モーティス×睦
銀河鉄道の夜×ウミユリ海底譚
遊びすぎかも。
暗く、暗く、暗く。
水底は澱んでいる。
泥濘に足を取られるような感触を覚えて、若葉睦は目を覚ました。
足先は生温かい泥に沈みこみ、一歩踏み出すのにも多大なる労力を必要とした。
息を切らして、深く呼吸する。
開いた口から、海水が入り込んでくる。肺底に残った空気までも吐き出して、喉を焼くような痛みにしばらく悶えた。息を飲み干して、冷たさに喉を震わせる。
そのうちに、身体の中が海水で満たされていても、呼吸が苦しくないことに気がついた。ただ胸腔が冷たく滲みるだけだ。
睦が吐き出した空気は、たちどころに空へと消えてしまった。
真っ暗闇に、なぜだか泡沫は白く輝いて見えた。黒灰に揺らぐ世界で呆然、空を見上げる。
もう一歩、泥の中から左足を引き抜いた。いつの間にか履いていたバレエシューズが脱げる。
そのうちに、灰色がかった光が差した。藍色に飲まれそうな海底に、薄らと視界が開ける。もう一度見上げて、仄かな光が蛍烏賊によるものだと気が付いた。
開けた視界に、人工物が見えた。
駅だ、と睦は直感した。
平らなプラットフォームと、行き先も分からない線路が見える。
泥の中に取り残されることを恐れて、睦は駅の方へと這いずるように移動した。ミミズがのたくるような歩みだった。
駅の入口には、駅舎と同じようにみすぼらしい花壇があった。腐葉土の代わりに泥が敷き詰められたそこには、植物のような何かが植わっている。睦の見識では、ウミユリのように見えた。
ほとんど流れのない海の底で、獲物を待ち受けてゆらゆらと揺れている。
駅の入口にたどり着くと、地面が石畳に変わった。泥濘から引き抜いた足には、泥は残っていなかった。代わりに、睦は自分が濡れていることを自覚した。動く度に身体に貼りつくセーラー服が煩わしい……そこまで考えてから、ようやく自分が制服を着ていることに気が付く。学校帰りだったのだろうか、と考えて……思い出せない。
振り返ってもギターやスクールバッグは見受けられなかった。
「ここは、どこ」
声に出してみる。
喉から吐き出した海水が、確かに音を作り出し、鼓膜を震わせた。
駅の時計は12時を指したまま止まっていた。
改札口は無人で、切符売り場もない。
しばらく躊躇してから、睦は改札口を通り抜けた。プラットフォームの扁平なコンクリートを踏む。小石を踏んでも、裸足に伝わる感触は軽い。
駅の名前を探して歩いたものの、見つからなかった。
海中列車発着所、と書かれた立て看板のようなものが廃棄されたように転がっているばかり。カイチュウレッシャ、ハッチャクジョ、ともう一度声に出した。
誰かが聞き咎めて出てくる気配はない。
時刻表は掠れていた。
線路の先を覗き込んでも、列車や次の駅は見えなかった。
ベンチに腰掛ける。
僅かな波にスカートの端がそよいだ。
蛍烏賊がふわりふわりと揺れて、星空の様相を呈していた。
まるで銀河鉄道の夜だ、とかつて読んだ本の情景を思い出す。
とすれば、これは死後の世界だろうか。
記憶の端に引っかかるものがあって、思索に耽る。
大事なことを忘れている。そんな感覚がずっと、脳を引っかくように残っていた。
──祥。
そうだ、祥とCRYCHICを──
突然、汽笛が鳴った。弾かれたように顔を上げると、プラットフォームの左側から、のっぺりとした鉄道が滑り込んでくる。車体の正面には、前方を照らす黄色い伝統がついている。
運転手が「ウミユリの駅」と言ったのが微かに聞こえた。
乗るべきか、留まるか、悩んだのはつかの間だった。
留まっても宛はない。
少なくとも運転手が乗っている汽車に乗った方が、現状を打破するのに有効だろうと考える。
車内は、古めかしく厳かだった。
紅いビロードのシート、黄色く小さな電燈、真鍮の大きなボタン。ほとんどがボックス席で構成された車内には、人影があった。
小柄な後ろ姿から女性か子どもだろう、と考えたのはほんの刹那のことで、直後、睦は既視感と正体不明の違和感に襲われた。車窓から外を眺める後ろ姿を見つめるうち、その正体を思い出す。そして、自分がなぜここにいるのかも。
「こんにちは、睦ちゃん。もしくは、ごきげんよう?」
「モーティス。ここ、どこ?」
睦と鏡写しの少女が、座席に座っていた。満月を映したような瞳が睦をみとめて像を結ぶ。
「車掌さんの言葉を聞かなかったの? 海中列車、ウミユリの駅だって」
列車のドアが閉まる。
モーティスの向かいに腰掛けて、思い出しかけた記憶を手繰る。
モーティスの隣の座席には、ギターケースが置かれていた。
Ave Mujicaの衣装を着た彼女がレトロな列車のシートに座っていると、まるで戯曲の舞台に立っているようだった。
モーティスがいるならば、ここは睦の内部世界だろうか。世界は睦の想像を超えているような気がしたが、同時に無意識とはこういうものかとも納得する。夢の内容がときに無秩序であることを考えれば、海底を走る列車はいくらか秩序だって見える。
車窓の外の景色は、ウミユリの草原を横切るところだった。カラフルな訳でもない、 きわめて動物的な色彩のウミユリたちが一面に繁っている。
「CRYCHICは、」
「なくなったよ」
最後の記憶は、祥子がCRYCHIC再開のために動いてくれているところだった。睦とモーティスがそれぞれ、CRYCHICをやるのかAve Mujicaをやるのかで互いの願望をぶつけ合い、そして、睦は奈落へと落ちた。
「まだ続けられると思ってるのは睦ちゃんだけ。燈ちゃんもそよちゃんも立希ちゃんも……祥子ちゃんも。CRYCHICは終わったと思ってる」
「でも、祥はまたCRYCHICをやってくれるって」
「『睦ちゃんのためのおままごと』を?」
呆れたように、モーティスは言った。首を傾げ、目を細めて睨みつけるように言葉を続ける。
「ほんとうに、CRYCHICを続けることが祥子ちゃんのためだって思ってる?」
「……CRYCHICにいた祥は、幸せそうだった」
「戻りたいのは祥子ちゃんじゃなくて、睦ちゃんでしょ。オタメゴカシだよ」
そうなのだろうか。
そうかもしれない、と思う。
祥子が
ギターを弾いて過ごして、祥子が睦の手を引いてくれる。そんな睦に都合の良い陽だまりがCRYCHICだった。
「睦ちゃんは戻れても、祥子ちゃんはもう戻れないよ。割れたガラスを貼り合わせても元には戻らない。…………ま、もう好きにすればいいけどね」
走り出した列車はウミユリの花畑を抜けて、泥濘の上をゆっくりと渡っていく。すれ違ったラブカが、睦と目を合わせた。
「覚えてる? 睦ちゃんは死んじゃったんだよ」
モーティスが言った。
だとすれば、ここは地獄だろうか。天国が空の上なのだとすればその反対は何よりも深く暗い海の底なのかもしれない。
じわりじわりと思い出していく。古い日記帳を開くように記憶が蘇る。
モーティスと揉み合って、ギターを抱いたまま、睦は奈落へと踏み外した。
「私が殺しちゃった」
「……そう」
「どうして、怨まないの」
不思議と、怒りは湧いてこなかった。
悪意はなかった、と断言できるからだろうか。睦がモーティスを殺めてもおかしくない状況だったからだろうか。
それとも、諦めているからかもしれない。即座に答えは見つからなかった。
窓ガラスは冷たかった。見上げると、氷の柱が海底に突き立っている。ヒトデが凍りついて、柱に取り込まれていた。
視線を逸らす。次に目を引かれたのは、モーティスの脇に置かれたギターケースだった。視線を察知してか、モーティスがギターケースに触れる。
「ん」
「……もう、私には必要ない」
「いいから、睦ちゃんが持ってなよ。どうせ私には弾けないし」
右腕を突っ張るようにモーティスがギターケースを差し出す。伸ばしきった右手がケースの重さに耐えかねて
「ん!!!」
ギターケースを受け取る。触れたモーティスの指先は、水底のように冷たかった。
いつだって持ち歩いていたギターケースが、今日も手に馴染む。
「……だいたい、祥子ちゃんは睦ちゃんのことぜんっぜん見てないよね。初めて祥子ちゃんに会ったのは私なのに、睦ちゃんに代わっても気が付かないし。睦ちゃんが私に代わったって気付かないんだ」
「祥は、大変だったから」
「睦ちゃんも私も、祥子ちゃんが大変なのはわかってたよ。でも祥子ちゃんは、私たちのSOSに気付かないんだもん」
「私、何も言ってない」
「祥子ちゃんだって何も言ってないよ」
「……祥を悪く言わないで」
「もーっ! 睦ちゃんのわからず屋!」
海中列車は少しずつ水深を上げているように思われた。青黒く光が揺らめき始め、汽笛が鳴る。駅が近づいた合図だった。空クジラの駅、と車掌の嗄れた声でアナウンスが入る。伝声器の音が割れていた。
窓の外には、大きなクジラの骨が横たわっていた。骨には苔のようなものが蔓延り、魚や蛸、甲殻類が集っている。ヤグルマギクのような海藻が、口先を尖らせた魚に啄まれている。
「祥子ちゃんは睦ちゃんのことを助けてくれないよ。私みたいに代わってくれたりしないし、お小言ばっかり言うんだ」
「……でも、私は、祥の隣でギターを弾いていたかった。私のギターで、祥が壊れないでいられるなら、それで良かった」
「それで睦ちゃんが壊れたら……意味ないじゃん」
たとえ辛いことがあったとしても、祥子から離れるという選択肢は睦の中には存在しなかった。そしてそれは、モーティスにとっても同じだろうと睦は考える。
初めて若葉睦という人間の輪郭を捉えたのは、他でもない豐川祥子だったのだから。産まれたてのガチョウが初めて見たものを親だと思うように、睦の意識には祥子が刷り込まれている。
森みなみの娘でもなく、若葉の娘でもなく、ただの睦として接してくれたのは、祥子が初めてだった。
「モーティスは、どうしてここにいるの」
「……可哀想に死んじゃった睦ちゃんを見送りに来たの」
話を逸らした睦を嘲るように、モーティスが鼻を鳴らした。
列車が再び走り出す。汽笛が鳴り、クジラの骨が遠ざかる。
「ほんと、嫌なことばっかり。みんな何考えてるのかわかんないし、嘘ばっかりつくし。嘘つきはドロボーの始まりなのに。……ギターが弾けるフリをする私も嘘つきかな?」
「私のフリをするの?」
「そうかもね。私が本物になりきっても、どうせ祥子ちゃんは分かんないんだし」
言い終えるかどうかの間際、反射的にモーティスの手を握っていた。
冷たい手の感触が、ぎこちなく逃れようとする。モーティスは大袈裟に驚いた表情を露わにして、まじまじと睦を見つめ返した。
「私になりきるなら、最後まで祥を騙して」
「そんなのムリ。ギター弾けないもん」
「……持っていってもいい」
「いらなーい! 睦ちゃんの棺に入れたら?」
いつの間にか、車窓には光が差していた。
泡沫の庭を通り抜けるように、陽の光が波に揺らめく。
最早、深海の景色ではなくなっている。眩しさから逃れるように、モーティスが光の当たらない場所へと身を寄せた。
群れて泳ぐ魚たちの鱗が光に煌めいて銀色を振りまく。
波と泡沫が海中に光の網目模様を作り、逃れるように赤い魚が身を捩った。
珊瑚の台地が棚田のように階段状に折り重なり、その上をレールが走っている。
「あのさ、睦ちゃんはもっとワガママ言えばよかったんだよ。言わなきゃ誰もわかんないし、誰も助けてくれないし。Ave Mujicaなんてみんな冷たいんだから」
「……モーティスはワガママすぎる」
「私は普通だもん!」
車掌がまたも、駅の名前をアナウンスした。音の割れが酷くなって、駅の名前を聞き取れない。
モーティスが立ち上がり、シートの背もたれの肩の部分を掴んだ。
「……もっと、誰かに縋って、頼りなよ。ワガママな子の方が可愛いんだって。騒がしいあの子も、寂しがりなあの子も、お転婆なあの子も、本が好きなあの子も、私も、もう睦ちゃんと代わってあげられないんだから」
汽笛が鳴る。列車が止まり、ドアが開いた。モーティスは睦に背を向けて、ドアの方へと歩いていく。
ふわりと翻る髪から、白百合が花が香った。解けたリボンが、列車の床に落ちる。それを意に介さず、モーティスは列車を降りてしまった。
「見送りはここまで。じゃあね、睦ちゃん。どうか、光のところにいてね」
モーティスが、ひらりと手を振る。
光に照らされた手のひらが薄らと透き通っていた。
扉が閉じる。
さようなら、とモーティスが言ったのが、唇の動きでわかった。
もう一度割れたアナウンスが何事かを知らせて、汽笛が鳴る。列車が進み始めてまもなく、車窓の景色は泡沫に包まれた。揺らめく光と、四拍子の駆動音。
モーティスが落としていったリボンを拾い上げ、左手首に結びつけた。託されたギターケースを背負う。
次は終点。車掌の声が、ようやっと聞き取れた。
ステージには熱気が募っている。
観客の期待が、私に突き刺さる。
衣装に身を包んで、ギターを下げた様相。
右手に持ったピックを弄んだ。
──息を飲み干す夢を見ていた。
夢の名残が、左手首に残っている。
ステージライトが揺らめいて、灰色のステージから私を藍色に照らした。
掻き消えた「明るいあの子」の背中を探して、空を見上げた。
『モーティス!』
祥の凛とした声が響く。
観客の期待が高まり、アリーナの視線全てが私を突き刺した。
ギターの弦に触れる。冷たい感触が、私の指先の震えを止めてくれる。
「我、