トム・リドルが唯一友達になった子、口数が多すぎる。   作:八重歯

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08 「そのときはさ、君が僕を片付ける勇者になってくれる?それとも──一緒に世界を台無しにしてみる?」

 

 

 リドルがフィンレイの部屋に通うようになってから一ヶ月が過ぎた。

 フィンレイの部屋だけが、リドルにとって魔法界との繋がりであり、自分は特別だと感じられる。リドルにとって魔法界の知識を得ることは何よりも有意義な時間で、苦ではなかった。

 それに、フィンレイという少年も口を開けば中身と重さのない軽薄でふざけた言葉しか言わないが、本を読んでいる時は別人のように静かだった。

 艶やかなプラチナブロンドが彼の顔に影を作り、長いまつ毛が時々思い出したように閉じては開く。背中を丸めて片膝を立て、腕を乗せ頬を支え、本は床に広げていた。窓の外の景色は真夏の昼間を写し出し、フィンレイの髪は陽の光を浴びて輝いていた。

 リドルは、フィンレイが一時間はこうしたままなのを時々、盗み見ていた。

 

 紅茶の香りが漂い、本をめくる音だけが空間を満たす。

 窓辺でページを繰るフィンレイが、実数時間ぶりに、ふいに顔を上げ眩しそうに窓の外を見た。いつのまにか額に汗が滲み、頬に数本張り付いているのが見える。

 

 リドルとフィンレイの目が合い、咄嗟にリドルの口から言葉が零れた。

 

 

「──そういえば」

 

 

 フィンレイの瞳がわずかに動き、「何?」と視線で問うた。

 

 

「お前がマグルの世界に謎解き文を貼った理由はなんだったんだ?」

 

 

 一拍の静寂のあと、フィンレイは小さく笑った。

 

 

「……なんで今、その話?」

「答えろ。いつもしているのか?」

 

 

 リドルは視線を逸らさずに言った。

 フィンレイは肩を竦め、笑ったまま窓の外を見やった。

 

 

「いつもはしてないよ。あれが、初めてだ」

 

 

 読んでいた本のページに指を挟み、フィンレイは観念したように答える。

 リドルは息を吐き、鼻先で笑った。

 

 

「あの問題は簡単すぎる。金貨一袋の価値はなかったな」

「マグルを知ってる君にとっては、ね。でも魔法族には超難問なんだよ。深夜のイモリ試験くらいにはね」

「……イモリ?」

「NEWTSのことさ。七年生で受ける試験でね。『NEWTS』って響きが格好いいと思ったんだろうけど、結局は『イモリ試験』って呼ばれる羽目になる。皮肉なものだよ」

「……」

「ちなみに五年生で受けるのはO.W.L.s、『フクロウ試験』さ。魔法界の偉い大人たちは、どうやら動物の名前をつけるのが好きらしい」

 

 

 太陽の光を薄い雲が遮る。フィンレイは床に置いてある銀色の盆からティーカップを取り、口をつけ傾けた。「品がいいつもりなのか、単に趣味が悪いのかは知らないけどね」と窓の外で空を飛ぶ鳥を見ながら呟くが、その声は少々よそよそしかった。

 

 

「──で、何故あんなことを?」

 

 

 短い付き合いだが、フィンレイの掴みどころのない性格の一片ほどは理解してきたリドルは、フィンレイの言葉に惑わされず問いかけた。

 その問いに、フィンレイは笑みを収めた。

 窓を見ていたフィンレイは振り返り、ひどく静かな声で、しかし不思議なほど軽やかに告げた。

 

 

「……あの日、僕の誕生日でね。悪趣味な遊びを思いつくには、十分な理由だっただろ?」

 

 

 窓の外で風が鳴り、枝が軋む音が聞こえた。

 リドルはかすかに眼を開く。この煩くあっけらかんとしている男でも、こんな静かな声を出せるのだと、少し意外に思った。

 

 リドルは何も言わなかった。

 

 

この屋敷の中で、フィンレイがどのように暮らしているのかを知っている。

 父が行方不明で、母は滅多に自室から出ることがなく、屋敷は静かすぎるほど静かで、その中で彼がどれだけ笑顔を崩さずに過ごしているのかを。

 

 

 フィンレイはあっけらかんと、なんでもないことのように笑う。

 

 

「ただ、誰かと話したかっただけさ。──だから、あの時、君が来てくれて本当に良かったんだよ」

 

 

 

 窓から差し込む光が、フィンレイの横顔を淡く照らし、境界線を曖昧にしていた。

 リドルはその顔を見つめながら、口元をわずかに引き締める。

 

 

「そういや、トム」

 

 

 フィンレイが声を上げ、また笑顔を戻す。

 

 

「君の誕生日って、いつ?」

「……十二月三十一日」

「え、もうすぐじゃん!」

 

 

 

 唐突な声に、窓の外で羽音がした。

 楽しげなフィンレイの笑顔の裏に、何かが透けて見えた気がして、リドルは視線を落とした。

 

 

***

 

 

 

 十二月三十一日。ロンドンではクリスマスの残り香が漂い、年末という意識は薄い。彼らにとって年末年始は、気がついたら来るもので、メインはクリスマスだった。

 十二月三十一日。年が変わる一日前、リドルは孤児院の自室にいた。扉の前に立ち、睨むように見ている。誕生日の事を聞かれたのは一ヶ月前で、あれから彼はその話題について触れることはなかった。昨日もいつもと同じように昼過ぎに部屋に行った時も特に変わりなく、本を読んで終わった。

 

 期待はしていない。ただ、今日この日にフィンレイの部屋へ行く。それがリドルにとってなんとも胸の奥がざわついて仕方がなかったのだ。

 九歳になった。九年ここで暮らした。だが、誕生日おめでとうの言葉は無く、ケーキやプレゼントもない。

 貧困の中の孤児院で、子ども一人一人に心を向けるのが難しいのは仕方のないことだろう。──一応、一ヶ月に一度、その月が誕生日の子どもをまとめてささやかに祝う会はあれど、とってつけたような全体に向けての『誕生日おめでとう』の言葉は、偽善の塊でしかなかった。

 その日が誕生日ではないにもかかわらず、『誕生日』おめでとう。──何もめでたくはない。子どもたちを祝っている、その事実に大人たちが酔いたいだけなのだと、リドルは冷たい心で考えていた。

 

 

 だから、別に、なんてことはない。今日、フィンレイのところに行くことに意味なんて無い。

 

 

 自分の中でそう結論づけたリドルは、表情を切り替え小さな鍵を鍵穴に挿して、ドアノブを回した。

 

 

──その瞬間。

 

 

 パァン! という破裂音が鳴り響く。リドルはドアノブを掴み体を半分部屋に入れたまま固まった。小さな紙吹雪や蛇や鶏、クッキー、雨玉が宙を舞い、きらきらと光の粒が花火のように散って落ちてくる。

 

 フィンレイの部屋は、見たことのないほど明るかった。風船が浮かび、魔法のガーランドが天井を渡り、色とりどりの光が壁に映って揺れる。

 

 テーブルの中央には小さなケーキが置かれており、その上でろうそくが燃えている。

 

 

「誕生日おめでとう、トム!」

 

 

 フィンレイは、いつぞやも見た、巨大なクラッカーの筒を手に笑っていた。

 

 

 リドルはその場で立ち尽くす。

 ケーキの甘い香りが部屋を満たし、淡い光の粒がまだ空中を漂っていた。

 フィンレイはテーブルの向こうから歩み寄り、ケーキを指差した。

 

 

「さあ、座って。今日くらいは、君が主役だよ」

 

 

 その声が、どこまでも柔らかく、リドルの胸の奥で小さな痛みを残す。リドルは一度だって、九年間共に暮らした相手からそれをもらった事がなかった。──もらえなかった。

しかし、たった二ヶ月余り。互いのことを深く知っているわけでも無い。心を許してなんかいない。そんな、フィンレイの言葉が、笑顔が、胸の奥にある何かをそっと撫でた。

 

 

「……馬鹿か」

 

 吐き捨てるように言いながらも、リドルの目はケーキから離れなかった。

 

 次の瞬間、頭頂にずしりと奇妙な重みを感じる。咄嗟に手で払いのけると、小さな茶色の鶏が「こけっ!」と不満げに鳴き、ばたついた翼でひと呼吸ほど浮かび上がると、近くの本の山に着地した。──まさか、あのひよこが昇進したのだろうか。

 

 フィンレイはそれを見て喉の奥でくつくつと楽しげに笑うと、得意げにとんがり帽子を掲げる。帽子の先端には赤いぼんぼんが付いており、そのぼんぼんには目があり、興味津々とばかりに部屋の中をぎょろぎょろと見回していた。「はい、主役専用だよ」と言いながら、色違いの帽子をリドルに押しつける。

 

 

「知ってる?一年のうち三百六十四日は僕が主役なんだ。でも今日は特別に、一日だけ君に譲ってあげる。僕、寛大だからね」

「お前が主役の世界なんて、ろくな終わり方をしないだろうな」

 

 

 リドルはぼそりと返すが、手は帽子を掴み、拒むことはしなかった。

 

 

「そのときはさ、君が僕を片付ける勇者になってくれる?それとも──一緒に世界を台無しにしてみる?」

 

 

 

 フィンレイは片眉を上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言った。その笑顔は冗談のようでいて、どこか本気にも見えた。

 リドルは息を吐き、小さく視線を落とした。

 

 生まれて初めて、自分のために用意されたケーキが目の前にある。それは美しいチョコレートケーキだった。見たこともない果物が乗り、周りに星が浮遊しているところを除けば、美味しそうといえるだろう。

 

 リドルは、とんがり帽子を片手に無表情のまま視線を上げ、満面の笑みを浮かべるフィンレイを見る。──生まれて初めて、誕生日を祝う誰かが目の前で笑っている。

 

 手がかすかに震えるのを感じながら、誤魔化すために帽子を床に置き、用意されていた椅子に座った。

 

 フィンレイが手を叩き、笑う。

 

 口ずさむのは、大勢のためではない、たった一人のためのバースデーソング。

 聞き馴染みのあるものだ、誕生日を祝う歌は、魔法界でもマグル界でも、同じなのか。──そう、リドルは明るい炎を目に映しながら思う。

 

 

「──さあ、ろうそく、吹き消して!」

 

 

 炎は小さく揺れていた。

 その光を見つめ、リドルは息を吸う。

 

 静かに吹き消すと、炎は煙を残し、消えた。

 部屋の光はなお揺れていたが、その瞬間だけは静寂が落ちた。

 

 

「おめでとう。──願い事、した?」

 

 

 フィンレイの声が、遠くから響いたように聞こえた。

 リドルは答えず、小さく目を伏せた。視界に広がるのは、バースデーケーキと、とんがり帽子。誕生日を祝うのは、たった一人の奇妙な魔法使い。

 リドルは答えなかったが、小さく下唇を噛んだ。彼の胸の奥で暖かなものが、雪解けのようにゆっくりと広がっていた。

 

 

 知らない感情だった。

 ──けれど、それは決して悪いものではなかった。

 

 

「さあ、ケーキを切る権利を進呈するよ。誕生日くらい、君にその権力を譲ってあげる」

「……お前も食べるんだろう?」

「一人でこれ全部食べると思ったの?」

「……仕方ないな。皿は?」

「これこれ。あ、それとね、紅茶もいくつか用意したんだ。選ばせてあげるよ」

 

 

フィンレイは皿とフォーク、ケーキナイフをリドルに渡すと、声を弾ませながら机へ駆け寄った。引き出しを漁り、ごそごそとティーバッグを掴み出す。掌の上でひらひらと振りながら、妙に楽しそうに首を傾げた。

 

 

「これは飲むと胃がキリキリするやつで、これは寝ると悪夢が見られるんだよ。素敵だろ?」

 

 

 その無邪気な笑顔に、リドルの口元がふっと緩む。眉がわずかに下がり、冷たかった目に柔らかな光が差した。

 

 

「一番のおすすめはね、飲むと目が星になる紅茶かな」

「……なんだそれ。断る」

 

 

 いつもよりわずかに高い声で吐き捨てると、フィンレイは肩を揺らして笑った。

 

 

「いい声だったよ、今の」

 

 

 その笑顔は冗談めいていて、どこか本気にも見えた。部屋の光が揺れ、ケーキの甘い香りが二人の間を満たしていた。

 

 

 リドルは丁寧で、慎重な手つきでケーキにナイフを入れる。中から銀色の星が弾け、主役を祝うように舞い踊る。リドルはその星がフィンレイの目の前で弾け、フィンレイが眩しそうに眼を擦っているのを見てかすかに口元を柔らかくした。

 取り分けて、ケーキが乗った皿をフィンレイに手渡す。フィンレイはぱっと明るく笑うと「君って、ケーキを切る才能もあるんだね、めちゃくちゃ尖ってる!まるで少し前の君みたいだ」とからかい混じりに言った。

 

 ケーキの味は、甘すぎないチョコケーキ。中からラズベリーのような、ほのかな酸味のある果肉が弾けた。

 フィンレイは美味しいケーキを味わい幸せそうに頬に手を当てた。

 

 

「僕、料理はシェアしない派だったけど。今日から誕生日ケーキはシェアする派にするよ。──あ、そうだ。君に、プレゼントがあるんだ」

 

 

 フィンレイは思い出した。というようにフォークを口に咥えたまま杖を振った。机の上に置いてあった物が引き寄せられ、それはそのままリドルの元へ飛んでいき、リドルはケーキ皿を机に置いて、つい、それを受け取ってしまった。

 それは、シンプルなノートだった。プレゼントらしく銀色のリボンで飾られていたが、そのリボンの先端には蛇の顔がついていて、受け取ったリドルの指をぺろぺろと舐めた。

 プレゼント、という単語が、リドルの中で奇妙に反響した。

 

 

──プレゼント?

 

 

 ケーキは、分け合えば減るが、それでも互いの腹を満たすことができる。フィンレイにとっても、損にはならない。

けれど──プレゼントは、違う。

 それは、自分の手を空にして、相手にだけ残すものだ。与えた側には何も残らない。奪い返すこともできない。

 

 

 だからこそ、重い。

 

 

リドルは指先で蛇のリボンを撫でながら、小さく息を吐いた。

これを受け取ることは、ケーキを口に運ぶこととは訳が違うのだと、胸の奥で静かに思った。

 

 

「……どういうつもりだ」

 

 

 冷たく問いかける声が室内の甘い空気を裂いた。

 

 

「どうって、君、今日誕生日でしょ?だから」

「……それがどうした」

「だから、プレゼント。ノートだよ。そこに書いた言葉は一ヶ月は忘れないんだ。一夜漬けするには最高の友でしょ?」

 

 

 あまりにさらりと言うので、トムは思わず黙り込んだ。視線はノートに釘付けだった。何かの罠ではないか。毒か、暗号か、あるいはまた悪戯か。だがフィンレイは、本当にただの、純粋な好意のように見えた。

 

 

「……見返りは?」

「えっ?」

「お前が何もなしで動くとは思えない。何が欲しいんだ?」

 

 

 その問いに、フィンレイはしばらくぽかんとしてから、ようやく「なーんだ」と呆れたように笑った。

 

 

「じゃあ、うーん……またここに遊びに来てよ。君が来ると、面白いこと起こるし」

 

 

 見返りもなく何かを差し出すなど、馬鹿のすることだとずっと思っていた。誰かが自分に物を与える時は、その裏に必ず何かが潜んでいる。価値を測り、損得を天秤にかけ、見返りを求める。それが人間の本性だと信じていた。

 

──なのに。

 

 フィンレイのその言葉は、まるで何の見返りも期待していないように聞こえた。ただの冗談のようでいて、笑い声の奥に嘘の響きがなかった。

 

 リドルの胸の奥が、かすかに軋んだ。

 

 見返りも、下心もない好意というものが、この世に本当にあるのかもしれないと──そんなことを考えた自分に、ひどく戸惑った。

 

 

 それだけ言って、フィンレイは再びケーキを頬張った。

 

 リドルはノートに視線を落とす。

 黙って表紙を捲ると、一ページ目に小さな手紙が挟まれていた。

 

 

『トムへ。生まれてくれてありがとう。』

 

 

 リドルは息を止めた。

 こんな言葉をもらったことはなかった。誰かが、自分の存在を祝福してくれるということなど。

 

 その沈黙は、リドルとフィンレイにとって気まずいものではなく、ただ甘いケーキの香りがわずかに温かい空気を押し広げ、紙吹雪の欠片が光をまとって漂っていた。

 

 ふと、リドルは小さく目を伏せた。

 

 

 

 

──そしてその夜、リドルは初めて、自分が生まれた意味を考えた。

 

 それが誰かに祝われるためだとしたら、悪くないと、少しだけ思った。

 

 

 

***

 

 

 その日以来、リドルは毎晩そのノートを開いては、視線を逸らす癖がついていた。

 

 『十二月三十一日。今日は、フィンレイが僕の誕生日を祝った。』

 

 それだけの短い文章が、ページの中央に小さく、それでいて奇妙に存在感を放ちながら記されていた。

 最初は何でもなかった。ただの記録のつもりだった。だが翌日も、その翌日も、ページを開くたびにその言葉が浮かび上がる。日記に、脳内に。

 

 ──フィンレイが僕の誕生日を祝った。

 

 消しても、消しても、魔法のインクが再び浮かび上がる。呪いのように、その言葉だけが頁の真ん中に戻ってくるのだ。

 

 最初は「ただの魔法日記だ、仕組みがあるのだろう」と冷静に考えていたが、フィンレイの顔が浮かび、ケーキの香りが思い出されるたび、胸がざわざわと落ち着かなくなる。思わず夜のベッドで枕を握りしめる自分に気づき、リドルは歯噛みした。

 

 ──馬鹿らしい。

 

 そう吐き捨てながらも、翌朝もまた、日記を開いては眉を寄せることを繰り返していた。

 

 

 

 ある日の昼下がり、いつものようにフィンレイの部屋を訪れたリドルは、とうとう堪えきれなくなり声を漏らした。

 

 

「……あの日記、書いた言葉を消すにはどうすればいい?」

 

 

 窓辺で紅茶を淹れていたフィンレイの手がぴたりと止まる。

 振り返ったフィンレイは目を丸くし、それからすぐに口元を緩めて、いつもの悪戯な笑みを浮かべた。

 

 

「え、どんな恥ずかしい言葉書いたの?教えてくれたら、僕も消し方教えてあげるよ」

 

 

 リドルは頬がかすかに熱くなるのを感じ、すぐに顔を背けた。壁の方を見ながら、小さく息を吐く。

 

 

「……絶対言わない!」

「えー、何それ、気になるなあ。あ、もしかして『フィンレイ先生大好き』とか書いちゃったの?」

「黙れ!」

「それとも『今日、フィンレイに一生分のありがとうを言った』とか?」

「二度と言うな!」

 

 

 フィンレイは肩を揺らしながら笑い、ティーポットをテーブルに置くと、紅茶の香りがふわりと二人の間に広がった。

 カップに紅茶を注ぎながら、フィンレイはちらりとリドルを盗み見た。リドルの耳がほんのり赤く染まっているのを見て、唇を噛んで笑い声を堪える。

 

 

「その言葉が消えなくてもいいような大人になってみるってのはどう?」

 

 

 その軽口に、リドルはじろりと睨みつけたが、その目に怒気はなかった。

 フィンレイは笑ったまま、カップを差し出す。小さな湯気が揺れ、リドルはそれを奪うように受け取った。

 

 

「冗談。怒らないでよ。そのページを破って捨てればいいだけ。そしたら書いた言葉は全部消えるよ」

 

 

 いつものように紅茶を飲みながら、フィンレイは軽い調子で言った。

 紅茶の湯気が、フィンレイの睫毛の影を揺らした。リドルはテーブル越しにそれをじっと見つめ、僅かに眼を細めた。

 

 

「……本当に、それだけでいいのか?」

「うん。ただの魔法日記だしね。まあ、消す前に何を書いたか教えてくれてもいいけど?」

「嫌だ」

 

 

 フィンレイはリドルの短く鋭い拒絶を受けても、ただ笑っていた。

 

 

 

 

 

 その夜、孤児院の自室の片隅、灯りも落とした闇の中で、リドルは日記を膝に置いたまま座り込んでいた。

 

 小さな蝋燭の光が揺れ、頁の文字を照らし出す。

 

 『今日は、フィンレイが僕の誕生日を祝った。』

 

 あのページを破れば、この言葉は消える。忘れられる。あのとき、胸がざわつき、顔が熱くなった感覚も、息が詰まったあの瞬間も。──全部。

 

 

 指先が頁を押さえ、ぐっと力が込められる。

 

 ぴり──

 

 紙の繊維が裂ける小さな音が、闇の中でひどく大きく響いた。

 

 破った瞬間、何か大事なものが失われるような気がした。破れ目から冷気が流れ込み、指先が凍えるようで、腕が動かなくなった。

 

 あと少し力を入れれば、この頁は破ける。

 破って、捨ててしまえばいいだけだ。

 この小さな紙切れ一枚を破ることが、なぜこんなにも難しいのか。

 

 リドルの指は、わずかに震えていた。

 破れ目はほんの数ミリ、白く走っただけで、それ以上は進まなかった。何度も息を吸い直すが、腕が動かない。指先が紙を離し、頁がふわりと戻る。

 

 

 

 リドルは俯き、乱れた息を整えながら、頁の言葉を見つめた。

 

 『今日は、フィンレイが僕の誕生日を祝った。』

 

 蝋燭の灯りがその文字を揺らし、影を作る。その影が、笑ったフィンレイの顔のようにも見えて、リドルは眉を寄せた。

 

 破ろうとしたはずなのに。

 忘れようとしたはずなのに。

 

──それなのに。

 

 

「……馬鹿だな」

 

 

 自分に向けて吐き捨てるように呟いた声が、夜の部屋に沈んでいった。

 

 頁は破られずに残り、その言葉は再び紙の中央に浮かんでいた。蝋燭の火が最後に大きく揺れ、ぱち、と小さく音を立てて消える。

 

 闇の中、日記を抱えたまま、リドルは静かに目を閉じた。

 

 

 胸の奥で、まだ温かく灯る炎を抱きながら。

 

 

 

 

 

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