皇帝陛下に憑依中 ~ドイツ皇帝として歴史に抗う~ 作:Core472256
ロシア帝国視察団の到着を明日に控え、執務室には地図と記録表が並べられていた。
鉄道局との連携手順。
内務省を通した地方報告の整理。
兵站統合室に集約される是正記録。
視察順路。
誰に何を話させるか。
準備は整っている。
だがヴィルヘルムの胸中にあるのは、安堵ではなかった。
「外務省からの補足です」
ミュラーが差し出した一枚に目を落とし、ヴィルヘルムは短く息を吐いた。
「ロシアにとって、もはや我が国は単独ではない」
ミュラーは頷く。
「オーストリアの件、ですか」
「そうだ」
今のロシアにとって、ウィーンとベルリンは切り離しにくい。
オーストリアとドイツ、その両方に備えるため、ロシアはフランスへ寄っている。
それは感情ではなく、配置の問題だった。
そしてドイツにとって最悪なのは、その結びつきが確信へ変わることだった。
だから今回の視察受け入れには、制度の誇示だけでなく、ロシアとの回路を完全には切らせぬ意図もあった。
仲良くしたい、というより、二正面を固めたくない。
「拒めば、もっと悪く読まれるでしょうな」
いつの間にか入室していたクレメンスが言う。
「見せたくないものがある、あるいは、ロシアと話す気もないと」
「そうだ」
ヴィルヘルムは机上の書類へ目を戻した。
しばし沈黙が落ちる。
クレメンスが低く言った。
「オーストリアとロシアの関係が、今以上に悪化せねばよいのですが」
ヴィルヘルムはすぐには答えなかった。
最初は考えたこともある。
火種そのものを遠ざける道があるのではないか、と。
だが今はもう、そうは思っていない。
オーストリアとロシアの対立は、誰か一人の工夫でほどける段階ではすでになかった。
国家の恐怖、面子、軍の思惑、バルカンの利害。
そこへ後から入り込んだ自分に、全部を組み替えられるほどの力はない。
所詮、自分は歴史を少しかじっただけの人間だ。
知っていることと、動かせることは違う。
だから途中で、半ば諦めた。
だからこそ彼は、戦争そのものを止めることよりも、危機の際に帝国が割れぬ形を先に作る方へ舵を切った。
変えられぬ外を追うより、変えられる内を整えるしかない、と。
それがいま机上に並ぶ制度だった。
戦争を望んだからではない。
戦争そのものを消せるとは思えなくなったからこそ、危機のとき帝国が割れぬ形を先に作ろうとした。
「陛下」
ミュラーが声をかける。
「順路は予定通り、鉄道局を先に」
「ああ。まず国家を見せる。軍は後ろに置け」
クレメンスが問う。
「軍の色を薄めるため、ですか」
「それだけではない」
ヴィルヘルムは顔を上げた。
「先に、何を国家の姿として読ませるかを決めるためだ。」
二人は黙った。
最近の陛下は、制度を整えるだけでは終わらない。
制度がどう見られるか、その輪郭まで先に置こうとしている。
筋は通っている。
だが通りすぎているようにも思えた。
「視察は受け入れる」
ヴィルヘルムは改めて言う。
「ロシアに信頼されるためではない。敵対を完成させぬためだ。」
その声音は低く、平らだった。
◆
朝の空気は澄んでいた。
薄雲の下、ベルリン中央駅へ滑り込んだ列車は、過不足なく定刻に到着した。蒸気の白が緩やかに流れ、人の気配が整えられた線の上を動く。軍楽もなく、過剰な儀礼もない。迎える側の配置は控えめで、しかし隙がなかった。
ロシア帝国視察団。
名目上は演習および行政制度の観察。
実態は、より静かで、より鋭い。
出迎えたのはミュラーだった。
「ようこそベルリンへ。まずは内務省および鉄道局の協同記録、続いて兵站統合室の行政調整部門をご案内する予定です」
ロシア側代表のオルロフ中将は自然に頷いた。
「貴国の制度整備には、サンクトペテルブルクでも高い関心が寄せられております」
文面は柔らかい。
だが、その関心が何を意味するか、ここにいる者で知らぬ者はいない。
彼らは制度そのものより、速度を見に来ている。
◆
最初の案内先は鉄道局だった。
応接室には主要幹線、地方支線、港湾と補給拠点を示す地図が掲げられている。そこに軍用輸送計画そのものはない。あるのは、平時の貨物優先順位、振替規則、地方局と中央局の報告手順だった。
説明はクレメンスが担った。
「本制度の主眼は、各省庁間の調整遅滞を減らすことにあります。従来は地方ごとに判断が揺れ、小規模な混乱が累積しておりました」
若いロシア文官が口を挟む。
「中央が判断するのですか」
「中央が全てを決めるわけではありません。基準を示し、例外をどこで収めるかを統一したのです」
相手は納得より、計測のために頷いているようだった。
別の士官が問う。
「地方から中央への照会は、通常どれほどで届くのです」
「案件によります」
「では、緊急を要するものは」
鉄道局高官が答えた。
「内容次第ですが、電信を用いる案件であれば当日中に」
ほんの一呼吸、室内の空気が沈んだ。
ロシア側が欲しかったのは、その答えだった。
当日中。
その一語は効率でもあり、猶予の短さでもある。
オルロフ中将は目を細めた。
「それは見事です。大国であるほど、平時の遅れは避け難いものですから」
褒め言葉に聞こえる。
そんなロシアの変化にドイツが気づいたのかは定かではない。
◆
その日の夜、王宮での短い拝謁が設けられた。
ヴィルヘルムは夕光を背に、ロシア視察団を迎えた。
儀礼的な応答ののち、オルロフ中将が述べる。
「本日は、貴国の制度整備につき大変有意義な視察を許されました。行政各部の連携、鉄道運用の統一、地方と中央の調整速度――いずれも大国経営の一つの到達点と申せましょう」
ヴィルヘルムは静かに応じた。
「帝国は大きい。ゆえに遅れもまた大きくなる。余が望むのは、その遅れの縮減だ」
オルロフは黙って聞いている。
「危機のたびに、地方は地方の理屈を述べ、官庁は手続きを盾にする。その間に失われる時間は、平時には不便として済む。だが国が大きくなれば、それはいずれ不便では済まなくなる」
ミュラーも、クレメンスも、その言葉を聞いていた。
オルロフ中将は礼を崩さぬまま答えた。
「陛下のご見識、しかと承りました」
それだけだった。
だがヴィルヘルムには分かった。
この男は賛同していない。理解しただけだ。
◆
王宮の執務室。
視察は終わった。
だが終わったからこそ、始まったものがある。
ロシアは持ち帰る。
フランスもじきに嗅ぎつける。
英国はもっと遅く、もっと静かに本質へ近づく。
帝国内では、軍が軍の理屈で制度を語り、官僚は官僚の言葉で枠を嵌め、議会はいずれ法の外郭を求めるだろう。
そのままでは、危機が来たとき、国家は一つの問いに対して四つの答えを返す。
それだけは避けねばならない。
ヴィルヘルムは机上の地図へ手を伸ばした。
最初は、ただドイツ帝国という歴史対象を見ていた。
救えるなら救いたいと思った。
こんな自分でも、知識があるのなら何かを変えられるのではないかと思った。
どこか読者のまま、どこか英雄にでもなったような気で、歴史へ手を伸ばしていた。
だが今は違う。
制度も、人間も、この国の破滅も敗北も、もう資料では見られない。
反対があるなら抑える。
声が割れるなら揃える。
それが制度のためか、帝国のためか、あるいはその境目がもう曖昧なのかは、まだ分からない。
だがそれでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
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