トム・リドルが唯一友達になった子、口数が多すぎる。 作:八重歯
暖炉を抜けた瞬間、春の埃が混じる暖かい空気が肌を撫でた。フィンレイは軽く灰を払うと、「よし」と声を落とし、リドルも慣れた手つきで服の裾を払って立ち上がった。リドルはもう、目を閉じてもこの感覚を恐れなくなっていた。
フィンレイの部屋は、窓から午後の日差しが柔らかく差し込んでいた。小さな机の上には紅茶の香りが残り、散らばった羊皮紙が風に揺れる。
「さて、記念すべき君の初授業だ」
フィンレイは棚に近づき一冊の本を抜き取る。ぱらぱらとめくり、「あった」と短く呟くと本をくるりと回してリドルに差し出した。
「これは魔法の論理だよ。魔法は気まぐれじゃなくて、理解と意志で動くんだ。間違えると、大体爆発するけどね」
澱みない説明を聞きながら、リドルは本を受け取り「アロホモラ 開錠魔法」と書かれている見出しに目を通した。
「アロホモラ。鍵開け魔法だよ。振り方は空に円を描くように杖先を動かして、そのまままっすぐ下に降ろす。──これで君も立派な泥棒だ」
フィンレイはゆっくりと杖を回し、下に降ろす。リドルが片眉を上げて見ているのを確認し、今度は窓の前に立ち、「アロホモラ」と言いながら杖を回し、降ろした。
カチ、と静かな音が鳴る。
フィンレイの笑みに促され、リドルは窓を押さえ手を横に滑らした。──閉じられていた鍵は間違いなく開いていた。
「この魔法を防ぐ魔法もあるんだろう?」
「あるよ、コロポータス。鍵かけ魔法。アロホモラ対コロポータスだったら、術師が強い方が勝つ」
「力量によって、効能が変わるのか?」
「そりゃそうさ。魔法は意志の強さだからね。──さ、やってみて。ああ、紅茶のカップは割らないでくれよ」
窓の横に立つフィンレイの姿は教師のようで、どこか少年のようだった。
リドルは無言で視線を杖へ落とし、それからフィンレイを見つめ返した。沈黙の中で交わされる視線は、言葉以上に饒舌だった。
その何か言いたげな視線にフィンレイは一呼吸分おいて「ああ」と言うと持ち手をくるりと回した。
「この杖を使ってごらん。──この杖はね、僕の祖父のものなんだ。変人で、研究者で、途轍もなく頭が切れてさ……おまけに偏屈だった。でも、不思議と僕とは相性が良かったんだ。だから死ぬ前に、僕にちょーだいってお願いして、奪っちゃった」
冗談めかして笑ったフィンレイのその声の奥に、微かな寂しさが滲んでいた。
リドルの視線が杖へ移る。艶やかで深い鬼胡桃の杖。杖身にはほとんど傷がなく、手にする者の影を微かに映すほど滑らかだった。
「鬼胡桃の杖で、杖芯はドラゴンの心臓の琴線。鬼胡桃は、自分の意思を持つような杖なんだってさ。──選んだ持ち主にしか従わないくせに、『何かを学びたい』って本気で思う人には、ちゃんと力を貸してくれる」
そう言うと、フィンレイは杖をリドルへ差し出した。指が離れ、リドルの指先に触れた瞬間、杖が僅かに温かく光った気がした。
リドルは受け取り、静かに見つめた。掌に当たる木肌はひんやりとしていたが、その下に血管のように脈打つ熱が潜んでいるのを感じた。──まるで杖が、彼の心の奥を覗き込み、望みを測っているかのようだった。
フィンレイはいたずらっぽく笑った。
「この杖はね、学びたいって強く願う人を見つけると、ちょっとだけ誇らしげになるんだって」
リドルは黙ったまま、黒い瞳で杖を見つめ、ゆっくりと拳を握りしめた。
「振り方と呪文は?」
「覚えた」
「それじゃ──トム・リドルくんの初めての実技魔法だ」
フィンレイは、窓が割れたり紅茶が爆発することを見越してリドルから一歩離れる。リドルはじっと杖を見つめていたが、握り閉めていた指をかすかに解くと、何度も行った事があるように、自然に前に突き出す。
「アロホモラ」
カチ、とかすかな音がして、鍵が開いた。
リドルは魔法を放った瞬間、胸の奥に言い表すことの出来ない満足感と、充実感が溢れていた。──心臓が跳ねた。初めて、自分の声と意思だけで、世界の何かが動いたのだ。掌が、かすかに熱い。
「わ、一発で?君、本当は純血魔法一族の隠し子なんじゃない?」
「……普通は出来ないのか?」
「普通はね。でも君は僕と同じ異常者だから」
それは暗に、フィンレイ自身も一度で成功させたと言っているようなものだった。
リドルはこれが本当に稀有なことなのか、それともフィンレイのジョークなのか他に比べる者がいないためわからず、喜びの中に微妙な硬 固さを残し口先を緩めた。
「他には?」
「せっかちだなぁ。じゃあ──」
他にも魔法を知りたい。その欲を隠しきれないリドルの隣に並び、フィンレイは本を覗き込み頁を捲った。
「これかな。ルーモス、杖先を光らせる。──それで、ノックス、光を消す。魔法界でも使用頻度高め」
「……ルーモス」
リドルは先ほどと同じように本を良く読み、フィンレイの指の動きに合わせて杖先を上げた。杖先はぽっと白い光を放ち、その光を受けたリドルの黒い目が輝いた。
「……ノックス」
光の残滓を残したまま、灯っていたものが消える。思ったよりも簡単に使えることに、リドルは呆気なさを感じながらも、満更ではないのか顎を少し上げ表情を緩めながら杖を回した。
フィンレイはその表情を見て、胸の奥で小さく笑った。
──魔法を初めて覚えた少年の顔は、いつも同じ光を持つ。
けれどこの少年は、その光を絶対に誰にも奪われない場所に隠し持つだろう。そう確信する強さがあった。
「次は何だ?」
リドルの問いに、フィンレイは口角を上げた。
小一時間が経過し、リドルは一度長く息を吐いた。あれからリドルは浮遊魔法や引き寄せ魔法、初歩的な変化魔法をフィンレイから教わった。一度で成功しない魔法も、数回繰り返すだけで精度が上がりすぐに習得することができていた。
フィンレイはリドルを軽く「流石じゃん」とは言ったものの、大袈裟に褒め立てることはしなかった。その態度の裏には、呆れ混じりの感嘆と、自身が凡人ではないが故の鈍感さがあった。心の奥で思う──多分、この速度は常軌を逸している、と。それでも、リドルの目の輝きに水を差したくない気持ちが勝った。
フィンレイは机の上に古い魔法書を広げた。リドルは杖を握りしめ、その頁を覗き込む。
「じゃあ次は少しだけ難しい魔法を試してみようか」
フィンレイは口元を緩めながら、本の頁を指先で叩いた。心の内では冷静に次の段階を測る。──ここでトムは何を見せるか。抑え込めるのか、暴発するのか。
「デパルソ。撃退魔法。対象を弾き飛ばす魔法だよ」
撃退。──その言葉に、リドルの指が僅かに強張る。彼にとって「撃退」という響きは懐かしい。孤児院では、他人からの理不尽を力で押し返すことが日常だったからだ。しかし、今は違う。この魔法は、ただの暴力ではない。意志と論理、そして魔力を介して成される「技術」なのだ。
そのことが、ほんの少しだけ、胸を満たした。
「荷物を遠くへ飛ばしたいとき、危険なものを遠ざけたいときに便利だ。でも、威力の調節ができないと、思ったより強く飛ばしてしまうから注意」
「問題ない」
リドルが短く応じた声には、わずかな昂ぶりが混じっていた。
心臓が静かに跳ねる音が耳の奥で響いた。先ほど読んだ論理を頭の中に巡らせ、杖の振り方をイメージする。
フィンレイは机の中央に白い羽根ペンを置き、「じゃあ、この羽根ペンを机の端まで飛ばしてみて、少しずつ重いものに変えていこうか」と伝えた。
「構えはこう、振り方は手前から奥にカーブをつけて押し出す感じで──」
「わかっている」
杖を握り直す。
リドルは息を吸い込み、目を細めて羽根ペンを見据える。
「デパルソ」
杖先から白い光線が放たれた。羽根ペンが勢いよく宙へと飛び上がる。だが、その軌道はほんのわずかにずれていた。
「──あ」
フィンレイが声を上げる間もなく、羽根ペンは弾かれたように飛び、フィンレイの腕に鋭く当たった。
羽根の根本についていた金属部分が、肌を裂く音を立てる。
ぱた、と羽根ペンが床に落ちた音が嫌に響いた。
薄い線がフィンレイの腕に刻まれ、次の瞬間にはぷっくりと膨れ赤い血が溢れ出した。つう、と白い腕に雨垂れのような線が流れ、紅茶の香りに混じって、鉄の匂いが漂う。
「……あーあ、本に血がついちゃった」
フィンレイは最初にそれだけを言った。
自分の腕よりも、机の上の魔法書の頁を気にしている。
腕から手首、人差し指へと続く赤い線はそのまま玉になり、床に落ちた。
リドルは立ち尽くしたまま、その赤を見つめていた。孤児院で子どもを怪我させたときは、なんとも思わなかったのに。
今、目の前で血を流しているのがフィンレイであることが、何故か胸の奥をざわつかせた。
フィンレイはリドルの手からするりと杖を抜き取ると、「テルジオ」と唱え、頁についた血を拭った。床にも垂れていることに気づき、初めて腕を曲げこれ以上血が何かを汚さないようにした。
床の血を魔法で拭ってから、フィンレイは机の上にあった羊皮紙で傷口を押さえ、雑すぎる手つきで拭うとくしゃくしゃと丸めて捨てた。
その時、リドルが自分の腕から変わらず滲む血を凝視している事に気付いた。その表情は苦虫を噛み潰したようで微かに目に焦りの色が見えた。
「……変な顔」
フィンレイの声が、優しくも軽やかに響く。
リドルは何も返さなかった。拳は固く握りしめたままだった。怒りでも恐れでもない、もっと別の、説明しがたい感情が手のひらを熱くしていた。
フィンレイは机の引き出しを開け、ガラス瓶を取り出した。瓶の中で薄い茶色の液体が揺れる。
「これ、ハナハッカエキス。魔法界ではとってもポピュラーな薬。次点でウィゲンウェルド薬。ハナハッカエキスは切り傷に、ウィゲンウェルド薬は内部損傷にってね」
フィンレイは瓶の口を開けると、傷口に数滴垂らした。ハーブの香りがふわりと漂う。傷口からはしゅうしゅうと音がたち、小さく泡立っていた。
「……先に拭くのは血じゃないのか」
リドルは低くつぶやいた。
完璧に血の跡が残っていない頁と床に比べて、傷口の扱われ方はいっそぞんざいなほどだった。
「本や床は僕と違って繊細なんだ」
フィンレイは笑いながら言った。その笑顔を見ていると、なぜか腹の奥がむず痒くなる。
リドルは知らず知らずのうちに手を握りしめていた。熱がこもり、掌がじんわりと湿る。
「そんな顔しないでよ。僕だってね、腕がちぎれたらさすがに笑ってられないけど、これくらいは紅茶を飲む前の小運動みたいなものだから」
「……」
「よくあるんだよ、指が吹き飛んだり、眉毛がなくなったり、骨がどこか行方不明になったり」
「……骨が?」
「うん、魔法界じゃ身体がばらばらになるのは年中行事だよ。驚くほど人って死なないんだ、困ったことに」
フィンレイは茶色の液体を傷口に垂らしながら、肩を竦めて笑う。
「……変な世界だな」
「その変な世界に、君ももう片足突っ込んでるけどね?あ、どっぷりの間違いかな?」
ハナハッカの香りが立ち上り、しゅうしゅうと泡立つ音が小さく響く。フィンレイはその音に耳を傾けながら目だけで笑った。
「でもまあ、本気で僕の腕をちぎったら、その時はちゃんと怒るから」
「……」
「その時は君に説教する側に回るから覚悟しておいて?」
リドルは、フィンレイの言葉の奥に潜む微かな「気遣い」に気づいた。
──ああ、そうか。
ようやく理解した。自分は今、怒られていないのだ。咎められてもおかしくない失敗をして、それでも責められていない。この世界には、そんな理不尽とは無縁の空間が存在するのだと、初めて知った。
気づかぬうちに呼吸が深くなる。胸にこびりついていた何かが、薄皮一枚剥がれたような気がした。
「それにね、魔法の練習で失敗するのは当たり前なんだ。──ただ、怪我させた相手を前にして、そんな顔をするとは思わなかった」
「……どんな顔だ」
掠れた声にフィンレイは目を細め、頬を緩めた。
「うん、いい顔だよ。──友達らしい顔だ」
「……茶番だ」
「そう。茶番は大事だよ。イギリス人は紅茶を飲む理由が欲しくて茶番をやるんだから」
そう言って瓶の蓋を閉めると、くるりとリドルに向き合った。
「さて、そろそろ次に行こうか?」
問いかけられたリドルは、わずかに目を伏せてから顎を上げた。
「次は、何を教える」
フィンレイは唇を歪め、柔らかく笑った。
「さてね。君が望むなら、何でも教えてあげる。──『友達』料金で、特別にね」
窓の外を春の風が通り抜け、ハナハッカと鉄の匂いをさらっていく。頁が一枚めくれ、また戻る。その音が、小さな呼吸のように室内に響いた。
そのとき、張り詰めていたものがほどけ、空気が少しだけ温くなった。
それからいくつかの魔法を試したリドルは、体に微かな倦怠感で重い事に気付く。手のひらにはいつのまにかじわりと汗が滲んでいた。長く走ったあとのような気怠さに少し休憩しよう、と本を閉じた。
フィンレイを見てみれば、彼は本棚の前で胡座をかいて本を眺めていた。フィンレイはこうして本を読んでいる時に邪魔をされる事を一番嫌う。それがわかっているリドルは声をかける事なく近くの椅子に座り、ふう、と一息ついた。
その微かな音にフィンレイは顔を上げると、「休憩する?」と首を傾げて聞く。リドルは意外に思いながら頷いてみれば、フィンレイはあっさりと本を閉じ立ち上がった。
「ん」と手を出され、リドルは自分の手に馴染み始めていた杖を──名残惜しく思いながら──返した。フィンレイはくるり、とひと回しすると呪文を呟き空になったポットに水を入れ沸騰させる。
フィンレイは窓を開け、外から心地よい風を呼び込んだ。部屋にふわりと紅茶のいい匂いが広がり、フィンレイは外を見て目を細め、靡く髪を押さえた。
「……お前は、誰から学んだんだ?」
ふと、リドルが聞いた。
この屋敷に大人はいない。にもかかわらず、フィンレイの魔法知識は確かで、多岐にわたっている。リドルはそれを、決して凡庸な学習では得られないものだと感じていた。
フィンレイは、ふと顔を上げると、紅茶を一口飲みながら唇の端を緩めた。
「僕には特別な先生がいてね」
「先生?」
リドルも受け取った紅茶を飲み目を細めた。魔法界の教師像もまだ──フィンレイしかしらない──多くを持たない彼にとって、『先生』という響きは未知のものでしかない。
フィンレイは企み顔で一気に紅茶を飲み干すと、指先を軽く弾き、椅子を蹴って立ち上がった。
「言葉より百聞は一見に如かず、だよ。君に僕の先生を紹介しよう」
「……誰なんだ?」
「ふふ、まあ見ればわかるさ。準備はいい?」
「……どうせ止めても無駄だろう」
「そうとも!」
満面の笑みを浮かべたフィンレイが軽やかに扉に向かう。リドルはまだ殆ど残っている紅茶を机に置くと渋々立ち上がり、その後ろについていく。
案内されたのは、廊下の奥──『勉強部屋』と古びたプレートが掛けられた扉の前だった。扉は木製で無骨、しかし魔法の光沢を帯びて静かに輝いていた。
「さ、いくよ」
フィンレイが取手を回し、扉を押し開ける。軋む音が鳴った次の瞬間、リドルの足が止まった。
部屋の壁一面に、びっしりと肖像画が並んでいたのだ。
堂々たる魔法使いの肖像、鼻の尖った老婆、恐ろしく厳格そうな軍人風の男、優美な女性、奇抜な帽子をかぶった若者──一つ一つの額縁の中に、異なる時代の魔法使いたちの姿があった。
扉が開かれ光が差した瞬間、肖像画たちの目が一斉に動く。数十の視線が一斉にリドルを射抜き、重い圧が肩に乗る。場の空気がじわりと張り詰めた。彼らがただの絵でないことを、本能で察していた。
「……ここに閉じ込める罰でも受けさせるのか?」
「違う違う、歓迎だよ!」
フィンレイは腕を広げ、やけに陽気に部屋の中央へ歩み出る。
「ようこそ、僕の知識と精神を日々こね回してくれる、最狂の教師陣営へ!」
「……教師?」
「そう。この狂った英傑たちが、僕の先生たちさ。──やあ、みんな、自己紹介して」
フィンレイが両手を広げ、肖像画へ呼びかけた。その瞬間、空気が色めき立ち、無数の目がフィンレイを一斉に見つめる。今までお行儀良く沈黙を守っていた肖像画たちは、一気に騒ぎ出した。
「呪いは知識によってのみ封じられる、未熟な者こそ学ぶべきなのだ!! さあ、防衛陣形から始めるぞ、構えろ!」
「失礼、彼にはまず礼儀を教えるべきだ! 言葉遣い、姿勢、ティーカップの持ち方、呪文詠唱時の姿勢! 何より、立ち居振る舞いに品格を宿さねば!」
「品格などどうでもいい! 魔法生物と話すにはまず、肝っ玉だ! トロールと握手したことはあるかね? 君も試すといい、鼻の穴を広げて、低くうなるのだ!」
「まったく野蛮ね! あなた、薬草の声を聞いたことある? ないでしょ? 聞いてから言ってちょうだい! マンドレイクは思春期に入ると詩を詠むのよ!」
「詩など無意味! 論理と計算こそ魔法の核だ! 魔法とは再現性である! 規則を解さぬ者に魔法を語る資格なし!」
「うるさいうるさい、数学も薬草も全部詰め込んで国を動かせるのか!? 帝王学こそ全ての礎だろうが!! 小僧、お前、王になりたくないか? この世界は君主を待っている。学べ! 支配せよ! 玉座はすぐそこだ!」
「ふん、つまらぬ王座に興味なし。全てはやはり魔法薬。つまり、知識と正確さと、美しき誤差の許容。君に向いているかもしれない……君のその瞳は、混ぜてはならぬを混ぜてみたくなる色だ」
その喧噪の中、リドルは完全に沈黙していた。目を丸くしたまま、声の洪水に飲み込まれていた。──これは、リドルの想像の範疇を超えていた。
知識への情熱。己の専門性への誇り。あるいは狂信にも似た執念。そんなものが、絵画から溢れ出すとは。
肖像画たちの騒音はいっそ耳が痛いほどだった。リドルは眉を寄せ圧倒されていて、フィンレイは愉快そうに笑い、肖像画たちに一通り好きに喋らせた後、口に人差し指を当てた。
その動作一つで、肖像画たちは一気に口をつぐむ。ぐわんぐわんと部屋の中を反響していた声の洪水が止まり、キーンと高い耳鳴りが遠くから聞こえるほどだ。
フィンレイはただの子どもだが、彼らにとっては最も優先し従うべき、唯一のウィンドルミア家の子だ。『支配』ではない。けれど、肖像画たちはその動作に抗わない。──リドルは、その関係性に奇妙な感覚を得た。
魔法を使わずとも、敬意で場を静める力。それは、彼の人生に存在しなかった種類の関係だ。リドルは、ほんの少しだけ、羨ましいと思った。
「歴代ウィンドルミア家の人達。つまり僕の先祖の方々だよ。ウィンドルミア家の者は、一つの分野に突飛して秀でた知能を持つ者が多くてね。僕に惜しみない知恵を捧げてくれる」
机に腰かけ、脚をぶらつかせながら語るフィンレイの姿は、どこか誇らしげだった。
広い部屋の中にあるのは机と椅子と肖像画を置くためのイーゼルだけがある。机の上には羊皮紙の束が乱雑に置かれ、万年筆が転がっていた。
「この人たちが教えてくれるから、僕は勉強で困る事はないかな」
「……全ての分野の者がいるのか?」
「一応ね。欠点もあるけど」
「欠点?」
フィンレイはニヤリと笑い、ちょいちょいとリドルを指先で呼んだ。リドルは片眉を上げつつフィンレイのそばに寄る。足を組み身を乗り出したフィンレイは、リドルの耳に囁いた。
「情報が更新されない事かな」
「……割と致命的じゃないか、それ」
「三世代くらい離れたらね、さすがに古き良き狂気もただの保管事故扱いさ。肖像画界の老害ってことで倉庫行き」
くすくすと笑い、机から軽い動作で飛び降りる。フィンレイは肖像画たちに向かって手を振った。
「じゃ、みんな、また後でね。あとさ、夜中に詠唱で起こしたら、額縁に『静かに』って貼るからね。二度目は反省室送りだよ」
肖像画たちが一斉に「はーい」と返事をするのが、やけに教育的だった。
リドルはそのやり取りを見ていた。笑いながら部屋を出ていくその背に、ふとした思いがよぎる。
──この屋敷では、狂気が知性を装って踊っている。そして、それを愛している子どもがいる。
それは──自分が求めた『力』とは違うけれど、確かに『強さ』だった。
部屋の扉は、まだ開かれたままだった。廊下の向こうから、淡い午後の光が差し込んでいる。魔力のこもった扉は、その光をやわらかく受け止め、ゆらゆらと影を揺らしていた。
フィンレイは先に部屋に戻ったのかと思いきや、扉の外で立ち止まってこちらを振り返った。
「さ、トム。行くよ」
それは何の強制もない呼びかけだった。けれど、その声には、確かな信頼と、選ぶ余地があることを示す温かさが宿っていた。
リドルは数秒だけ、その背を見つめた。
言葉も、魔法もないその短い時間の中に──彼の中で、何かが音もなく揺れ動いた。
この屋敷には、知識があった。狂気と共にある力があった。だが、同時に──その先にいるフィンレイには、別の何かがある。
孤独の淵から掬い上げるような、あの声の温度。見返りを求めず差し出される掌のことを、リドルは今まで知らなかった。
──知識は、ずっと欲しかった。力も。
それがあれば、馬鹿にされずにすむ。見下されずに済む。誰よりも賢く、誰にも傷つけられない存在になれる。──そう信じてきた。
けれど、フィンレイの背を見つめたとき、自分の中にあったそれが、何か別のものへと形を変えていくのを、はっきりと感じた。
力が欲しい。知識も欲しい。──だけど今は、それを誰かと語りたいと思っている。
そんな気持ちは、これまで一度も、持ったことがなかった。
「……ああ」
静かに頷いて、歩き出す。
廊下に出ると、フィンレイがいつものように笑っていた。リドルの影が、その横に並ぶ。
──知識を得たい。力を手にしたい。
だがその道が、誰かと並んで歩けるものだとしたら。
それはきっと、知らなかった種類の強さだ。
名もないその感情を抱きながら、リドルは黙ってフィンレイの隣に立った。