トム・リドルが唯一友達になった子、口数が多すぎる。 作:八重歯
リドルがフィンレイの部屋に行くようになって数ヶ月が過ぎ、季節は春へと移り変わった。
本当なら毎日行き、魔法の世界に触れたかったが、スクール終わりにフィンレイの部屋に直行し、晩まで本を読み耽ること五日目。流石に彼がやや呆れたような口調で「君、この家の住人になるつもり?」と苦言とも冗談ともつかない台詞を言った為、それからは二日に一度にしていた。フィンレイの部屋に行かない日は、ロンドンの街を散歩するだけの退屈で意味のない日になってしまうのだ。今までは図書館に行っていたが、魔法界の素晴らしさを知った今、マグルの世界について学ぶ意義を見出せなかった。
本を孤児院の自室に持って行きたかったが、「それはダメ、家の機嫌が悪くなるから」と却下されてしまった。
昨日は行ってないし、今日はいいだろう。あれからずっと二日に一度のペースを守り、あいつも何も言っていないし。
と、自分の中で完結したリドルはいつものように孤児院の自室の扉の鍵穴にフィンレイの部屋へ続く不思議な鍵を差し込み、回した。
扉を開けた瞬間、空気の匂いが変わる。
甘いような紅茶の香りと少し苦い薬草の香り。それに混じって本とインクの匂いがする。それがフィンレイの部屋の匂いだった。一番初めに視界に入るのは彼の机と椅子で、その次に壁に沿ってある本棚。そのまま視線を滑らせればベッドへと続き、リドルは部屋に入って扉を閉め──数歩中に入って足を止めた。
部屋にフィンレイがいなかった。
「……」
大体椅子に座ってるか本棚の前に座っているか、ベッドに寝転びながら本を読んでいるが、今日はどこにもフィンレイの姿はない。
相変わらず本が小山を作りシーツが乱れているベッド、乱雑なようで秩序立った机、窓辺には半分ほど紅茶の入ったままのティーカップ。少し前までここにいた気配が、部屋の隅々にまで染み込んでいる。
リドルはそっと部屋を歩いた。窓辺のカップはまだ温かい。机の上には羽ペンが転がり、インク瓶がかすかに揺れている。ローブが椅子にひっかかり、ベッドサイドのランプが薄く灯っていた。
「……出かけているのか」
その独り言は、いつもの騒がしい人間がいない部屋にやけに響いた。
部屋を出たばかりなのだろう。そういえば今まで意識していなかったが、この部屋以外を知らない。
彼の中で、一つの選択肢が立ち上がる。「待つ」か「探す」か。
──いや、選択の余地はなかった。
待つ、という概念はリドルにとって、最終手段にすぎない。目の前に扉があるのなら、それを開けずにはいられない。それが、好奇心という名の魔法に蝕まれた少年の性質だった。それに、部屋を出てはいけないとは言われていない。
リドルはそっとドアノブを回し、屋敷の廊下へと踏み出した。
ふわり、と甘い匂いがした。
まず目に入ったのは、長くまっすぐに延びる廊下だった。廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁にはランプが魔法の炎を包み止まっている。時々、美しい花瓶に生けられた花があるのが見える。おそらく甘い匂いはそこからしているのだろう。
ヴィクトリアン様式の壁紙は青灰色で、ところどころ金色の刺繍が編み込まれたような不自然な光沢があった。足音がしない。絨毯が分厚いからではない──音が、吸われているのだ。
窓に寄って外を見れば、綺麗に整えられた英国庭園がちらりと見える。普段は意識せず、そんな様子も雰囲気もないが百ガリオンを報酬として気軽に払える奴だ、やはり生まれがいいのだろう。
ふと、視線を感じで振り返れば廊下に並ぶ絵画たちと目があった。
その絵は素晴らしいものだった。美しい森、花畑、どこかの街──ただ、絵画の中にいる人が皆リドルを値踏みするようにじっと見ていたのだ。
老女、赤ん坊、少年、獣人の女、蛇。皆が一様に口を閉ざしており、だが、全員が見慣れぬリドルを観察している。
奇妙な家だ。だがその不思議さはリドルにとって魔法の証であり、嫌な気はしなかった。
彼らの視線を受けながら螺旋状の階段を降り、一番初めに目についた扉に向かう。その真鍮の取っ手を回し、リドルは一つ目の部屋に入った。
そこは厨房だった。
何十人のシェフが入っても問題なくスムーズに料理できるだろう広さ。広いだけなら理解できるが、銅鍋、銀鍋、黒曜石の平鍋が宙に浮かび、天井に吊られたまま時折勝手に回転していた。流し台の上には「自動皮むき人参」が跳ねており、まな板では包丁がトントンと一人でに刻み続けていた。
しかし、リドルもこの程度の不思議はもう慣れたため驚かず、「どんな魔法がかかっているんだろうか」と興味津々で籠から飛び出て切られる人参を見ていた。
包丁は止まることなく人参、次にじゃがいもを刻んでいたが、時折ミスをしては自分で自分の刃を研ぎ直していた。その姿はまるで透明で少しドジなシェフが料理を作っているようだった。
壁際には調味料棚がある。赤、青、金色の瓶が並び、中には動いている液体や、なぜかこちらを睨み返してくる岩塩の塊もあった。砂糖の瓶には『砂糖 蟻の餌』とラベルが貼られている。
その時、甘くいい匂いが香ってきてリドルはそちらの方を見た。炎が踊るオーブンが口を開けていて、今焼けたばかりのクッキーが熱そうに飛び出ては作業台の上にある籠の中に入っていった。
そういえば小腹が空いている気がする、とリドルは近づきクッキーを見下ろす。クッキーが動いていれば食べるのをやめただろうが、なんの変哲もないクッキーになっていた。壁際に並んでいるターナーやレードルが「食べるな」と言うようにガチャガチャとうるさくぶつかり合っていたが、リドルは気にしなかった。
指先でトントンと叩き温度を確認し、少し熱いと思いながらもつまみ上げる。口の中に放り込めば熱と共にバターの芳醇な香りと、甘さが広がりほろりと溶けた。
「甘すぎる」
独り言のつもりだったが、鍋の一つが「グツッ」と何か言いたげに泡を吹き、リドルは無意識に半歩下がった。
次の部屋は書斎だった。
暖色の木目が深く、薄暗い中で蝋燭の匂いがする。広い机の上には羽ペンとインク壺、何かの書類が山積みされ、厚く手垢がついた魔法理論の書物があった。椅子は『今何かを探しにどこかへ行ったばっかり』というように半分ほど斜めに引かれていた。
リドルは何気なくペンを手に取りくるりと回した。試しに空中で一筆描くように動かしてみればインクが勝手ににじみ、空中に一文字「R」が浮かんだ。文字はすぐに「書斎内では落書き禁止!」という文字に変わり、青白くパチリと爆ぜた。
忠告されたリドルはムッとした表情で乱暴にペンを机の上に置いた。
書斎の隅には水晶玉や、歪んだ鏡のような装置もある。歪んだ鏡を見ていると、自分の後ろにフィンレイが映ったような気がして振り向いた。だが、後ろには開かれたままの扉があるだけで、足音一つしなかった。
再び鏡を見ると、鏡の中の自分が笑ったような気がして、リドルはすぐに顔を逸らした。
ホールに出たリドルが次に開けた扉の先は食堂だった。
室内は広大で、長い晩餐会用のテーブルが一筋の黒曜石のように奥まで伸びている。深紅のテーブルクロスが敷かれ、その上には銀の燭台と空の皿やカラトリーがいくつも並んでいた。蝋燭の炎がゆらりと揺れ、まるで誰かの呼吸に合わせているかのようだった。高い天井からは巨大なクリスタルのシャンデリアが吊るされており、光は鈍く鈍く、静謐な金色で部屋を染め上げていた。まるで過去の時間そのものが凝固して、今もそこにぶら下がっているかのようだった。
巨大な長机には食事の跡がない。だが、皿とフォークだけがきちんと並び、中央のキャンドルだけが灯っていた。壁には巨大な鹿の剥製──かと思えば、目が動いた。
リドルと目が合ったその瞬間、鹿は片方の角をカチリと傾け、まるで挨拶でもするかのように頭を下げた。
リドルは無言で扉を閉め、別の部屋へ向かった。
どの部屋も例外なく魔法があった。不気味なのか、優雅なのか判断に困る部屋ばかりであり、どの部屋にも「フィンレイが使っていた」という痕跡と、「今は誰もいない」という不自然さがあった。まるでリドルの行動を読んで、フィンレイがわざと痕跡を残してからかっているような。
リドルはこの屋敷を探索しているつもりが、いつのまにかフィンレイを探していることに気付いた。
その次の部屋は鍵がかかっていた。扉のプレートには『図書室』と書かれている。なんとも魅力的な文字に、リドルは強くドアノブを握り、押してみた。
すると扉の魔法が揺らぎ、「訪問者登録なし」と浮かび上がった後、なぜか鍵がカチリと外れる。
歓迎されているのか、試されているのか。リドルはふっと笑みをこぼし扉を開けた。
中に入ると、そこには壁一面の本棚。数万冊は下らない蔵書が、魔法で整列されたまま光を受けていた。リドルは慣れ親しんだ本の香りを吸い込み、肩に入っていた力を抜いた。
以前、フィンレイが家の図書室は凄いと言っていたが、確かに納得の広さだった。本棚の端が見えないほどであり、リドルは隣の部屋を貫通しなければこの広さは不可能だと思ったが、きっとこれも魔法なのだろうとすぐに思い直した。
図書室は静かだったが、時折、一冊が勝手に棚から滑り出し、空中を泳ぐようにどこかの棚へ戻っていった。
ここは──知識が生きている場所だ。
リドルの目が輝く。手に取ったのは『呪詛詩集とそれに対応する反詩法』という革装の本。
ぱらりとめくった瞬間、詩が音になって部屋中に響く。それは高い不協和音であり、リドルは眉を寄せ「静かに」と硬い声で呟いた。本はまるで従順なペットのようにぱたんと閉じ、沈黙した。
これが、フィンレイの──魔法界で暮らす子どもの日常なのか。
リドルは暫く無数の本を見ていたが、踵を返し部屋を出た。
図書室の隣の扉の前でリドルは立ち止まった。磨き抜かれた黒檀の重厚な扉には、銀細工の蛇が絡みついている。口を開き、ちょうど鍵穴に牙を立てんばかりの姿勢で睨みつけていた。
なんとなく、その扉は今までと異なる空気を纏っていた。扉が開かれるのを拒絶している、というべきか。それでもリドルは、取っ手を握って押し開けた。
中は──まさに研究室だった。
部屋はそこまで広くはない。
灯りは弱く、ほとんどが青白く光を放つ瓶詰と試験管の光に頼っている。台の上には秤があり、天井は高く、柱の陰から何かの骨格標本がこちらを見ている。壁に沿って材料が保存されている棚があり、瓶詰めされた薬草や部位が整然と並んでいた。
机の上では、虹色の液体がフラスコの中でぷくぷくと音を立てており、一定の間隔で煙が上がるたび、どこからか声のような何かが響いた。
「……喋っている?」
聞き耳を立てようと前のめりになった瞬間、空気が、ぬるく歪んだ。
リドルはすぐに顔を背けた。知っている。耳に入れてはいけない種類の言葉というものがあることを。すぐに踵を返し部屋から出ていく。それでもあの空気がまとわりついている気がして、リドルはそれを振り払うかのように目についた部屋に飛び込んだ。
次の部屋は、薬草の匂いが立ち込める調合室だった。
整理された机と器具類、棚には採集された乾燥薬草がびっしりと並び、その下には『未分類』と書かれた引き出しが無数にあった。中央の作業台では、未完の薬がゆっくりと撹拌されている──人の手が加わらぬまま、まるで意思を持って。
だが、人の気配はどこにもなかった。
リドルは、ガラス瓶に詰められた「正体不明の毛玉」や「笑う木の皮」などという品々に眉をひそめながら、部屋を出る。扉を閉じたとき、棚の奥から「ちっ」と舌打ちのような音がした。そちらを見ても何もいない。誰かに見られているような視線は、あの瓶詰めにされた濁った目玉だろう。
あの薬の中に適当に材料を入れたらどうなるのだろうか、と考えたがそれを実行に移すことはなかった。
リドルは廊下に戻り、一度足を止めた。まだ開けていない扉はたくさんあるが、その中で一つ、他のものよりも大きな両開きの扉があった。今は閉まっているその扉が、何故かリドルには開いているように見えたのだ。まるで自分を待っているように。
近づき、どこに繋がるのか、とリドルは両手で手すりを掴み押し開けた。
目の前に、美しい世界が広がっていた。
整えられた芝生、英国式の迷路のような低木。そして空には、紫がかった鳥たちが鳴いている。空中に浮かぶ木の葉。色彩がどこか濃く、現実味に欠ける。今までいた世界ではありえない、色の暴力ともいえる配色。──だがそれが、美しい。
木々の隙間に、見覚えのあるプラチナブロンドがちらりと見えた気がしてリドルは思わず駆け寄った。しかし、その後ろを覗いてもあるのは行き止まりだけだ。見間違えたのだろう。
リドルは後ろを振り返る。そしてその圧倒的な姿に息を呑んだ。自分の背後にあったのは、塔のように高く、どこまでも続くのではないかと左右に伸びた屋敷。
石造りの重厚な壁。蔦に覆われた窓。煙突からは細く白い煙が立ち昇っている。
これが『魔法使いの家』──ウィンドルミア家の本拠地。
その瞬間、リドルの背筋にぞくりと何かが走った。
風が、吹いた。背後に気配。
振り返るが──誰もいない。
だが、確かに『何か』がいた。自分の知らない、知らぬべきでないものが、この屋敷には『いる』。
風が青々とした葉を揺らしていた。空を飛んでいた鳥はいつの間にか消え、その鳴き声も聞こえない。さわさわとした木々の囁きが、どこか不気味なものに聞こえた。左側に美しい草花のアーチがあり、誘うように花が揺れていたが、リドルはそちらには行かなかった。あの花は一体なんだろう。
──戻ろう。
それは、直感だった。自分の中にある何かが、ここを離れるべきだと訴えかけていた。リドルは屋敷の中へと駆け戻る。記憶力には自信がある。道順も構造も完璧に記憶している。
それゆえに、再び廊下に出ると、違和感があった。
──天井が、少し高くなっている。
そんなはずはない。しかし違和感はそれだけではなかった。来るときにはこんな装飾のランプなど吊っていなかった。窓の位置も違う。廊下の絨毯の柄すら、わずかに変わっている気がする。
リドルは一度目を閉じ、頭の中で地図を再構築した。この階は、北に書斎、東に調合室、南に厨房のはずだった。
足を踏み出す。廊下を曲がったが、階段が──ない。
先ほど降りてきた階段があった場所には、壁がある。回廊の先が、繋がっていない。どう見ても、間取りそのものが変わっている。
自分の記憶が間違っている?いや、そんなはずはない。記憶には自信がある、考えられる理由はただ一つだ。
この空間そのものが、意図的に構造を変化させている──そんな予感が、胸の奥で不快な痒みのように広がっていく。
リドルは舌打ちして歩き出した。だが、五分歩いても十分歩いても──何も変わらない廊下が続くばかりだった。終わりがない、何度目かの貴婦人の絵画がリドルをじっと見ていた。扉を開けてみたがその先にあるのは何の変哲もないゲストルームで、その隣も全く同じだった。図書室も研究室も何もかもが消えていた。
緩やかに、確実に、何かが歪み始めている。
リドルは僅かに緊張した表情で果てのない廊下を進んだ。
その時、廊下の端、重い扉がひとりでに閉じた音が響いた。リドルは足をぴたりと止める。
照明が、ふっ、と消えた。
そして──次のランプも、また次のも。
闇が、少しずつこちらへ迫ってきていた。
空気が、ひとつずつ灯りを舐めとるように、音もなく沈んでいく。
濡れた布を顔に押し当てられたような重苦しさ。ひやりとした湿度が、喉の奥にまとわりつく。見えないはずの闇が、形を成し、意志を持ってこちらへ歩み寄ってくるようだった。
──足音はない。だが、確かに『何か』がいる。
歩いている。壁を這い、天井に張り付き、床下を這い回るような不規則な気配。視線を向けるたび、闇の輪郭が少しだけ変わって見える。
それは人ではなかった。
生き物の気配とも違う。むしろこの館そのものが、突然、巨大な生き物の内臓に変わってしまったかのような錯覚すらあった。今いるこの廊下は腸であり、すでに飲み込まれているような。
重苦しい空気の中、闇がじわりと這うように迫ってくる。その輪郭がわずかに視界ににじむたび、リドルは眉間に皺を寄せた。
これはただの暗闇ではない。何かを含んでいる。だがその「何か」が言語化できない。それが癪に障った。
心拍が一つ、また一つと速くなる。
窓の外はいつのまにか何の光も通さない闇に覆われていた。
何かの魔法にかけられたのか、それともフィンレイの悪戯か。
どろりとした闇が近づく。
そのとき、耳元で「カリ、カリ、カリ……」と、爪のようなものが扉を引っかく音がした。
はっきりと。確かに、聞こえた。
──違う。あいつじゃない。
リドルはその場で沈黙した。背筋に冷水を流し込まれたような感覚と共に、喉の奥がきゅっと縮まる。強く手を握る。何かが、扉の向こうにいる。だが見てはいけない、見れば──こちら側の何かを、差し出さなければならない。漠然とそう理解した。
足が動かない。目もそらせない。暗闇が、視界の端でにじみ、形になりかけている。
油断していた、いつか、あいつが言っていたじゃないか。魔法界に常識は通用しない、どこか狂っていると。どうすればいい、闇を退ける魔法なんて、まだ知らない。杖も持っていない。あれに触れてはいけない、それだけはわかった。どうすれば──。
思考の流れを押し止めるように、リドルは深く息を吸った。だが、それすらも重かった。館の空気そのものが呼吸を拒むように、肺の中に入り込んできた。肩が上から押されているような圧を感じる。明確な視線、肌を舐めるような悪寒。
は、と小さく息を吐く。
その時、喉から詰まった息と共に零れ落ちた。
「……フィンレイ」
呼ぶつもりはなかった。だが、呼んでしまったのは本能だった。初めて、リドルが他人に助けを乞うような声音を見せた。
知識も理性も、魔法すらも意味を成さない状況に、リドルという少年はただ一つ、名前を選んだ。
静寂の中で、その名が闇に染み込むように溶けていった。
すると。
闇の端から、するりと腕が伸びてきた。
細く白い、冷たいほど滑らかな手。その腕はまるで、さきほどまで闇の一部であったかのように何の音もなく、リドルの目の前に差し出された。
「……だめじゃないか、トム。迷子になるよ?」
その声は、あまりにも自然だった。
まるで寝室から不意に出てきた友人が、トイレの場所を教えるような気安さで。肩の力を抜いたような、笑い混じりの声音。リドルの喉にせり上がっていた緊張が、ほんの少し緩んだ。
それでも──顔は、見えなかった。見えるのは真っ白な腕とこちらへ広げられた手。肩から先は闇が濃くなりその表情は全く読めない。
リドルは一瞬ためらった後、その手を取った。迷いながらも、辺りを支配する闇よりは遥かにまともだと判断して。
ひどく冷たい手だった。けれど、その手がリドルを引き、廊下を導いてゆく。足音はなく、ただひたすらに静かだった。闇の中で灯りがひとつ、またひとつとともっていき、まるで館そのものがようやく息を吹き返したかのようだった。
どれほど歩いたかもわからない。
気がつけば、見慣れた扉の前に立っていた。フィンレイの部屋だ。確かに、自分の記憶どおりの位置、色、質感。引かれるまま扉に手をかけたリドルは、扉を開けた。
目の前に広がるのは、見慣れたいつもの部屋だった。
壁に沿ってある本棚、木製の机、本が山積みのベッドの上で膝を抱え、開いた本に指を挟むフィンレイの姿。空気はぬるくも冷たくもなく、ただ静かで穏やかで、まるで何もなかったかのようにそこにあった。
フィンレイはふと顔をあげ、リドルを見て首を傾げた。さらりと髪が一房流れ、細く白い指がいつものように耳にかける。
「……トム?こんな夜中にどうしたの?」
その瞬間、リドルの意識が、現実に追いつかない。
──待て、これはおかしい。
あの手は?あの声は?あの闇はなんだった?自分は、確かにフィンレイに引かれ、この部屋の前まで来たのではなかったか?では、今そこにいるフィンレイは──。
フィンレイはきょとん、と不思議そうな顔をして黙っていた。
瞬間、思考が凍った。身体の芯から凍るような感覚が背骨を這い上がる。理性が状況を理解しようと働くのに、感情が拒絶する。恐怖の回路に電流が流れ、皮膚の下が粟立った。
──誰が、僕を連れてきた?
あの闇に、確かに飲まれかけた。あの館が、確かに生きていた。ならば、今ここにいる自分は一体どこを通ってきたのか?道はどこにあった?
まるでフィンレイの声が、録音されたもののように響いていた。
「……トム?」
平然と、きょとんと、フィンレイはそこにいた。その瞳にはいつもの色があり、悪戯っぽさと軽薄さを装った賢さがあった。だが、その「いつも通り」の彼が、今は異様なほど異質に思える。
リドルは、ただ無言で扉の向こうを振り返った。
何も、ない。
──いや、『ないように見せかけた何か』が、そこにいる。
そう確信できた。あまりにも完璧すぎる『何もなさ』が、不自然だ。闇が、こちらを見ていた気がする。その気配はまだこの皮膚の裏に張り付いて離れない。自分を助けたはずの手──それは本当に『助け』だったのか?なぜ、声を聞いた瞬間に安心してしまった?
扉の蝶番が、かすかに軋む音を立てた。
ぎ、と。
リドルは反射的に振り返る。だが──そこにはもう、ただの闇だけがある。
何も見えなかった。ただ、見えない「何か」が、まるで『その顔を覗き込んではならない』と忠告するように、そこに在った。
この空間に、絶対的な意思がある。家そのものに。
ようやく──リドルは、理解し始めていた。
この屋敷はただの家ではない。彼の魔法は、常に軽やかさと冗談めかした仮面を被っていたが、その裏にある『本質』を、リドルは今、肌で思い知ったのだ。狂気と神秘の混じりあった魔法の本性。理屈では割り切れない世界を。
ゆっくりと、リドルは扉を閉めた。
そのとき、ようやく心臓の鼓動が戻ってきた。は、と詰まっていた息をこぼす。
重く。強く。生きているという証のように。
だが、背中に感じる扉の冷たさが、どこか湿っていたように思えた。指先がほんの僅かに震えている。理性は落ち着けと告げているが、感情の奥深くで何かが警戒している。
あれは、誰だった?
「……どうしたの、吸魂鬼にでもあった顔してる」
再び、フィンレイの声が背後から届く。
リドルは何も言わず、扉を閉めた。背中を預けるように、戸板に身体をもたせかける。
「何でもない」
「そう?でも僕の方は問題大有り。すっごく疲れちゃって、もう寝ようと思ってたから。本読みたいならまた朝に来てよ」
ふわ、とフィンレイは欠伸をこぼしながらベッドから立ち上がる。本を本棚へ片付けるその、至って普通の姿にリドルは「ああ」と呟き、窓の外を見た。
庭園から屋敷に戻り迷っていた時間は体感的には数十分だったが。外は暗かった。──いや、この部屋の窓は人を騙す。まだ昼間か?……何を言ってる、今コイツがもう寝ようと思っていたと言ったばかりじゃないか。
リドルは想像以上に自分が動揺していることに気づき大きくため息を吐いた。
ふと、何かに気づいたように不意にフィンレイはくるりと振り返る。軽い足取りで距離を詰めたフィンレイは、リドルの顔をじっと見つめ、くん、と鼻を動かした。
「……何だ」
「甘い匂い。何か食べた?」
「は?……ああ、厨房で、クッキーを……」
「…………へぇ」
リドルの言葉に、フィンレイは目を細めた。その目には今までなかった強い興味や好奇心が宿り、リドルは半歩、後ろに下がる。
「何だ」
「……トムがびっくりすること言っていい?」
「……」
フィンレイの声はいつもの調子より、些か真剣だった。リドルは無言で頷く。
「あのね──」
フィンレイは口元をリドルの耳に寄せると、囁くように言った。
「それ、僕が作ったクッキーじゃない」
時が止まった。
皮膚の下を何かが這い回る。背骨がゆっくりと冷えていく。リドルは、口の奥にまだ微かに残る甘さを思い出す──サクサクとした歯ざわり、柔らかくて、温かかった。
「……何?」
問い返す声は自分でも驚くほど掠れていた。
だがフィンレイはそれには答えず、淡々と、まるで独り言のように続けた。
「だって、あそこには誰もいなかったはずだよ。厨房の魔法具、全部しまってあるし、食べ物も片づけてた。ってか料理は全部ハウスエルフが作るし。君が食べたもの──『誰が』作ったんだろうね」
誰、か。それとも『何』か。
あの館の空気が、あの時、妙に甘かったのは気のせいではなかった。香りがしていた。誘うような、まるで罠のような匂いが。
「そういえばさ──」
フィンレイは笑った。まるで何もかも、ほんの日常の出来事の一部にすぎないとでも言うように。小さく笑って、ひと言。
「──異界の国の食べ物って、食べちゃだめなんだよね」
その声は確かにフィンレイのものだった。けれど、リドルはその瞬間、確信した。──今この部屋にいる彼が、本当に『フィンレイ』なのかどうか、自分にはもう分からない。
夜の静寂が、耳を塞ぐように満ちていた。
屋敷のどこかで、また蝶番が軋んだような音がした。それは、遠ざかっていくのか、近づいてきているのか──。リドルには、判断できなかった。
「──ふ」
空気の抜けるような音がした。フィンレイが口元を押さえ肩を震わせている。リドルは血の気の引いた顔でフィンレイを見た。
「──あははっ!ト、トム、きみ、ひっでー顔!」
「……は?」
突然、フィンレイは腹を抱え目に涙を滲ませけらけらと笑い出した。その表情は面白くて仕方がないというようであり、僅かに申し訳なさも滲んでいて、リドルは暫く唖然とフィンレイが笑うのを見ていたが、ようやく思考が冷静さを取り戻し回路を繋ぎ──からかわれたのだと、理解した。
「フィンレイ!」
「あはははっ!──痛い痛い!視線がチクチクしてる!」
「死ね!」
「ひど!死にそうな顔してたのどっちだよ!」
からかわれたのだ。全てフィンレイのやりすぎた悪戯だったのだ。顔が火照る。怒りと、自分の怯えを見透かされたことへの苛立ちが胸に渦を巻いていた。
リドルは本気で怒り、怒りに任せて床に放置されていた本を蹴り飛ばした。「やめろよ!」と非難的なフィンレイの言葉も聞かず乱暴な手つきでポケットから鍵を取り出し、鍵穴に刺して孤児院の自室へ戻った。
ばたん!と強く扉が閉められた。
いつも通りの空気、静かな部屋の中に暖炉の中の炎が爆ぜる音だけが聞こえる。
フィンレイはすっと表情を消して扉を見た。
「──だめだよ、トムは」
フィンレイは静かな目で、怒りでも懇願でもない、何も無い、ゾッとするほどの無表情で扉を見る。「カリ、カリ、」と扉の奥で何かが引っ掻いた。扉の隙間からどろり、と黒い何かが蠢くのが見える。
「……だめだってば」
若干苛立ちと呆れを含みながら言えば、ついにそれは諦めたのか──それはフッと消えた。フィンレイはため息を一つこぼし、頬を掻く。
「好奇心は蛇をも殺す、だね」
その呟きに誰も答えなかった。