トム・リドルが唯一友達になった子、口数が多すぎる。   作:八重歯

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12 「ようこそ、地獄の一歩手前。歴史ある純血の館、ウィンドルミア家の小旅行へ」

 

 

 数日が過ぎ、リドルがウィンドルミア家の得体の知れぬ息遣いから辛うじて帰還したある日の午後、フィンレイはふと本の山から顔を上げた。目を瞬かせ、指先で頁を閉じながら「忘れてた」と呟く。

 

 その一言に、魔法史の本の頁を繰っていたリドルも、ふと顔を上げる。目が合った瞬間、フィンレイは頭を片方に傾け、ベッドの上の本の山に手近な一冊を投げた。さらり、と頬に髪が流れる。

 

 

「君に家の案内しようと思ってたんだよね。でも仕方ないだろ?この本がさ、引力でも発生してるみたいでさ」

「……」

 

 

 リドルは無言のまま目を細めた。否定でも肯定でもなく、ある種の呆れがその視線に宿る。

 

「ほら、おやつも補充しないといけないし」とフィンレイはのびのびと背を伸ばし、優雅な猫のように立ち上がった。

 

 

「トム、この前は家がちょっと暴走しちゃったからさ、改めてまともな屋敷を案内してあげるよ」

 

 

 リドルは本を閉じ、わずかに眉を寄せた。内心では「また奇妙なことに巻き込まれるのか」という猜疑心と、それでも抗い難い好奇心がせめぎ合っていた。──それに、彼の『まとも』が信用できるほどリドルは無垢ではなかった。

 

 ウィンドルミア家は広大で不可思議な物があり、奇妙な体験もした。しかしあれはフィンレイが仕掛けた大掛かりで趣味の悪い悪戯だったのではないのか。そんな思いが表情に現れてしまい、それを見たフィンレイは「あぁ」と呟いた。

 

 

「大丈夫、今日は部屋が勝手に増えたり暗闇が襲ってきたりしないって。もう屋敷には『トムを襲っちゃダメだよ』って注意したし」

「……あれは、行き過ぎた悪戯じゃなかったのか」

「あー……」

 

 

 あれはフィンレイの悪戯などではなく、屋敷の変容だ。だがそれをリドルに伝えたくない。と──なぜか思ったフィンレイは頬をかきながら咄嗟に言い訳をした。無意識のうちに、恐れたのかもしれない。

 

 

「……半分はね。もう半分はこの屋敷が君のことを気に入っちゃって取り込もうとしたんだ」

「……取り込む?」

「うん。この家は生き物と物の中間くらいなんだ、思想とかはないんだけどね。ウィンドルミア家以外の魔力が長期間居たから取り込みたくなったんだろうね。まあ、古い魔法使いの家ではよくあることだよ」

 

 

 フィンレイは軽く言うと耳に髪をかけ、扉へと近づく。リドルは眉を顰めたが、最終的には無言で立ち上がった。扉を開ければ、甘い香りと淡い光が満ちていた。

 

 

「ようこそ、地獄の一歩手前。歴史ある純血の館、ウィンドルミア家の小旅行へ」

 

 

 リドルはフィンレイの軽快な言葉に促されて目を細めたまま黙って部屋を出る。廊下は以前一人で探索した時と同じく、赤い絨毯が敷かれ、壁にはランプが魔法の炎を揺らめかせていた。

 時々花瓶にいけられいてる美しい花の香りは下品ではない程度で、心を落ち着かせる。

 

 ずらりと並んでいる壁画や肖像画にいる人たちはフィンレイを見ると色めき立ちぱっと表情を明るくさせ、紅潮した頬を緩め必死に手を振りアピールしていた。

 「フィンレイ様!」「坊ちゃん!」「今日はいい天気ですね!」と口々に好きなことを話す肖像画達に、フィンレイは軽く手を挙げて「やあ」と少し挨拶しただけで通り過ぎていく。

 肖像画達の落胆の声と、あの隣にいる子どもはなんだと言う嫉妬の視線を受けながら、リドルは「この前と反応が全然違う」と考えていた。

 

 

「……魔法界の肖像画は話すのか?この前、漏れ鍋で見た新聞の写真も動いていた」

「ああ……そうだよ。特別な魔法を使って描けば、モデルの人格や経験が肖像画に残るんだ。肖像画を作った後に肖像画と長く過ごせば過ごすほど精密になるみたい。写真も勿論動くけど、マグルの世界の写真は動かないんだっけ?」

「……映像ならある」

「ああ、テレビ!知ってる。魔法界じゃ未発展分野さ」

 

 

 フィンレイはたわわに実った林檎の木と蛇が描かれた絵画の前で立ち止まった。

 その林檎を撫でると、林檎はぶるぶると震えぽとん、と手の中に落ちてきた。リドルが驚き目を見張っていると、フィンレイは口先を上げてニヤリと笑いリドルに林檎を差し出した。

 

 

「知恵の実、お好きかな。副作用は……その日の気分次第」

「食べられるのか?」

「うん」

 

 

 フィンレイはもう一つ林檎を取ると、服で簡単に拭いてからしゃく、と良い音を響かせて食べた。もごもごとしながら「最高だね」と言うフィンレイに、リドルは一度林檎とフィンレイの顔を交互に見つめ、何かを測るように瞬きした。

 警戒の名残を残しつつも、袖で林檎を拭う仕草はどこかぎこちなかった。それでも齧れば、その瑞々しさに目を細め、眉がわずかに緩んだ。

 

 

「……!うまいな」

 

 

 その林檎は今まで食べたものの中で一番瑞々しく、甘く、さっぱりとしていて、果汁も溢れるようだった。夢中になりもう一口──今度は大口を開けて──食べるリドルに、フィンレイは林檎を齧りながら楽しげに笑う。

 

 

「罪の味って最高でしょ。背徳感がスパイス」

 

 

 くつくつと笑うフィンレイは、指を舐めながら半分ほど残った林檎を絵画の中の蛇に向かって投げる。蛇は待ってましたと口を開け、ぱくりと林檎を食べた。

 リドルは芯だけを綺麗に残し、同じように蛇に向かって投げたが、「芯だけなんていらねぇよ」とばかりに蛇は尾で叩き落とし林檎の木の中に身を潜めてしまう。リドルはぼとん、と足元に落ちた林檎の芯を見て不貞腐れたような顔になった。

 

 

「ははっ!蛇はグルメだってことも覚えておくといいね」

 

 

 愉快そうに笑うフィンレイは、ゴミになり豪華な絨毯を穢す芯に怒りもせず、「行こう」と足を進めた。

 

「……あれはあのままでいいのか?」と、リドルはぽつんと転がっている芯を振り返りながら呟く。だがフィンレイは「屋敷僕が片付けるから大丈夫」と軽く答えた。

 屋敷僕が何かを知らないリドルは、自分にはまだ魔法界の根本的なことがわかっていないのだと痛感した。

 

 

「こっちは西棟だから、住民の部屋とか台所とか書斎とか、そういったプライベートな部屋が集まってるんだ。東棟には客室やサロンとかホールがあるよ。この階にあるのは、ウィンドルミア家の住人の部屋」

 

 

 フィンレイはくるりと振り返ると、先ほど出た部屋を指差した。

 

 

「あそこが僕の部屋。その前は空き部屋」

 

 

 前を向き、左右にある部屋を指差す。

 

 

「こっちは母さんの部屋、こっちが父さんの部屋。良かったよ、この部屋を開けてなくて。開けてたら多分君死んでた」

 

 

 おどけたように肩をすくめるフィンレイに、リドルは鼻で笑ったが。すぐにフィンレイは真顔になると「これ、まじだからね」と低い声で忠告した。

 その真剣な目に、リドルは言葉に詰まり、先日感じた嫌な気配が背中を掠めた気がした。

 

 

「……なんで、僕が開けていなかったと知ってるんだ?」

「ん?君がゴーストじゃないからさ」

「……」

 

 

 本当は隠れて後をついていたため知っているのだが、逆転時計を使用し過去を変えた事は絶対に伝えてはならない。真相は言わず、フィンレイは後ろ手で手を組み、にやりと猫のように笑った。

 

 

「僕でもこの二つの扉は滅多に触らないから。死にたくなかったら絶対開けない事。これ、フリでもなんでもないからね」

 

 

 その言葉は穏やかでありながら、背後から爪を立てるような重みを含んでいて、リドルは無言で頷くしかなかった。

 フィンレイは螺旋階段を降りながら「君は運が本当強いよね」と笑いながら言う。

 

 最後の螺旋階段に差し掛かりながら、フィンレイは愉快そうに囁いた。

 

 

「さて、次は君を惑わした厨房だ」

 

 

 螺旋階段のすぐ側にある真鍮の取手の扉を細い指先で示した。リドルは屋敷に惑わされ、誘われるままにクッキーを食べた。

 リドルは、突然口の中にあの甘みが蘇ったきた気がしてごくりと唾を飲み込み──そうしてしまった自分に眉を寄せた。

 

 

 

 

 フィンレイが扉を軽く押し開ければ、厨房の空気が途端に押し寄せた。

 暖かく、どこか甘やかで、けれど嫌味のない清潔な空気。真鍮の鍋と銅のフライパンが天井のフックから静かに揺れ、石造りの床はぴかぴかに磨かれていた。冬でも冷え知らずの、古くて穏やかな暖炉が煉瓦の壁に埋め込まれ、そこから絶え間なく湯気の立つ大鍋がくつくつと音を立てていた。

 リドルはまた自動で料理が作られているのかと思ったが、今回は自動皮剥き機や透明なコックがいるわけではなかった。

 

 

 奥の調理台には一匹の屋敷僕が立っていた。

 小柄な体格にくたびれたタオルのような布をまとい、歳月の重みに背を曲げながらも、所作は妙に優雅で洗練されていた。彼は一瞬手を止めると、リドルにちらりと視線を流し、すぐにフィンレイへと深々と頭を下げた。

 

 

「フィンレイ坊ちゃん、本日はご機嫌麗しゅうございます」

「おや、イーヴリン、今日も相変わらず手際がいいね」

 

 

 フィンレイの言葉に夕食の仕込みをしていたイーヴリンは目の皺を深めて嬉しそうに微笑む。

 リドルはこの家で、初めてフィンレイ以外に生きている者を見た。もっとも、初めて会うのが人間ではなく、何か他の生物だとは思わなかったが。

 屋敷僕を知らないリドルは、尖った長い耳や、小さな体には不釣り合いなほど大きな瞳。皺だらけの顔。──このウィンドルミア家に合わないぼろぼろの薄汚れた布を纏う彼を、奇妙なものを見る目で見つめ沈黙してしまった。

 

 

「彼はイーヴリン、ウィンドルミア家の屋敷僕。屋敷僕ってのは……うーん、マグル風に言うと執事とかお手伝いさんとか?家事は全部イーヴリンがしてくれるんだ。イーヴリンが作る料理は最高なんだよ」

「至極恐悦でございます」

 

 

 フィンレイはまるで親戚の老執事でも眺めるように笑いかけ、調理台へと歩み寄る。イーヴリンと呼ばれた屋敷僕は杖のような指で手元のクロスを整えたあと、静かな声で尋ねた。

 

 

「本日はおやつのご用命でしょうか。それとも何か特別なご用意が?」

「クッキーがいいな。チョコチップ入りの。今日は糖分補給日ってことで、頭を空っぽにするくらい甘いので」

「畏まりました」

 

 

 イーヴリンは静かに一礼し、既に用意していたらしい生地のボウルを持ち上げる。その動作に無駄はなく、年老いてなお一分の隙もない。

 杖も呪文も使わず、指を振るだけでナイフが勝手に動き、バターが滑らかに混ざり、オーブンは火を踊らせていた。

 

 

 厨房の奥、漆黒のケトルがかすかに震え、やがてコトリと軽やかな音を立てた。それを耳にしたイーヴリンが、「少々お待ちを」と丁寧に声をかける。

 

 フィンレイはくるりと振り返り、テーブルの方へ歩く。「ちょうどいいタイミング」とでも言いたげな微笑みを浮かべ、突っ立ったままのリドルに隣に座るよう椅子の座面を軽く叩く。リドルは誘われるままに隣に座り、フィンレイの視線の先──イーヴリンを追った。

 

 

 イーヴリンは手馴れた動作で茶葉の詰まった缶を開け、銀のスプーンですくい取る。ふわりと香るのはダージリンとラベンダーと薬草のブレンド。古いウィンドルミア家のレシピだった。

 

 

「本日は坊ちゃんのお好みで、軽やかで華やかなものを選びました。もちろん、ご友人様にも」

 

 

 リドルは「ご友人様」と呼ばれた瞬間、僅かに目を瞬かせたが、何も言わず黙ってその所作を眺めた。

 

 イーヴリンの指先が静かにカップを揃え、魔法の炎が柔らかな黄金色を灯す。カップの中で紅茶はゆっくりと色を深め、琥珀色の液体が白磁の縁を静かに満たしていく。

 

「シュガーとミルクはいかがなさいますか?」とイーヴリンは控えめに問い、「ミルクティーで、甘めで」とフィンレイが先に応え、リドルは一拍遅れて「……ストレートで」と少し迷いながら続いた。

 

 イーヴリンは無言で頷き、優雅な手つきでミルクを細く垂らし、角砂糖を一つ落とす。リドルのカップには、澄んだ紅茶がそのまま注がれた。

 

 テーブルに置かれたカップからほのかに立ちのぼる湯気。紅茶の香りとハーブの爽やかさが鼻腔をくすぐる。

 

 

「クッキーが焼けるまで、ごゆっくりお寛ぎくださいませ、坊ちゃん、ご友人様」

 

 

 イーヴリンの声は静かで暖かく、厨房の熱気とともに優しく二人を包み込んだ。

 

 

 厨房に漂うのは複雑な食材やスパイスの香り。それに紅茶とクッキーが焼ける甘い匂いが加わった。

 とんとん、ことこととイーヴリンが夕食の仕込みを続ける音が静かに響き、リドルは紅茶を一口飲みながら「落ち着くところだ」と呟いた。

 

 孤児院の厨房はもっと雑然としていた。当番制で料理を手伝わされる事もあったが、時間に追われ切羽詰まった職員のうるさい声が常に響いていたのだ。

 それと比べて、この厨房はなんで静かで心地良いのだろうか。

 

 リドルの呟きに、フィンレイは足を組みながら笑った。

 

 

「まあね。屋敷が変なことをしなければ、ここは妙に安心できるよ。──まさに古き良き胃袋の味方ってやつ」

 

 

 イーヴリンは静かな笑みを深めた。

 

 

「坊ちゃんにそう申されるのは光栄の至りでございます。坊ちゃんのための厨房でございますので」

 

 

 数分もしないうちに、木のプレートの上に焼きたてのクッキーが積まれて運ばれてきた。優しいバターの香りが立ち昇る。

 

 

「トムも食べる?」

 

 

 フィンレイが何気なくリドルへと皿を押しやれば、リドルは小さく息を吐き、黙って一枚取った。

 

 

 

 

 クッキーと紅茶で小腹を満たした後、ふたりはまた歩き始めた。柔らかな絨毯に足音が吸い込まれるなか、フィンレイは軽く顎をしゃくる。

 

 

「さて、お次は書斎。ここをよく使ってたのは父さんだね。図書室に置けない本がたくさんあって、たまに僕も用がある」

 

 

 フィンレイが扉を押し開けた瞬間、燻った蝋燭の甘ったるい匂いが空気を重たく撫でた。暖色の木目が部屋の隅々までしっとりと光を帯び、低く垂れたシャンデリアが静かに揺れている。空気は澱んでいて、時間さえゆっくり沈殿しているようだった。

 室内の主役は、壁一面の本棚。そして中央の机。羽ペンとインク壺、それから不健康な高さの書類の山が、文字通り積み上げられている。羽ペンは誰の指示もなくカリカリと動き続け、紙の表面を無遠慮に引っ掻いていた。

 

「……なぜ図書室に置かない?」とリドルが問うと、フィンレイは片眉をひょいと上げた。

 

 

「呪い付きだからね。この部屋から本が出ると途端に爆発する仕様。父さんの嗜好はかなり……過激派だった」

 

 

 フィンレイは肩をすくめると、額を押さえわざとらしく嘆きながら言った。

 

 

「分野はもっぱら時間、次元、死。僕でも三行読んだら偏頭痛コース。人類の知能が追いつけるものじゃないね」

「……」

 

 

 興味半分、不信半分の顔で、リドルは部屋の隅に目を滑らせる。水晶玉が机の一角に鎮座しているのを見つけ、自然と足が向かった。

 

 

「……これは?」

「あ、それ触ったら命を吸われるよ」

 

 

 即座に飛んできた忠告に、リドルの指先が寸前で止まった。顔に僅かな苛立ちを顔に浮かばせ、伸ばした指先を、きゅっと握りしめる。

 

 

「……なぜそんなものが屋敷にある」

「命を吸う代わりに予言してくれるんだ。ただし精度は残念極まりない」

「ゴミじゃないか」

 

 

 静かな声色で言い放ったリドルに、フィンレイは口元を吊り上げて笑った。

 

 

「試す人が少ないからね、信頼性の検証が進まないんだよ」

 

 

 リドルは呆れたように鼻を鳴らしつつ、隣の壁際に立てかけられた奇妙な鏡に目を留めた。波打つ銀の鏡面が、ぼんやりと彼の輪郭をゆがめた。

 

 

「これは?」

 

 

 フィンレイは愉快そうに眉を上げた。

 

 

「ボガート鏡。覗き込めばトラウマ三昧スリル満点。お気軽な娯楽用さ」

「……」

 

 

 リドルは薄く目を細めたまま距離を取った。明らかに娯楽とは思えない生理的な不快感が皮膚の下を這い上がってくる。

 

 

「書斎の本なら好きに読んでいいけど、たまに寿命と等価交換の本も混ざってるから。そこだけは慎重にね」

 

 

 ぴしりと指を立て、フィンレイはリドルの肩を軽く押した。

 

 

「じゃ、次はまともな部屋に案内しようか。君が一番長居しそうな場所──図書室だよ」

 

 

 くるりと軽い足取りで背を向けるフィンレイの後ろで、リドルは最後にもう一度部屋を見渡した。机の上の羽ペンは誰の指示もなくカリカリと文字を書き続けている。

 どう考えてもまともじゃない、と思いながら、リドルは静かに後を追った。

 

 

 

 

 

 

 フィンレイは図書室、とプレートがかけられた扉の前で足を止めて振り返った。

 

 

「ここが図書室。ウィンドルミア家で、唯一まともと言っていい場所さ。まあ、まともの定義にもよるけどね」

 

 

 扉を開けば、ひんやりとした澄んだ空気が頬を撫でた。外とは異なる静寂が、まるで聖域のように室内を包んでいる。リドルが一歩足を踏み入れると、足元のカーペットが優しく軋み、壁一面の本棚が圧倒的な存在感で目の前に広がった。

 

 古い木製の棚は天井に届きそうな高さで、何段にもぎっしりと革装丁の本が並んでいる。重厚な魔法の封印が要所に刻まれ、背表紙には金箔の古い文字が踊っていた。時折、誰の指示もなく本が一冊ふわりと浮き、空中を泳ぐように別の棚へと移動していく。

 

 

「魔法の自動整理システムさ。知識が生き物みたいに動くのがこの部屋の売り」

 

 

 フィンレイは気軽に呟きつつ、棚を指でなぞった。指先には薄く埃の匂いが絡む。

 

 

「ただし気は抜けないよ。ここの本は、気まぐれだ。──昨日もね、このあたりの辞書が隣の百科事典に悪態をついて、取っ組み合いの騒ぎだった」

「……本同士が、喧嘩するのか」

 

 

 呆れたように言うリドルに、フィンレイは肩を竦めた。

 

 

「知識のプライドは時に厄介でね」

 

 

 中央には閲覧用の机と柔らかな革張りの椅子が並び、机上には淡い光を放つ水晶のランプが置かれていた。その光は柔らかく、目に優しく、魔法によって一定の読書光度を保つよう仕立てられている。

 

 

「ここは僕の避難所でもあるんだ。父さんの書斎が地獄なら、ここは天国──まあ、毒が混ざってるのはご愛嬌かな」

 

 

 リドルは無言のまま歩みを進め、目線の先に据えたのは図書室の片隅、ひときわ重厚な魔法の結界が張られた一角だった。

 棚の上には金箔で刻まれた札が輝いている。簡潔な一言──禁書棚。それだけでこの場所が凡庸なものではないと知らしめていた。

 

 フィンレイは隣で肩をすくめるように笑い、いつもの軽い声色で呟いた。

 

 

「この図書室の本は、基本的に検閲も封印もなし。どれも自由に読めるよ。──けど、そこは別格。あの棚の中身はね、僕たちにはまだ少し……刺激が強い」

 

 

 扇情的な甘さすら滲むその声に、リドルの目が細くなる。

 

 

「まだ早いってことか?」

「うん。せめてプロテゴくらいは使えないとね。話にならない」

「プロテゴ?」

「大抵の呪いは弾き返せる、便利な魔法。便利だけど──ま、難しいよ」

 

 

 フィンレイは結界を軽く撫で、結晶のように震える魔法の波紋を眺めた。中には重厚な革装丁の本が身じろぎし、棚の奥では何かがざわめいたようだった。

 

 リドルは結界の内側へ目を凝らした。静かに胸の奥がざわめく──その禁忌の知識に、いつか手を伸ばしたいという欲望が小さく灯った。

 その魅力的な闇を見つめたまま、リドルは低い声で囁いた。

 

 

「もし、どうしても読みたければ?」

「命を担保にするしかないだろうね。……運が良ければ足一本くらいで済むさ」

「悪運なら?」

「まあ、胸から下はさっぱりするね」

 

 

 悪戯っぽく片目を閉じて笑うフィンレイに、リドルは低く吐き捨てた。

 

 

「……死ぬじゃないか」

「そうとも。でも、死ぬ前に紅茶一杯くらいは飲めるさ。ウィンドルミア家は、客人をもてなす文化があるから」

 

 

 からかうように言って、フィンレイは軽やかに踵を返した。ひらりと手を振り、次の扉へと向かう。

 

 

「じゃ、次はもっと狭くて、もっと不穏な場所へ案内しよう。──君の好奇心が泣き出す場所さ」

 

 

 宙に浮く本たちのささやきを背に、フィンレイは迷いなく歩き出した。リドルは最後にもう一度禁書棚の鈍い光を見つめ、結界の揺らぎが空気を震わせるのを目に焼き付けてから、その後を追った。

 

 

 

 

 

 

 次に案内されたのは、図書室のすぐ隣に位置する部屋だった。

 磨き抜かれた黒檀の重厚な扉が行く手を塞ぎ、その中央には銀細工の蛇が絡みついている。頭をもたげた蛇は大口を開け、今にも鍵穴に牙を突き立てんとする姿でこちらを睨みつけていた。

 

 リドルは扉の前に立ち、無意識に僅かに足を止めた。これまで見てきた屋敷のどの扉とも異なる、妙な威圧感がそこにはあった。まるで扉自体が意志を持ち、開かれることを拒絶しているような、そんな異様な空気が張り詰めていた。

 

 しかし、フィンレイは気にも留めぬ様子で取っ手に手をかけ、軽々と扉を押し開ける。蛇の牙も、不吉な気配も、彼にとっては日常の一部らしい。

 

 

「ここが研究室。元は父さんの部屋だったけど、今は僕が使ってる。作った薬を試したり、魔法道具を組み立てたりね」

 

 

 中に踏み入れた瞬間、リドルは喉奥にひっそりと力がこもるのを感じた。部屋は先ほどまでの華やかさとは正反対、狭く暗く、重たく沈んだ空気が満ちていた。

 灯りは天井から吊り下げられた一本のランプだけで、あとは壁沿いにずらりと並ぶ瓶詰や試験管の、青白い蛍光が頼りだった。

 

 部屋の奥には錆びついたような秤が据えられ、黒く太い柱の陰からは、巨大な骨格標本が不気味に覗いている。棚には無数の薬草と、名も知らぬ動物の部位が並び、時折瓶の中の液体が鈍く光を弾いた。

 

 

「空気が……重いな」

 

 

 リドルは無意識に眉を寄せた。部屋の中に満ちる重苦しさは、ただの埃や薬草のせいではない。背筋を撫でる薄ら寒さが、目には見えない何かの存在を告げていた。

 

 

「うん、普通は一人じゃ入らない方がいいかな。死の直通列車がよく通ってる部屋だから」

 

 

 軽い口調で言うフィンレイに、リドルはぴくりと目を細めた。

 

 

「……死の直通列車?」

「父さんはね、死の研究者だったんだよ。何故人は死ぬのか、死んだ先には何があるのか──その問いに一生を捧げた人だった。リンボに続く鏡を発明した!って叫んで以来、連絡が途絶えたけど」

 

 

 フィンレイは肩をすくめ、おどけた笑みを浮かべる。だがその声音には、僅かな翳りが滲んでいた。

 

 

「……死んだのか」

「さあね、僕も知らない。生死の境目を彷徨ってるんだろうな。当主が死んだら屋敷が知らせてくれる仕組みだけど、今のところまだ生きてるって判定されてる」

 

 

 リドルは短く息を呑み、青白い光の下でじっとフィンレイを見つめた。

 

 

「それが……母さんを狂わせた理由さ。母さんは父さんに夢中だったからね。完全に死んだなら諦めもついただろうに、どこかに生きているかもしれないって想像させるから、余計に救いがなかった。さらに母さんは父さんほどぶっ飛んだ知能も持ってなかったから、探す手段もない。──本当、救いがないよ。まさに死ぬまで」

 

 

 父さんが死ぬまで。母さんが死ぬまで。どっちとも取れる言葉は淡々としていたが、フィンレイの声音には寂しさのようなものがふっと混じっていた。肩を小さく竦めるその仕草が、リドルには妙に遠く見えた。

 

 

 リドルは僅かに口を引き結び、歩みを進めた。棚の間を静かに進み、並ぶ瓶詰をひとつひとつ眺めていく。色とりどりの薬草が浸された液体、奇妙な形の骨、見たこともない薄膜に覆われた器官の数々──不快さは確かにあったが、それ以上に奇妙な好奇心が刺激されていた。

 

 

「……これも、全部『死』の研究なのか」

 

 

 ふと指先で小瓶をなぞりながら問いかける。フィンレイは「うん」と短く頷き、棚の隅から古い小箱を引っ張り出した。

 

 

「父さんの研究はね、死を乗り越えることじゃなく、死そのものの仕組みを解き明かすのが目的だったんだ。結果として生き延びる方法も出てきたけど、彼は特に……死の境界線を曖昧にするのが好きだったみたい」

 

 

 小箱の蓋が静かに開かれ、中には人間の指ほどの細い硝子管がずらりと並んでいた。フィンレイが無造作に一本手に取り、振ると中の液体が粘り気を持って揺れた。

 

 

「これは魂の波紋を視覚化する薬。死ぬ直前の人間が飲むと、魂の揺らぎが視える……らしいよ。試した人がいないから、詳細は不明だけど」

 

 

 リドルはほんの少し眉を上げ、目を細めた。

 

 

「試した人がいないって、無責任だな」

「父さんは興味が記録や栄光に無くてね。結果が何かより、過程の方が重要だったんだってさ。他にも他人の寿命を自分のものにする魔法薬もある。こっちはそこそこ人気だったらしい。今は所持禁止リスト入り」

 

 

 コルクが蜜蝋で封されている試験管を振りながら、フィンレイは歌うように言った。それは薄青色のとろりとした液体が入っていて、時々白いモヤが渦巻いてた。

 所持禁止なのにこの場にある、そのことにリドルは触れることなく視線を外し、部屋の奥へと目を向けた。

 そこには大理石の台座があり、ぽつんと一冊の本が鎮座していた。青白い光に照らされ、まるで心臓のように規則的に脈打つ魔力の震えが本から漂っている。

 

 

「……あれは?」

 

 

 リドルは息を潜めたまま、大理石の台座を見据えた。得体の知れない重みが肌にまとわりつく感覚に、無意識に拳を握る。

 フィンレイはちらりとそちらを見て、口先だけで笑った。

 

 

「ああ、遺志の書。別名、ウィンドルミア家の心の闇詰め合わせ」

「……何だそれは?」

 

 

 呆れたように眉を動かすリドルに、フィンレイは楽しげに肩を竦めた。──だが、口の先に隠しきれない緊張が走っている。

 

 

「まあ……ざっくり言うと、ウィンドルミア家歴代の死ぬ間際の本音を詰め込んだメモリアル・ブック。亡くなる直前の一番素直な、でも一番ヤバい感情が勝手に記録されるんだ。理性は完全オフ」

「……遺言か?」

「違うね!遺言なら『財産は』とか『家督は長男に任せる』とか綺麗事を書くけど、これは『やばい本音』専門だから。うちの家族の鬱屈を集めたエンタメコーナーだよ」

「……ふぅん」

 

 

 リドルの目がじっと本を射抜くように細められた。

 

 

「じゃあ、中身は全部発狂の言葉の羅列ってことか。読む意味があるのか?」

「あるよ?当主は代々コレを開いて、心をバキバキに折って受け継ぐっていう伝統があってさ。君でも多分、二週間は寝込む」

「開けたことが?」

「まぁね、好奇心には勝てなかった。結果、三日吐き戻して一週間寝込んだ。──屋敷僕に魔法薬を飲まされて何とか生きてたけど」

 

 

 リドルは静かに鼻を鳴らした。馬鹿げたことを平然と言い切るフィンレイに呆れながらも、その気質が嫌いになれない自分に少しだけ苛立った。

 

 

「……よく死ななかったな」

「屋敷僕が甘やかしてくれるからね。そこだけは純血の特権だよ」

 

 

 フィンレイは軽やかに笑い、足を止めた。

 

 

「ここは好きじゃないけど、必要な場所だ。──でも、今はもう充分かな。これ以上、空気が重くなるとお腹が空かない」

 

 

 冗談めかした一言と共に扉へ向かい、ひらりと振り返る。

 

 

「次は調合室だよ。薬草と魔法薬の部屋。──今度はもう少し穏やかな空気だから、安心して」

 

 

 そう言ってフィンレイは軽やかに足を運んでいく。重たい空気を背後に、リドルはひと呼吸置いてから静かにその後を追った。

 

 

 

 次に通されたのは、壁一面に薬草の匂いが染み込んだ調合室だった。

 

 扉が開かれた瞬間、乾いた植物の香りと仄かに渋い鉱物の気配が空気を満たした。整然と並ぶ机と器具類、壁沿いの棚には色褪せた薬草の束がびっしりと並び、下段の引き出しには『未分類』と書かれたラベルが無数に貼られている。中央には黒く磨かれた作業台と大鍋が据えられ、錬金の名残りのように金属の仄かな鈍色が灯っていた。

 

「ここが調合室。魔法薬の調合に使ってる。僕とイーヴリンが共同で管理してるけど──」フィンレイは肩越しに笑い、「薬草コレクションは半分、母さんの遺産だ」と付け加えた。

 

 棚を辿った先には、見たことのない奇妙な薬草や鉱物が静かに光っていた。どれも不規則に乾燥し、いくつかは未だにわずかな生命の息遣いを宿しているように見える。

 

 

「……お前の母親も、何かの研究者だったのか?」

 

 

 興味半分、慎重さ半分の声で問いかければ、フィンレイは手元の干からびた植物を指先で弄びながら呟いた。

 

 

「魔法植物の研究者だったよ。特に、防衛本能を持つ植物の応用が専門だった。驚くような防衛反応を──毒針を飛ばしたり、幻覚を起こしたり──それを生活に活かす研究をしてた。薬草と魔法を組み合わせてさ、病気の予防から屋敷の護衛まで。実用魔法の権化みたいな人だった」

 

 

 フィンレイの視線がゆっくりと棚を流れ、しなびた蔦の房に触れる。

 

 

「でも、父さんが行方不明になってからは、部屋に引きこもって花にばかり執着し始めた。枯れた花を蘇らせる研究に夢中で──今はそれしかしてないよ」

 

 

 軽くからかうような調子だったが、どこか遠い響きが混じるのをリドルは聞き取った。

 

 

「……だから、部屋から滅多に出てこないのか?」

 

 

 リドルはふと思い出した。昔、フィンレイが「母親が一年に二度しか部屋から出ない」と口にしたことがあった。

 

「それもあるけど──」とフィンレイは乾いた笑みを漏らし、引き出しの取っ手を指先で撫でた。

 

 

「僕に興味がないんだよ。僕じゃ、父さんをこの世に繋ぎ止められなかったからさ。母さんの目の中に僕はもういない。今はただ、枯れた花と話してるだけ」

 

 

 その言葉には妙な淡々さがあった。だがその背中はどこか脆く、影を落としているようにも見えた。リドルはふと、フィンレイが自分と似たものではないか、と感じた。

 

 

 孤児のように、たった一人で立つ子供。

 

 

 リドルの眉が微かに動いた。そうか、と内心で呟く。くだらない遊び心かと思っていたあの謎解きも、振り返ればやけに必死だった気がする。

 誕生日という特別な日、誰かと繋がるための最後の綱だったのかもしれない、と遅ればせながら思い至った。

 

ただ、誰かが側にいてほしかったから──その理由が、ようやく腑に落ちた気がした。

 

 陽気に見えて、ふとした瞬間に影を覗かせるその性格は、フィンレイが育った環境にこそ根差しているのだと、初めて気づかされた。

 

 

「……さて、次はどこを紹介しようかな」

 

 

 フィンレイは目を合わせることなく部屋の出口へ向かった。リドルは言葉を飲み込んだまま、その背中を無言で見つめる。

 

 胸の奥に不思議なもやが立ち込める。踏み込むべきか、黙って流すべきか、判断しかねる感覚。誰にも頼らず強くあろうと決めたはずなのに、この背中には奇妙な親近感を覚える──それが癪だった。だが、足は自然とフィンレイの後を追っていた。

 

 

 いつもの調子でフィンレイは振り返り、笑顔を浮かべた。

 

 

「ほら、早くおいで。クッキーでも食べたら気が晴れるから」

 

 

 その言葉に、リドルはほんの僅かに目を細めた。いつもの冗談めかした言い回しに隠された、子供らしからぬ大人びた諦め。リドルは静かに一歩踏み出し、その後を追った。

 

 

───フィンレイも、ある意味孤児なのかもしれない。

 

 

 心の中で、そんな言葉が小さく浮かんだまま、リドルは無言で扉を後にした。

 

 

 

 

 

 

 ふたりは廊下を抜け、玄関を出た。開け放たれた扉の先、目の前には一変した景色が広がっていた。

 

 リドルは無意識に足を止めた。

 

 整えられた芝生は濡れたように艶やかで、幾何学模様に刈り込まれた低木がまるで迷路のように規則正しく続いている。空には紫がかった鳥たちが鳴き交わし、空中には風もないのに緩やかに浮かぶ木の葉がある。全体の色彩がどこか濃く、絵画の中に迷い込んだような非現実感があった。色の暴力とも言える派手な配色、それでも不思議と美しいと思わせる迫力がそこにはあった。

 

 

「ここが僕の家の庭。屋敷の裏には薬草の温室と畑もあるよ」

 

 

 フィンレイはふわりと腕を広げ、屋敷の方を振り返ると朗らかに言った。リドルは言葉もなく辺りを見渡し、視線の端でフィンレイの指差す先を追った。

 

 

「この屋敷から……あの丘、見える?」

 

 

 遠く緩やかな起伏の丘陵が霞むように続いている。

 

 

「ああ」

 

 

 頷きながらリドルが口にした声は、少し驚きを滲ませていた。

 

 

「あそこまでがウィンドルミア家の敷地」

「……広いな」

 

 

 自然と呟きがこぼれた。孤児院の薄暗い中庭とは比べ物にならない。こんな広さの土地が個人の家の範囲だということに、やはり魔法界は異質だと改めて思う。

 

 

「無駄にね。まあ、箒で飛ぶ分には便利だけど」

 

 

 肩をすくめるフィンレイの顔には、特に感慨もなく、ただ日常を語る軽さがあった。

 

 

「箒……?」

「うん。マグルの世界で言うと──そうだな、自転車みたいなものかな。空飛ぶ自転車って感じ。ちょっと試してみる?」

 

 

 口元を綻ばせるフィンレイの横顔に、リドルは僅かに目を輝かせた。

 

 

「ああ」

 

 

 素直に返事が出たのは、それだけで心が弾んだ証拠だった。

 

 フィンレイは軽く杖を振り、「アクシオ、箒」と短く呟く。途端に風が走り、どこからともなく二本の箒が音もなく舞い降りた。

 

 

「はい、君の」

 

 

 足元に置かれた箒を前に、リドルは興味深そうに目を細めた。

 

 

「僕の真似をして。手を前に出して、はっきり言うんだ──『上がれ』」

 

 

 フィンレイは手を前に伸ばし、きっぱりと言う。「上がれ」──その瞬間、フィンレイの手に箒が収まった。

 

 リドルは見よう見まねで腕を伸ばし、ぎこちなく声を発した。

 

 

「……上がれ」

 

 

 箒は吸い寄せられるように彼の掌に跳ね上がった。思わず目が見開かれ、そして口元が自然と緩んだ。

 

 

「よし、そのまま跨って、地面を強く蹴って、柄を少しだけ持ち上げる」

 

 

 言われた通りにすると、ふわりと足元が離れた。重力の枷が抜け落ち、地面が遠ざかっていく。

 

 

「……っ!」

 

 

 思わず息を呑んだ。

 

 

「そうそう、上手いじゃないか」

 

 

 フィンレイは口笛を吹き、くるくると軽やかに舞い上がった。その姿を目で追いながら、リドルもぐっと柄を上げ、空へと駆け出した。

 

 

「じゃあ、箒で空中散歩だ。怖くなったら『助けてフィンレイ先生!』って叫んでいいよ」

 

 

 冗談交じりに笑い、フィンレイは風を切るように加速する。

 

 

「誰が言うか」

 

 

 吐き捨てたリドルの声は、不覚にも笑っていた。唇の端が自然と持ち上がっていた。

 

 一気に上昇すれば、風が髪を乱し、頬を冷たく撫でた。地上の喧騒が遠ざかり、世界が一瞬だけ自分のものになった気がした。

 

 風が耳元を掠め、目下にはウィンドルミア家の庭園が広がる。左右には広大な芝生と迷路のような低木、遠くには温室や畑、裏の森の間から時折水面がきらめいているのが見えた。

 

 

「あの森はもう少し年を取ってからかな。やばい魔法生物も住んでるし」

「……屋敷には来ないのか?」

「結界を張ってるからね。屋敷の敷地は安全。魔法界の基本だよ」

 

 

 フィンレイは箒の上で体を伸ばし、風に揺られながら目を細めた。陽射しを浴びた彼は、地上で見たよりもずっと自由で、心の底から楽しそうだった。

 

 リドルもまた、風の中でほんの僅か目を閉じた。胸の内に染み込んでくるのは、冷たい空気ではなく、温かな自由の香りだった。

 

 

 ふたりはゆっくりと箒を降り、芝の上に足をつけた。空を切り裂いていた風が遠ざかり、地面の感触がじんわりと足裏に戻ってくる。

 

 フィンレイは箒を軽く肩に担ぎながら玄関へと歩き出し、リドルも無言でその後を追った。屋敷の扉が開かれると、再び馴染みの甘い香りと静かな灯りがふたりを迎えた。

 

 廊下を抜け、自分たちの部屋へ戻る途中、フィンレイがふと足を止め、いつもの調子で言った。

 

 

「──で、ウィンドルミア家の小旅行、どうだった?」

 

 

 リドルは少しだけ歩みを緩め、振り返ったフィンレイの顔を見た。普段と変わらない柔らかな笑み。その下に隠された何かに気づいた気がした。

 

 この屋敷がどういう場所なのか、フィンレイがどんな家庭に生まれ、何を背負ってきたのか──ほんの僅かだけだが、輪郭が見えたような気がしていた。

 

 この一日で、フィンレイという人間の輪郭が少し、はっきりした。

 

 それがなぜだか、ずっと胸の奥に詰まっていた鉛のようなものを溶かしていく感覚になっていた。

 

 

「……悪くなかった」

 

 

 思ったより素直に言葉が口からこぼれた。フィンレイの口元が僅かに柔らかく緩む。

 

 

「──そ。よかった」

 

 

 屈託なく笑うその顔は、どこか晴れやかで、それでいて少し遠くもあった。

 

 ふたりは再び歩き出す。古い屋敷の中、柔らかな絨毯を踏みしめながら、これまでよりもほんの少し静かな気持ちで。

 冷たい屋敷の壁も、軋む扉も、どこか温かな色彩を帯びているように思えた。

 

 リドルは、無意識に小さく息を吐く。ここは奇妙で、理解しがたく、でもほんの少し──居心地が悪くない場所だった。

 

 

 屋敷の奥、時間の止まったような部屋の扉がふたりを待っていた。

 

 

 

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