トム・リドルが唯一友達になった子、口数が多すぎる。 作:八重歯
屋敷の図書館からの帰り道。
リドルの腕には分厚い本が何冊も積まれていた。その一番上──革表紙に銀の箔押しがされた本──が、ふいにパタパタと羽ばたき、ふわりと宙に浮かび上がる。
「……おい」
「あーあ、ちゃんと押さえてないからだよ」
フィンレイは、まるで当然のように非難したが、口元はニヤニヤと笑っていた。
フィンレイと過ごすようになって、もう一年が近い。魔法界に慣れてきたリドルは、飛んでいる本を見たことも、本に殴られたこともあった。──だが、さっきまで大人しく、「何の魔法もかかっていない本」だと思っていたものが、突然思い出したように動き出すのは初めてだ。
浮かんだ本は、蝶のように羽ばたきながら廊下を飛び去っていく。あれは変身術の本だ──フィンレイが「本に変身した蝶だったのかも」などと戯言を吐くのを背後で聞きながら、リドルは舌打ちして追いかけた。
指先が本を掠め、あと少しで掴めそうになるたび、本はふわっと身を翻し、まるで挑発するように逃げる。
「ほらほら! 左! ──いや右だ!」
「黙れ」
「あー惜しい! あと少し!」
背後から飛んでくるヤジが、なぜか余計に苛立たしい。まさに本に踊らされていたリドルは、額に青筋を立て腕に抱えていた別の本を一冊掴み、勢いをつけて投げつけた。
──ゴンッ!
それは見事に命中した。
「お」とフィンレイが声を漏らし、楽しげに口笛を吹く。仮にも客人が屋敷の本をぞんざいに扱ったというのに、彼は全く気にしない。
「きみはチェイサーのセンスがあるね! ただしチームプレイは──できそうに──?」
続くはずだった言葉は飲み込まれた。ぶつかった二冊の本は、美しい弧を描いたまま天井の巨大なシャンデリアに直撃したのだ。
シャンデリアが揺れ、『ガシャン、ガシャン』と騒がしい音を立てる。やがて天井から星屑のような光の粒が降り注いだ。
「……やったな」
「やったのはトムでしょ」
リドルはフィンレイの悪戯かと思ったようだが、それは濡れ衣である。
幻想的な光の粒は、壁際に飾られた豆の絵画へと降り注ぐ。──次の瞬間、絵の中の豆がぐわっと膨らんだ。額縁いっぱいに詰まり切ったかと思えば、まるで袋が破れたように弾け飛び、巨大なポップコーンが廊下へと雪崩れ出す。
奥から奥から際限なく豆が飛び出し、空中で「パパパパーン!!」と弾けた。銃撃戦のような音に、リドルは顔をしかめ耳を押さえる。一方フィンレイは面白がり、顔ほどもあるポップコーンを両手で抱えてがぶりと噛みついた。
「美味しい! けど、何か味をつけたいな」
フィンレイが呑気な感想を言っている内に、ポップコーンが廊下を埋め尽くしていく。靴底から熱がじんわりと伝わり、リドルはまた舌打ちした。
その時、はじけた一粒が廊下の隅に立つ甲冑の首元にスポッと落ちた。甲冑がビクリと動き、「侵入者ァァッ!!」と叫び槍をぶん回す。リドルは咄嗟に身をかがめ、首が胴体と別れずに済んだ。フィンレイは齧り跡のついたポップコーンを甲冑の膝裏に投げつけ──ガクリ、と体勢を崩した甲冑が持つ槍の先端が天井の装飾を突き、描かれていたドラゴンの絵はびくりと体を震わせると口を開き──フィンレイはリドルの腕を引いた──炎をはいた。
発射された炎はポップコーンを焦がし、床の絨毯を燃やし、壁際に置かれた背の高い花瓶の中の水を蒸発させた。
水を失った花々がふわりと宙に舞い、蝶の群れのように漂う。そのひとひらが銀製のウサギの置物の鼻先に着地した瞬間──「くしゅん!」と派手なくしゃみとともに、ウサギは小さな銀色の球体を吐き出した。
やがて銀の球は、階段を高い音を響かせながら落ちていく。フィンレイは嬉々としてそれを見に行き、リドルは片眉を器用にあげて後を追った。
カン、カン、と鳴っていた球は、階段の踊り場に飾られている雄々しい獅子の絵画に吸い込まれる。──それは獅子の口にスポッと収まり、獅子はぐっと身を一瞬縮こませた後、「ガオオ!」と吠えた。
それは廊下を震わせるほどの咆哮だった。獅子は大口を開き、その口は──トンネルの入り口のような丸い石造りの穴へと変わっていく。
絵の題名はいつの間にか『WELCOME!』に変わっていた。遠くには微かな灯りが揺れている。
香ばしいポップコーンの匂いと、通路から吹く冷たい空気が混じり合い、何とも言えない空気が漂った。
「……なんだこれは。どこに繋がってる?」
魔法使いの家には隠し通路や隠し部屋がある──そう知っているリドルは呆れ混じりにフィンレイを見たが、彼の頬は赤く染まり、目は輝いていた。どう見ても「未知への興味」そのもので、リドルは、孤児院の夕食までに帰れるだろうかと頭の片隅で考える。
「ここに隠し通路があったなんて知らなかった! さあ、行こう。おいでって誘われてるし」
「地獄への招待じゃないのか」
「まさか! だって僕の家だよ? ──あれ、なら地獄であってるのかも」
リドルはふと足を止め、肩越しに廊下を振り返った。
そこには、まるで悪夢と絵本が混ざったような光景が広がっている。
香ばしい匂いを放ちながら雪崩れるポップコーン、ふわふわと舞い続ける花びら、煙のくすぶる焦げた絨毯、そして天井からゆっくり降り注ぐ光の残滓──すべてがごちゃ混ぜになり、まるで一枚の混沌とした絵画の中に迷い込んだようだ。
「全部の原因は君が本をぶん投げたことだよね」
「原因? 功績って言え」
「じゃあ功績者トム、先頭よろしく。功績に見合う危険を体験してもらおう」
フィンレイはにやりと笑う。
リドルは少しだけためらったが──好奇心の方が勝った。
二人は顔を見合わせ、ほぼ同時に未知の世界へ足を踏み入れた。
「ルーモス」と、慣れた様子でフィンレイが呪文を唱え杖を振った。
口ではリドルに先頭を頼みながらも、フィンレイは何も言わず自分が先頭を歩いている。流石に、屋敷内の未知の領域に踏み込む時に、客人にそれを本気で頼む事はしなかった。──屋敷が自分に、ウィンドルミア家の者に牙を向くことがないとわかっているからだろう。
ふっと柔らかな光が漏れ、丸い石造りの壁に淡く反射する。通路の内側はひんやりとしていて、外の空気が一瞬で遠くなったように思えた。
足音は石に吸い込まれるように静かで、壁には長い年月を経た苔が張り付き、ところどころに水滴が光っている。どこまでも奥へ続く闇の中、前方に小さな白い点が見えた。
それは歩くたびにわずかに大きくなり、光の輪郭がやわらかく広がっていく。出口に近づくにつれ、土と陽の匂いが混ざり合った風が頬を撫でた。
そして、二人はトンネルを抜けた。
──その先にあるのは、広大な外の世界だった。
いや、外というには奇妙だった。
森の中に、遊園地があった。
おかしい、屋敷に居たはずだ。そう思いリドルは思わず空を仰ぐ。晴天の青の中、絵画のように真夏の入道雲が立ち上がっている。──真夏? いや、季節はもうそろそろ冬が近いはず。
あまりにも現実離れしている光景だが、視覚と嗅覚、聴覚までもが『これは現実だ』と告げている。
屋敷から、別の場所に繋がっていたのか? リドルは後ろを振り返り、微かに目を見開く。壮大な風景の中、明らかに場違いなトンネルがぽつん、と黒い口を開けていた。
怪訝に思い近づき、息を呑む。
「外じゃない。──これは、精巧な絵か」
「僕の窓の魔法と同じやつだね」
周りの木々も、真夏の空も、白い雲も。全ては魔法で映されたものに過ぎない。フィンレイのあっさりとした言葉に、リドルは納得した。確かに、フィンレイの窓も季節や時間はその窓の気分で変わると言っていた。外の景色を正確に写す魔法は、自分が知らぬだけで魔法界ではポピュラーなものなのかもしれない。
──ならば、この地面は? その先にある遊園地は?
リドルは足元を見た。地面には色褪せたチケットや紙吹雪が散らばり、その中に混ざって銀や金に輝く欠片が落ちている。だがどれも長い年月を感じさせるほど色褪せ、土に汚れている。これも、ただの映し絵なのだろうか。
リドルは靴先で半分埋まったチラシを擦る。それはロンドンの石畳に落ちているチラシのように、ぐしゃり、と歪み呆気なく破れた。
どうやら落ちているものは存在しているらしい。
リドルが注意深く周りの様子を観察していると、フィンレイは杖先に灯していた明かりを消し──明かりを使わずとも、この場所は十分に明るかった──まるでスキップでもするような気軽さで遊園地に近づいた。
遊園地のアトラクションは、どれも錆びつき、蜘蛛の巣が覆い、くすんでいた。元の色彩はきっと暴力的なまでに色鮮やかで美しかったのだろう。今は分厚い埃が積もっていてどれも白いベールが被せられているようだ。一体何十年このままだったのだろうか。
フィンレイは迷いなく錆びついた入場門へと向かい、片手で押し開ける。その瞬間──
ぱっと遊園地全体に灯りがつき、一陣の風が吹き白くくすんだ世界を一掃した。
アーチの装飾はぎらぎらと輝き、色鮮やかな旗が風に踊り、どこからともなく軽快な音楽が流れ出す。観覧車がゆっくりと回り始め、コーヒーカップは狂ったように回り、メリーゴーラウンドの馬たちは誇らしげに首を振った。
今、全てが目覚めた──あるいは、息を吹き返したかのようだ。
リドルは足を止め、警戒心を隠さず周囲を見回す。
だが、フィンレイは「あぁ」と小さく声を漏らした。驚きというより、思い出したような、何かに納得したような声音だった。
「聞いたことがある。何世代か前の当主が、子どものためにマグル式遊園地をつくったって」
「……」
「どう? 最高でしょ」
「最高の定義を辞書で調べ直したほうがいい」
「ロマンってやつだよ、トム」
「錆びたロマンだな」
フィンレイが一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
まるで彼らの来訪を感知したかのように、全ての視線や気配がフィンレイを射抜いた。
「せっかくだし、遊んでいこうよ!」
「……危険はないのか?」
「え? きみも退屈は嫌いでしょ?」
フィンレイは目を細めてにんまりと笑うと、軽い足取りで一番近くにあるメリーゴーラウンドへ向かった。どの木馬もぴかぴかに輝き、嬉しそうに尻尾を振り堂々と胸を張り、『私の背に乗って!』と言わんばかりの態度だ。
目を輝かせたフィンレイは「どれにしようかなぁ〜」と歌うように言いながら陽気な音楽が流れる中で、目を輝かせながら見て回る。
「木馬かと思ったら、天馬も混ざってるね。あ、これドラゴンだ」
「……ドラゴン?」
ドラゴン、の言葉に興味がそそられたリドルは「ほら」とフィンレイが指差す方を覗き込む。ゴツゴツとしたフォルムに、黒く艶かしい鱗一枚一枚きっちりと作り込まれている赤いドラゴンは、フィンレイに顎を撫でられ黄色い目を細めて喜んでいた。
その隣には鳥のような羽を持つ天馬が優雅に羽を羽ばたかせ、後方では闇に溶けるような蝙蝠羽を持つ不気味な馬がじっとリドルを見ていた。
「これ、セストラルか?」
「そうだよ。トムも魔法生物に詳しくなってきたねー。……よし、僕ドラゴンにしよっと!」
フィンレイはひょいとドラゴンの背に乗った。普通の木馬ならば持ち手があり、座席は滑らかなはずだが、それはただ野生のドラゴンを小型にして台座に乗せているだけのようで、座り心地がいいとは言えなさそうだった。リドルはフィンレイの視線に急かされ、とりあえずすぐそばにあったセストラルの背に乗った。──ぬるりとした感触、生物の皮膚の下にゴツゴツとした骨を感じる手触り、鬱蒼とした森を思わせる獣の匂いに、リドルはこれが生きているのではないかと思ったほどだった。
数秒もすれば、がくん、と台座が揺れ、いっそう軽快な音楽が流れる。
『ようこそ魔法メリーゴーランドへ! ひとときの魔法のような乗馬体験を心ゆくまで楽しんでください!』──とどこからか男性とも女性ともとれない声が降り落ちてくる。フィンレイは頬を高揚させ、手元のドラゴンの背をポンと叩いた。
「出発! しんこーうっ!」
腕を高く掲げた瞬間、台座の下で何かが外れるような音がした。
次の瞬間、地面との距離がすっと開き、重力がふっと消える。胃がわずかに浮き上がり、背中が冷たくなる。
リドルの体はぐんと後ろに引かれ、反射的にセストラルへしがみついた。
「なっ──これ、飛ぶのか!?」
「そりゃ、ドラゴンとセストラルは飛べるからね!──あははっ! 高っ!」
固定されていたはずの台座ごと、二頭は羽ばたき、空へ舞い上がった。風が頬を鋭く切り裂き、眼下の遊園地がぐんぐん小さくなっていく。
その瞬間──フィンレイの乗るドラゴンが、喉奥で低く唸り、真紅の光を帯びた。
「おい、まさか──」
リドルが言い終えるより早く、ドラゴンの口から炎が迸った。
セストラルは闇の影のように身をひらりと反らし、炎は夜空のような翼の端をかすめて消える。
不意打ちを避けた勢いで、セストラルは小さく旋回し、今度はドラゴンの背後に回り込む。風圧でリドルの服がばたばたと暴れ、目に入りそうな髪を何度も払いながら、彼は心の中で毒づいた。
──これ、メリーゴーラウンドじゃなくてジェットコースターだろっ!
ドラゴンは翼を大きく広げ、真下の空気を叩きつけるように急降下した──その拍子に、フィンレイの体が大きく傾き、背からずるりと滑り落ちかける。
「わっ!」
「フィンレイ!」
リドルが声を張り上げる。
フィンレイは鱗の突起に片手を引っかけ、もう片方の手で必死に首の付け根を掴んでいたが、足は宙を泳いでいた。下は地上まで真っ逆さまだ。
次の瞬間、ドラゴンが首をぐいと上げ、体勢を持ち直す。その反動でフィンレイは腹ばいになるように背に戻り、肩で荒く息をついた。
「っはー……落ちるかと思った」
「笑ってる場合か!」
「いや、こういうのが面白いんだって!」
セストラルも追いすがり、すれ違いざまに翼を広げて風をぶつけ返す。フィンレイはまだ呼吸を整えきれないのか、笑いながらも胸が上下していた。
やがて高度が安定し、二頭は並んで空を滑った。眼下には、さっきまで止まっていた遊園地が、まるで魔法で描かれた絵のように煌めいている。観覧車は虹色の光を帯びて回り、コーヒーカップは渦を巻く海のように回転し、メリーゴーラウンドの木馬たちは空を見上げて首を振っていた。
旋回しながら高度を落とし、二頭は元の場所へと戻っていく。着地の瞬間、台座がわずかに跳ね、リドルはセストラルのたてがみを強く握りしめた。
足を地面につけた途端、二人とも軽くよろめく。風に散々揉まれた髪はぐしゃぐしゃで、服はよれてしまった。
しばし見つめ合い──そして、二人は同時に吹き出した。
笑いは、恐怖の反動か、無事帰還できた安堵か、それとも単純にあまりの馬鹿馬鹿しさからか。理由はどれでも構わなかった。
笑いの余韻が消えると、リドルは深く息を吐いた。胸の奥で鼓動がまだ速い。手のひらに残るたてがみの湿った感触が、つい先ほどまでの空中の危うさをありありと思い出させた。
今にも次の拍動が喉まで競り上がってきそうな感覚を抑えながら、リドルは肩で息を整える。
「……二度と乗らない」
「えー? 楽しかったじゃん」
フィンレイは全く疲れた様子もなく、むしろ頬を上気させている。落ちかけた恐怖も、空中戦の危うさも、全部ひっくるめて「面白かった」の一言で済ませられる顔だ。フィンレイの目はすでに次の面白そうなものを探していて、その視線がふいに止まった。
「あれ、何だろ?」
メリーゴーランドの陰、あまり目立たない屋台が一つ。色鮮やかな布地の奥には、山積みになった細長いカゴがあり、その中に木製のおもちゃの杖が無造作に突っ込まれていた。
二人が近づくと──カゴの中から一本の杖が、ぴょんと跳ねるように飛び出した。くるくると宙を舞い、まるでペン先で空間に字をなぞるかのように、白い光で文字を描き始める。
『命中で得点! 外せば反撃! 狙って撃てるか?』
光の文字がきらりと瞬き、消えると同時に杖はリドルの目の前に落ちた。
「……なんだこれ」
「うーん……こうするのかな?」
フィンレイは別の一本を手に取り、軽く握って試しに振ってみた。すると、先端から赤い光の玉が飛び出し、派手な帽子をかぶった的のど真ん中を撃ち抜いた。
的は「ぎゃあ!」と情けない声をあげて帽子を吹き飛ばし、後方からは小さな花火がぱんっと弾けてきらきらした火花が降る。
「おお、当たった!」
「偶然だろ」
「じゃあトムもやってみなよ」
リドルは渋々杖を構え、慎重に狙いを定める。だが振り下ろした光の玉は的の横をかすめ──次の瞬間、的が口をぱかりと開き、冷水の弾を発射してきた。
頬と首筋を直撃する冷たさに、リドルは反射的に身をすくめる。
「ぷっ……っははは!」
「笑うな」
フィンレイは次々と杖を振り、命中させて帽子を飛ばし、尻尾を逆立たせ、花火を打ち上げる。わざと外して水を浴びたり、煙玉で顔を真っ白にしたり、風で髪をぐちゃぐちゃにされても、笑いっぱなしだ。
一方、リドルは的を睨みつけ、今度こそと集中する。光の玉は的に命中し、的はくすぐったそうに左右に揺れ続けた。
ほんの少しだけ、リドルの口元が緩む。
「ふん、こういうのは真剣にやらないとな」
「いや、反撃される方が面白いって」
「お前の面白いは理解できない」
フィンレイは頬を上気させ、リドルは濡れた首筋を拭いながら屋台を後にした。背後では、まだ的たちがぴょんぴょんと跳ねたり、煙を吐いたりしていた。
「次は……あれ!」
フィンレイが指さした先には、淡いパステルカラーのティーカップが円形の台に並び、静かに回っていた。縁に刻まれた金の模様が微かに光を帯び、動くたびにぴかりと光った。
「……嫌な予感しかしない」
「まあまあ、乗ってみよ」
二人が腰を下ろすと、座席がわずかに沈み込み、ゆっくりと回転を始めた。最初は遊園地らしい穏やかな動き──しかし次の瞬間、重力が横に傾き、二人の体は片側の壁に押し付けられる。
「うわっ……!」
「おお、これ面白い!」
重力は気まぐれに向きを変え、次の瞬間ふっと消えた。体が宙に浮き、リドルは反射的に縁を掴む。視界がぐるりと歪み、周囲の景色が一変する。
満天の星空の下、果てしなく広がる海──その表面を巨大なクジラがゆったりと泳いでいく。
次は炎に包まれた砂漠、雷鳴轟く嵐の海、白銀の雪原……。
どうやら速度を上げて回るたびに景色が変わるらしく、フィンレイは歓声を上げながら前にある縁を強く回した。
「ははっ、次はどこだ!」
「勝手に加速するな!」
フィンレイが縁を押すたびに回転は速くなり、重力が変わるたびに体が浮き沈みする。リドルは必死に座席にしがみつき、加速を止めようとするが、魔法の勢いは制御できなかった。
そして──視界が急に広がり、湖畔にそびえる巨大な城が姿を現した。高く伸びた塔、窓からこぼれる黄金の光、空を舞うフクロウたち。
「あれは……なんだ?」
「んー……ああ、多分、ホグワーツ魔法学校だね」
その名を聞き、リドルは目を細める。
──あと少しで、自分もあそこに行くことになるのか。
胸の奥で、何かがゆっくりと熱を帯びていく。
だが感傷に浸る間もなく、再び重力が襲ってきて体が座席に叩きつけられた。最後にもう一度、景色が遊園地へと戻る。
速度が落ち、カップはようやく停止した。
降り立った二人は、髪は乱れ、頬は火照り、視界はまだわずかに揺れていた。
「……お前のせいで倍は回った」
「楽しかったじゃん」
「吐き気がする」
リドルは額の汗を拭いながら、深く息を吐いた。
視界がまだ少し回っている。だが、その残像の中で、湖畔の城──ホグワーツの影が一瞬だけ重なった気がした。
顔を上げると、遠くの空にゆったりと回る大きな輪が見えた。
七色に輝くゴンドラが、日差しを受けて淡く光を放っている。
まるで二人が乗るのを待っているかのように、ゆっくりと、途切れることなく回り続けていた。
「……行ってみるか」
「うん。最後にふさわしいやつだね」
二人は足を揃えて、観覧車へと向かい始めた。
観覧車の前に着くと、無人のはずの乗り場でゴンドラが一つ、音もなくぴたりと目の前に止まった。歓迎するように扉がゆっくりと開く。
中は古びた木の座席と真鍮の手すりがあり、ガラスはうっすらと曇っている。
二人が腰を下ろすと、何も言わずとも扉は閉まり、観覧車は静かに動き出した。
最初は外の景色が見えていた。遊園地全体、さっきまで遊んでいたメリーゴーラウンドや射的屋、ティーカップがどんどん小さくなっていく。
だが高度が上がるにつれ、窓の内側がゆらりと揺らぎ、まるで水面のように波打った。
そこに、映像が浮かび上がる。
最初は白黒の影絵のような映像だったが、徐々に色が混じり、輪郭がはっきりしていく。
──若い男女、子どもたち、老人。見知らぬ人々が笑い合い、談笑し、庭を歩き、書斎で本を読んでいる。
服装や髪型は時代ごとに変わり、まるで古いビデオを時系列順に流しているかのようだ。
「これ、僕の先祖だね」
肖像画で見知った顔をいくつか見つけ、フィンレイがぽつりと呟く。確かに、リドルが見たことがある人もいれば、どこかフィンレイの面影を感じさせる大人もいた。
ウィンドルミア家の人々の姿が次々と現れては消えていく。
リドルは無言で窓を見つめていた。
──そして、映像がふっと切り替わった。
そこに現れたのは、三人の家族だった。ウィンドルミアの美しい園庭にいる。
男は聡明そうな顔立ちをしており、プラチナブロンドの髪と深い緑色の瞳を持っていた。女は黒髪に青い瞳で、穏やかな笑みをたたえている。
そして、その男に抱かれているのは、まだ三歳ほどの小さなフィンレイだった。
男は優しい眼差しで息子を見つめ、女はその小さな頬をそっと撫でる。
映像の中の幼いフィンレイは、無邪気に笑い声をあげていた。
隣から、何も言葉が聞こえない。
リドルは横目でちらりとフィンレイを見る。
フィンレイは、目を見開いたまま窓を凝視していた。
いつもの皮肉も、軽口も、笑顔すらもなく──ただ、じっと、そこにいる三人を見つめている。
観覧車は、ゆっくりと頂上を通り過ぎていく。窓の映像はやがて薄れ、再び遊園地の風景が戻ってきた。
観覧車は静かに地上へ戻り、扉が音もなく開いた。
二人は何も言わずに外へ出る。遊園地の風が、先ほどまでの映像の余韻をそっと吹き流していく。
フィンレイは前を向いたまま、しばらく無言で歩いていた。リドルもそれ以上問いかけず、半歩後ろからその背中を追う。その背中は、いつもよりどこか物悲しそうだった。
やがて、フィンレイがふと振り返った。
「……さ、帰ろっか」
声はいつもより少し低く、けれど笑顔は無理やりではなかった。
リドルは短く頷いた。
──何も聞かない。それが今の正しい選択だと、自然にわかっていた。
二人は並んで歩き出す。遠くで観覧車が、何事もなかったかのように、また静かに回り続けていた。
二人は遊園地のアーチをくぐり、トンネルを通った。
背後で軽い破裂音が響き、景色が水彩画のように滲みはじめる。観覧車も、射的屋も、ティーカップも──すべて色が混ざり合い、淡い光の粒となって散っていった。二人は振り返ってそれを眺めていたが、すぐに止めていた足を進める。
来た時と同じトンネルの先には、見慣れた屋敷の廊下が広がっていた。
廊下は静まり返っていたが、ポップコーンの残骸や、燃えかけたカーペットの痕跡がそのまま残っている。
まるでほんの数分前の出来事に巻き戻されたかのようだった。
フィンレイは廊下を見回し、ふっと笑った。
「……やっぱ、僕の家って最高だな。退屈しない」
その笑みは、さっき観覧車で見た無言の横顔とはまるで別人のようだった。
リドルは小さく鼻で笑い、ため息をつく。
「お前にとっては、な」
フィンレイは軽く肩をすくめ、いたずらっぽく笑った。
「ま、トムももうちょっとでこっち側にハマるよ」
そう言って、また廊下の奥へ歩き出す。
その背中を見ながら、リドルは呆れ半分、ほんの少しだけ興味混じりに後を追った。
***
その日の夜。
屋敷は、昼間の喧騒を嘘のように沈めていた。廊下を満たすのは、時計の針が刻む音と、外の風が窓を揺らすかすかな音だけ。
フィンレイは、二階の奥にある一枚の扉の前に立っていた。
重厚な木の扉は、昼間も夜も、開くことがない。
しばらくじっと扉を見つめていたフィンレイは、何かを決意したように拳を握り、軽くノックをした。
返ってきたのは──無言。
「母さん、僕、久しぶりに……昔の父さんを見たよ」
扉の向こうは静かだった。
その沈黙の中、昼間の観覧車の窓に映った光景がふっと頭をよぎる。
プラチナブロンドの父と、黒髪の母、そしてあの頃の自分。
二人が優しく見つめてくれていた、ほんの数秒間の記憶。
「あの窓は、この屋敷の記憶と繋がってるんだろうね。……母さんの笑ってる顔なんて、いつぶりだろうなぁ」
思い出すのは、父がまだここにいて、母が笑っていた頃の光景。
あの人の深い緑の瞳も、母の青い瞳も──今では記憶の奥でしか揺らめかない。
扉の向こうは、やはり無言だった。
フィンレイは小さく笑い、扉に向かって囁いた。
「母さん、またね」
それだけ言うと、踵を返して自室へと戻っていく。
昼間の魔法的な喧騒は、もうどこにもない。
静まり返った屋敷は、ただひっそりと──けれど確かに、優しくフィンレイを包んでいた。