた。

 

 足元には滑らかな石畳が続き、その先には、硝子張りの温室が静かに佇んでいた。

 

 「……ここが、次の目的地ですか?」

 

 「うん。花が好きだったよね、モルガン」

 

 「はい。育てるのはあまり得意ではありませんが、見るのは嫌いではありません」

 

 その返事には照れ隠しの響きがあった。けれど、歩を進めるたびに、モルガンの瞳は確かに輝きを増していた。

 

 温室の扉を開けると、ほのかに湿った空気と、草木の香りが包み込むように広がった。

 

 モルガンはその空気を一度吸い込んでから、そっと囁いた。

 

 「……静かですね。我が夫の声が、いっそう近く聞こえます」

 

 「ここ、あまり知られてない場所らしくて。だから、今日はここでのんびりしたいなって」

 

 「ええ。……許可します」

 

 彼女の声が、どこか甘く、冗談のようで真剣だった。

 

 モルガンは近くの木陰に手を伸ばし、白く咲いた花の茎に指を滑らせる。

 

 その姿に見とれていた藤丸が、不意に口にした。

 

 「……花も綺麗だけど、モルガンのほうが――」

 

 「その先を言ったら、我が夫、私は反撃に出ますよ?」

 

 「……手加減してくれるなら」

 

 「しません」

 

 きっぱりと言いながらも、彼女はその手を彼の手の甲に重ねていた。

 

 「……私は、貴方に何かされるより、貴方が照れる顔を眺める方が好きです。これは……ささやかな復讐です」

 

 「そんな顔して言うこと?」

 

 「してます。我が夫、私の手を離さなければ、許して差し上げます」

 

 その条件に、彼は静かに笑って、ただ一言。

 

 「ずっと握ってるよ」

 

 温室の中。小さな世界に閉じ込められたふたりの時間は、外の風さえ忘れさせるほど、ゆるやかに満ちていった。

 

温室の奥、小さなベンチが備え付けられた一角があった。

 藤丸が気づいて「休んでいこうか」と促すと、モルガンは一拍置いてからうなずく。

 

 「……それでは、少しだけ」

 

 静かに腰を下ろすモルガン。その隣に、藤丸も間を空けずに座る。

 途端に、わずかな距離だったはずの空気が柔らかく溶け合うように感じられた。

 

 「この空間……心地が良すぎます。空調の魔術でもかかっているのではないでしょうか?」

 

 「そうだったらすごいよね。でも、自然の力ってのも案外すごいもんだよ」

 

 「……その通りですね。我が夫と並んで座っているという、精神的な高揚のせいかもしれません」

 

 冗談めかして言ったつもりのモルガンの声は、どこか上擦っていた。

 口元を隠そうとする指先の仕草も、普段の王としての威厳ではない、年相応の少女らしさを帯びていた。

 

 藤丸はふと視線を落とす。

 重ねられた彼女の手が、膝の上でそわそわと動いていた。落ち着かない様子で、けれど逃げ出す気配はない。

 

 「……握っても、いい?」

 

 「訊かずとも、我が夫の自由意思に任せます」

 

 口ではそう言いながら、モルガンの手はわずかに開かれていた。

 その柔らかな隙間に、彼は指を重ねていく。ぴたりと収まるその感触に、互いに短く息を吸った。

 

 「……温室、というより、密室ですね」

 

 「……そうだね。静かだし、他に人もいない」

 

 「つまり、私たちだけの空間です」

 

 「うん。誰にも邪魔されない時間、ってことだね」

 

 「……それは、思ったより――危険ですね」

 

 そう言って、モルガンは身体を少し寄せる。

 腕と腕がぴったりと触れ合う距離。彼女の肩が彼の肩に預けられた。

 

 「我が夫……」

 

 呼びかけは、小さく、けれど確かだった。

 

 「私は、こうして隣にいることに、いつまでも慣れられそうにありません」

 

 「うん」

 

 「けれど、それは……嫌ではありません。いえ、むしろ……」

 

 彼女の言葉は、そこでいったん止まった。

 わずかに俯き、彼の肩に額を預けるようにして、続きを吐息で包む。

 

 「……我が夫の側でしか感じられない心地良さが、ここにあるのです」

 

 「俺も、そうだよ」

 

 「では……」

 

 モルガンの手が、そっと彼のシャツの袖をつまむ。

 

 「……しばらく、こうしていても、構いませんか?」

 

 「もちろん」

 

 彼が応じると、モルガンは何も言わず、小さく息を吐いた。

 穏やかで、満ち足りた吐息。彼女の全身が、わずかに彼に預けられていく。

 

 硝子越しの陽光に包まれて、温室の片隅に、寄り添うふたりだけの静かな世界が生まれていた。

 

 

時間の流れが少しずつ緩やかにほどけていく。

 温室の静けさに包まれながら、藤丸は手元のカバンを軽く開いた。

 

 「……あ、これ。持ってきてたんだ」

 

 取り出したのは、小ぶりな魔法瓶と、二つに分けた布包み。

 モルガンが興味深そうに身を乗り出すと、彼は柔らかく笑って応じた。

 

 「サンドイッチと紅茶。冷めても美味しいやつだって、ダ・ヴィンチちゃんが教えてくれてさ。今日の天気なら、ちょうどいいかなって思って」

 

 「我が夫は……抜かりありませんね。まるで、私を喜ばせるために計画を立ててきたかのよう」

 

 「うん。その通りだよ。モルガンが、今日一日、のんびりできたらいいなって思って」

 

 「……ああ、本当に……」

 

 モルガンは一瞬、言葉を探すように目を伏せた。

 

 「……私は、幸せ者ですね」

 

 藤丸が包みを解いて広げると、色とりどりの具材が挟まったサンドイッチが並んでいた。

 彼女の好みに合わせて、肉系は控えめにし、野菜やハーブを豊富に使ったレシピだ。

 

 「お口に合うといいけど」

 

 「いただきます……ふふ。これは……想像以上です」

 

 口にした瞬間、モルガンの表情がわずかに緩んだ。

 それは、かつて“王”として眉一つ動かさなかった彼女からは考えられないほどの、素直な喜びの色だった。

 

 「我が夫、紅茶もいただいてよろしいでしょうか」

 

 「もちろん。はい、どうぞ」

 

 彼が注いだカップを受け取ると、モルガンはその手を取って、指先にそっと唇を落とした。

 

 「感謝の印です」

 

 「……モルガン、ちょっとずるいよ、それ」

 

 「ずるい、ですか?」

 

 「そういうの……反則だよ」

 

 「でしたら、今後は何度でも使います。我が夫を、骨抜きにして差し上げます」

 

 さらりと言い放つ声に、どこかくすぐったいような笑みが混じる。

 藤丸が思わず吹き出すと、モルガンは目を細めて問い返した。

 

 「そんなにおかしいことを言いましたか?」

 

 「ううん、嬉しくて。……嬉しすぎて、どうしようかなって思ってる」

 

 「それは、私の専売特許です。我が夫が私の言動で困る……それが、私にとっての至上の喜びです」

 

 そして、紅茶の湯気越しにふたりは向かい合い、何も言わずに、ゆっくりと微笑み合った。

 

 時折、指先が重なり合い、サンドイッチを手渡しながら軽く触れあう。

 ただそれだけの動作にさえ、甘さが滲んでいた。

 

 温室の片隅に、小さなピクニックのような時間が生まれていた。

 それは、他の誰にも見せない――ただふたりきりの、穏やかで濃密な、心を預けるひとときだった。

 

園路の先、木々に囲まれた一角に足湯テラスがあった。

 温泉地のような本格的な設備ではないが、木造のベンチと小川を引いた湯舟、そして控えめに湯気の立つ水面は、どこか贅沢な雰囲気を醸していた。

 

 「……こういう場所まで見つけてくるとは。さすが、我が夫です」

 

 モルガンは腰を下ろしながら、足をそっと湯に沈めた。

 スカートの裾が少し揺れて、肌がほのかに紅く染まる。

 

 「気持ちいいね。熱すぎないし、風もちょうどいい」

 

 「ええ。足先だけでも、随分と癒されますね……」

 

 彼の隣に座ると、彼女は自然と距離を詰め、指先がそっと彼の袖をつまんだ。

 

 「……我が夫」

 

 「うん?」

 

 「この場所、とても静かで……」

 

 「うん」

 

 「……誰にも見られませんよね?」

 

 彼女の声が、わずかに甘く低くなる。

 顔を向けると、視線は逸らし気味なのに、どこか期待するような色を含んでいた。

 

 「……そっと肩を寄せても、よろしいですか?」

 

 「もちろん」

 

 返事を待たず、彼女はすっと体を寄せる。

 腕が触れ、肩が重なり、湯気の向こうに彼女の頬が赤く染まっていた。

 

 「ふふ……湯のせいではありませんよ。こうして隣にいるだけで、体温が上がるのです」

 

 「俺も、同じ気持ちだよ」

 

 「……では、証明を」

 

 モルガンは小さく笑うと、そのまま彼の肩にもたれかかった。

 足湯に沈むふたりの影が、夕陽に溶けてゆく。

 

 「我が夫」

 

 「うん」

 

 「このままでは、あなたに甘え癖がついてしまいそうです。……責任、取っていただけますね?」

 

 「もちろん。何があっても、最後まで」

 

 「……頼もしいお返事。よろしい。では今は、もう少しだけ……」

 

 その先は、言葉にしないまま。

 頬を寄せたまま、モルガンは目を閉じ、彼の肩に静かに頭を預けた。

 

 

 

 足湯の湯面に、赤く染まった空が揺れていた。

 

 モルガンは肩を預けたまま、まぶたを閉じている。けれど、その瞳の奥は決して油断しているわけではなかった。彼女の手が、彼の袖を指先でたぐるように握る。

 

 「……我が夫」

 

 「うん」

 

 「そろそろ、立ち上がらないといけませんね。……ですが、もう少しだけ、甘えても?」

 

 「もちろん。好きなだけ」

 

 そう言って藤丸が微笑むと、モルガンはわずかに身を起こし、正面から彼の目を見つめた。

 その距離、わずか数十センチ。湯気が二人の間をふわりと横切り、彼女の瞳にかかる。

 

 「我が夫。……顔が、近いです」

 

 「離れたほうがいい?」

 

 「いいえ。むしろ……少し、足りません」

 

 言葉とともに、彼女の手がそっと彼の頬に触れた。

 冷たくも熱すぎもせず、やわらかくて繊細な指先。

 

 そしてそのまま、唇が重なるまでに時間はかからなかった。

 

 優しい、短いキスだった。

 けれど、その余韻は長く、まるで静かな温泉の湯気のように、心の奥を満たしていく。

 

 「……なるほど。これが、“人前での甘やかし”というものですか」

 

 「恥ずかしかった?」

 

 「ええ。恥ずかしかったです……だから、もう一度」

 

 囁くような声でそう告げると、モルガンはもう一度、彼に身を寄せて――

 

 「我が夫。責任は重く、罰は甘く……覚悟してください」

 

 今度は、先ほどよりも深く、長い口づけが、静かな足湯の音の中に溶けていった。

 

 

足湯の縁に座り直しながら、モルガンは胸元にかかる髪を指先で整えていた。

 顔を隠す仕草にも似ていたが、頬の赤みが完全に引くまでは、わずかに時間がかかりそうだった。

 

 「……我が夫、周囲には……誰もいません、ね?」

 

 「うん。たぶん、あっちのベンチにいた人たちも、もう戻ったみたい」

 

 「それなら、あと五分だけ……このまま。ええ、五分だけです」

 

 言いつつも、彼女は再び彼の肩に額を預ける。

 その重さは、ごくかすかで。けれど確かに、彼女自身の意志がそこにあった。

 

 「我が夫。今日は……楽しいですね」

 

 「うん。俺も、すごく」

 

 「普段、カルデアではこうした時間を取るのも難しいですから……いえ、難しかったのですね。今は違います」

 

 「そっか」

 

 「ええ。“今は”……私が自分で選んだ、この時間ですから。貴方と手を繋いで、歩いて、足を湯に浸して……口づけて……」

 

 そこでモルガンの声がわずかに細くなる。

 だが、その横顔に浮かぶ表情は、まぎれもなく幸福に満ちたものだった。

 

 「……“幸せ”というのは、こういうものなのですね」

 

 「モルガン……」

 

 「黙っていてください。こうして話すのも、勇気が要るのです」

 

 そう前置いてから、モルガンはふっと息を吸い、再び藤丸の目を見た。

 

 「我が夫。私は貴方に……今以上に、何も求めません。ですが、願わくば」

 

 言葉を止めずに、静かに手を重ねる。

 

 「この“今日”を……いつか振り返って、『いい一日だった』と思えるよう、大切に覚えていてください」

 

 「……ああ。絶対に」

 

 その返事を聞いたモルガンは、目を伏せて、小さく、けれど確かに微笑んだ。

 

 「……それでは、“五分”は、延長としましょう。貴方のせいですから」

 

 そのまま再び肩を預け、湯面に映る空が、ゆっくりと朱に染まっていくのをふたりで眺めた。

 

 

風が一度吹いて、湯面のさざ波が静かに揺れた。

 それに合わせるように、モルガンの髪がふわりと舞い、隣にいる藤丸の頬に、かすかに触れた。

 

 「……あっ」

 

 小さな声が漏れたのは、モルガンのほうだった。

 驚いたように、けれど少しだけ嬉しそうに目を細めて。

 

 「……今、風が。……私の髪で、くすぐってしまいましたか?」

 

 「うん。でも、悪くないよ。モルガンの髪、すごく……いい匂いがする」

 

 「っ……、我が夫。そういう言葉は……予告してから仰いなさい」

 

 言葉とは裏腹に、モルガンの耳はすぐに紅く染まっていく。

 すぐに逸らした視線の先は、どこかに逃げ場所を探しているようだった。

 

 「ごめん。……でも、つい、言いたくなって」

 

 「…………本当に」

 

 そう呟いた彼女は、小さく吐息をこぼしてから、ゆっくりと彼のほうへ顔を戻す。

 そして今度は、自分から身体を寄せ、彼の両肩に手を添えた。

 

 「……我が夫。こちらを、向いてください」

 

 その声音は、静かで、でも確かな意志を感じさせるものだった。

 

 藤丸が応じて顔を向けると、そこに、ほんのわずかの間が流れる。

 

 そして──

 

 「…………もう一度だけ、許可を」

 

 目を閉じたモルガンの唇が、静かに彼のものに触れた。

 

 そのキスは、さきほどよりも長く、けれどどこまでも優しく、慈しむようで。

 藤丸はただ、その感触を大切に抱きしめるように、そっと彼女の背へ手を回した。

 

 離れたのは、ほんの数秒後。

 

 モルガンは、息を整えるように瞼を伏せ、またそっと目を開く。

 

 「……今のは、“我が夫”としての義務ではなく……“私”としての、希望でした」

 

 「うん。……ちゃんと、伝わったよ」

 

 「そう、ですか……それなら、安心です」

 

 彼女はほんの一瞬、はにかむように微笑んだ。

 そして再び肩を寄せ、静かに、湯のぬくもりと彼の体温に身を預ける。

 

 傾きかけた陽に、ふたりの影が、細く、長く伸びていた

 

 

 

足湯を後にし、坂道を下りながら、藤丸は隣を歩くモルガンの横顔を盗み見た。

 

 夕暮れが近づき、あたりの街灯に一つ、また一つと灯がともりはじめていた。

 

 「……あの」

 

 声をかけたのはモルガンの方だった。

 いつものように澄んだ声で、けれど、どこか気恥ずかしそうに。

 

 「我が夫。……もう少し、だけ。このまま歩いても、よろしいでしょうか」

 

 「もちろん。帰るの、惜しい?」

 

 「……はい。そうです。我が夫と過ごす時間は、いくらあっても足りませんので」

 

 彼女は視線を逸らすでもなく、正面を見たまま、すっと手を差し出した。

 藤丸はその手を自然に取り、そのまま指を絡める。

 

 歩いた先にあったのは、小さな駄菓子屋だった。

 

 色とりどりのパッケージが、レトロな木の棚に並び、ほんのり甘い香りが店先に漂っている。

 

 「……ここは?」

 

 「たまたま見つけたんだ。昔ながらの駄菓子屋ってやつ。懐かしいって人も多いみたいだよ」

 

 「……なるほど。あの菓子……カラフルなゼリーの塊……“おはじき”ではありませんね?」

 

 「おはじきは遊ぶやつ(笑) これはグミ、かな。食べるやつだよ」

 

 「……子供向けでしょうか?」

 

 「うん、まあ。でも――モルガンも、ひとつどう?」

 

 そう言って手渡された袋入りのキャンディを、彼女はしばし見つめ、そっと手のひらに取った。

 

 「……では、いただきます」

 

 そう言って包みを剥き、藤丸の目の前で口に含む。

 

 甘い香りが、ほんのりと広がる。

 

 「……意外と、美味ですね。おそらく、貴方といるからでしょうけれど」

 

 「それはちょっと嬉しいかも」

 

 「嬉しいのなら、あと三つほど買ってください。帰り道でも食べたいです」

 

 「おっけー。それじゃ、どれが好み?」

 

 「我が夫のおすすめで結構です。責任は、すべて貴方が持つのですから」

 

 そんなやりとりを続けながら、ふたりの笑顔は途切れることなく灯りの中に溶けていった。

 

 店を出たあと、モルガンはそのまま彼の腕にそっと寄り添い、

 

 「……もう少し、だけ。こうして歩いても……構いませんか?」

 

 「もちろん」

 

 藤丸の返事を聞いた彼女は、満足そうに目を細めた。

 

帰り道は、ゆるやかな下り坂だった。

 

 通りの街灯はぽつぽつと灯っていて、その明かりに照らされながら、ふたりは並んで歩く。

 時折聞こえるのは、遠くで鳴る自転車のベルと、どこかの家から漏れる夕餉のにおい。

 

 「……我が夫」

 

 歩きながら、モルガンがぽつりと名前を呼ぶ。

 

 「なに?」

 

 「その手、空いていますね。……ならば、こちらに貸してください」

 

 そう言って、藤丸の手をぐい、と自身の肩口へ導いた。

 

 「え、ここに?」

 

 「はい。肩を抱かれるというのは、先ほどの手つなぎよりも、“密着度”が高いと聞いています。経験しておかなくては」

 

 「そ、そうなの……?」

 

 「経験不足を言い訳にはできませんから。……よろしいですか?」

 

 断る理由などなかった。

 

 おずおずと肩に回した手に、モルガンの身体がそっと寄り添ってくる。

 思った以上にしっかりと、彼女の頬が藤丸の肩に触れる距離。

 

 「……ふむ。意外と、悪くありません」

 

 「うん……俺も」

 

 「ふふ。我が夫、顔が赤いですよ? 見えています」

 

 「そっちこそ、耳まで赤いよ」

 

 「……それは気のせいです」

 

 言葉と裏腹に、モルガンの肩先が微かに震えていた。

 照れ笑いを堪えようとしたのだと、藤丸はすぐに気づいた。

 

 そのまま、ゆっくり歩く。

 

 モルガンの指が、彼の肘を撫でるようにたどる。

 

 「こうして歩くと、まるで“新婚”のようですね。我が夫」

 

 「……それっぽいね」

 

 「それ“っぽい”ではありません。我々は既に、そうでしょう?」

 

 「……うん。そうだね」

 

 「ならば……次は“おんぶ”です。我が夫」

 

 「は?」

 

 「“全てを預ける”という行為の代表格だと聞きました。してみたくなりました。……だめですか?」

 

 「……やってみようか」

 

 そう答えると、モルガンはほとんど躊躇なく後ろを向き、髪をかきあげた。

 

 「よろしくお願いします。我が夫」

 

 背中にぴたりと寄せられたぬくもり。

 彼女の重さは思ったより軽く、けれど存在は、ずっと大きく感じた。

 

 「……こういうの、慣れてるの?」

 

 「いいえ、初めてです。……ですが、悪くないですね。背中越しに、貴方の心音が聞こえますから」

 

 「それって、落ち着く?」

 

 「はい。落ち着きますし――欲が出ます。もっと、近くにいたくなる」

 

 甘えるように、そっと頬が背中に触れた。

 

 

昼間の名残を引いた薄明かりの下、ふたりの影が地面に重なっていた。

 

 「……我が夫、やはり、もう一度お願いしてもよろしいでしょうか?」

 

 立ち止まったモルガンが、わずかに頬を染めながら振り返る。

 

 「おんぶ? また?」

 

 「はい。“一度で満足する”など、どこの誰が言ったのか……ふふ、まったく根拠のない誤解ですね」

 

 呆れたように言いながらも、モルガンの声は甘さに満ちている。

 

 「じゃあ、どうぞお乗りくださいませ、お姫様」

 

 「……我ながら、我儘ですね。ですが、これも夫の特権と考えれば、許容されるかと」

 

 藤丸が屈んだ背に、モルガンがふわりと身を預ける。

 その瞬間、背中から伝わる体温と、耳元にかかる吐息が、彼の鼓動を跳ね上がらせた。

 

 「……ああ……やはり、この高さは良いですね。我が夫の背から見る景色は……“甘やかされた感”が格別です」

 

 「感、って言っちゃうんだ……」

 

 「ええ、ええ。私は堂々と甘えさせていただきます。――それとも、嫌ですか?」

 

 「まさか。もう、こうなったら何時間でも背負うよ」

 

 「……では、二時間半後に下ろしていただければ。脚が痛くなるといけませんし」

 

 「え、ほんとに二時間いくの!?」

 

 モルガンはくすくすと笑いながら、藤丸の肩に額を寄せた。

 

 「冗談ですよ。ですが――本気にされても、困りませんけれど?」

 

 「……それがずるいって言ってるんだけどなあ」

 

 彼の声に応えるように、背中でモルガンが少しだけきゅっと腕を回す。

 

 「歩くたび、私も揺れてしまって……。……心地よいのですが、少し恥ずかしくもあります」

 

 「じゃあ、もうちょっとだけ、ゆっくり歩くよ」

 

 「はい。我が夫。――ずっと、背中にいてもよろしいですか?」

 

 「……うん、いいよ。好きなだけ」

 

 背中越しに交わされる会話のたび、ふたりの距離は、目に見えない絆でまたひとつ縮まっていくのだった。

 

そのまま園路をゆっくり歩き、ちょっとした広場まで来たところで、藤丸は「よいしょ」と声を漏らして膝を曲げた。

 

 モルガンが、背中から少しだけ身を離す。

 

 「……そろそろ、下りたほうがよろしいですか?」

 

 「うん、無理はしないようにね。俺も大丈夫だけど、モルガンが疲れちゃうといけないし」

 

 「いえ。私のほうこそ、困っております」

 

 藤丸が少し振り返ると、モルガンは真面目な顔のまま、手を首に回したままだった。

 

 「背中が、快適すぎるのです。ぬくもりと安心感が両立していて……重ねて言いますが、これは“誤算”です」

 

 「誤算?」

 

 「はい。“軽い気持ちで甘えたら、戻れなくなった”という意味での誤算です。我が夫のせいです」

 

 「それ、完全に俺の背中のせいじゃん……」

 

 「否定はしません」

 

 そのまま再びしがみつかれ、藤丸は苦笑するしかなかった。

 

 「ふふ……私、この高さが好きです。目を閉じれば、振動と呼吸音だけが伝わってきて」

 

 「じゃあ、もうちょっとだけ乗ってる?」

 

 「よろしいのですか?……いえ、聞くまでもありませんね。乗ります」

 

 モルガンは遠慮のない声でそう宣言すると、ふわりと頬を彼の背に寄せた。

 

 「先ほどより、密着しても?」

 

 「……お好きにどうぞ、我が女王様」

 

 「ありがとうございます、我が夫。……今夜は夢に見そうです、この景色を」

 

 モルガンの足は軽く宙に浮いたまま、藤丸の背に寄りかかる。

 そしてふたりの足音が、夕暮れの園内に、ぽつぽつと優しい音を残していった。

 

 

少し長めに歩いたあと、ふたりは園の奥にある石造りのベンチにたどり着いた。

 

 藤丸が先に腰を下ろし、モルガンはその隣へと、何のためらいもなく寄りかかった。

 身体の一部が重なる。おんぶの温もりをまだ残したまま、彼女は静かに目を閉じた。

 

 「……私、こういうの、すっかり気に入ってしまいました。我が夫」

 

 「うん。なんだか、すっごく甘えてるように見えるけど……嫌じゃないよ」

 

 「甘えてなどおりません。これは正当な、信頼の証です」

 

 そう言いながらも、モルガンの手は彼の指に絡む。

 その距離があまりに近すぎて、彼女の唇が耳に触れそうになっていた。

 

 「私、あなたにしか、こんな顔を見せません。……理解しておいてくださいね」

 

 「嬉しいけど……こんな顔って?」

 

 「……自覚がないのですか? 困りますね。ならば、もっとわかりやすくして差し上げましょう」

 

 モルガンは身体を起こすと、今度は藤丸の頬にキスをひとつ。

 それから軽く間を置いて、額、鼻先、そしてもう一度、唇へ。

 

 「これで、分かりましたか?」

 

 「……うん、しっかり。これはもう、照れるとかそういうレベルじゃないな」

 

 「当然です。私があなたに何かをするときは、すべて“本気”ですので」

 

 ふたりは言葉を止め、ただ並んで風に揺られていた。

 頬を撫でる風は、先ほどよりも涼しく、どこか名残惜しい空気をまとっている。

 

 「……日が落ちる前に、もう一度だけ」

 

 「ん?」

 

 「おんぶを。今度は、私があなたに……」

 

 「背負われる?」

 

 「いいえ。こうして、あなたの背を守る形で――寄り添いたいのです。私なりの……独占ですから」

 

 言い終えたモルガンは、肩に額を預けながら、

 「あと少しだけ」と、囁くように繰り返した。

 

 

「でしたら……覚悟しておいてください。私はあなたに、もっと与えます。愛も、信頼も、忠誠も、そして――」

 

 モルガンはゆっくりと顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

 「我がすべてを。今だけではありません。これからも、幾度も、何度でも」

 

 その言葉は、誓いにも似ていた。

 

 藤丸は一瞬だけ言葉を失い、けれどすぐに、まっすぐに頷いた。誓いに応えるように、彼女の手を握る力をほんの少し強める。

 

 「……ありがとう。そんなふうに言ってもらえるなんて、俺には、もったいないくらいだけど……でも、全部、受け取るよ。ちゃんと、守る」

 

 「“もったいない”だなんて、謙遜は不要です。私にとっては、あなた以外に捧げる価値のある者など、存在しませんから」

 

 モルガンはそう言って、またそっと寄り添った。再び、藤丸の肩に額を預ける。夕暮れの風が髪をなで、ベンチの背後に咲いた名もなき花が静かに揺れた。

 

 「……ねえ、我が夫」

 

 「ん?」

 

 「次に来るときは、夜の園を歩きましょう。星をひとつずつ見つけて……あなたに似合うものを、選んであげます」

 

 「星を?」

 

 「ええ。私の贈り物です。空にある限り、何度でも――私の愛は、減りませんから」

 

 それは独占であり、祝福であり、彼女なりの不器用な優しさだった。

 

 ふたりの影は、包まれながらひとつに重なっていく。

 

 

 

 帰り道、ふたりは何も言わずに並んで歩いていた。

 

 落ちた陽の代わりに、街灯が足元を照らしている。モルガンはその光を避けるように、藤丸の肩にそっと寄り添った。

 

 「……風が止みましたね」

 

 「うん。さっきまで、あんなに気持ちよく吹いてたのに」

 

 「……でも、悪くありません。あの風は、きっと“今だけ”のものでしたから」

 

 モルガンは歩きながら、かすかに微笑んだ。

 

 彼女の言葉には、まるで何かを受け入れるような、穏やかな響きがあった。過ぎていく時間を惜しむのではなく、そのひとときを確かに胸にしまうような――そんな、柔らかな静けさ。

 

 ふたりはそのまま、カルデアへと戻った。

 

 扉を開けた先の白い廊下。ふと立ち止まったモルガンが、振り返りもせずにひとこと。

 

 「我が夫。……次は、わたくしの部屋に来なさい。今度は、紅茶を用意しておきます」

 

 「え?」

 

 「先ほどの園は、わたくしがあなたの隣に座りました。……だから次は、あなたを、わたくしの“隣”に招く番です」

 

 「……ああ、なるほど。……了解。甘いのも用意しておくね。ミルクは多め?」

 

 「……っ。そ、その辺りの細やかさが……ずるいのです、あなたは」

 

 肩を揺らしながら、彼女はくすりと笑った。

 

 ――それは、女王の顔ではなかった。

 

 誰より誇り高く、誰にも触れさせなかった心を、たったひとりの“夫”にだけ差し出した、ひとりの女性の顔だった。

 

 その夜、モルガンの部屋には静かな湯気の立つ紅茶と、ふたり分のカップが置かれていた。

 “本気”を重ねるたびに、ふたりの距離は少しずつ、確かに近づいていく。

 風が過ぎても、あの日の誓いは変わらず、胸の奥で息づいていた。

 

 次に風が吹くときも、きっとこの隣で。

 

 ――そう願うことさえ、いまはもう、当たり前のことのように思えていた。

 

 


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