カゲロウブレイク   作:釜揚げ

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結末をどうしようか考えていたら遅くなってしまいました



如月縺ァ繧翫e繝シ縺倥g繝ウ

朝――。

薄いカーテンを透かして入る光に、私は目を細める。

小さなベッドの中、私はまだ夢の続きを引きずっている。

海の中を泳ぐ夢。

波の中で、誰かが遠くから手を振っていた。

「モモ、ずっと見守っているからね」

――そんな声が、確かに聞こえた気がした。

冷たい床に小さな足をつけると、ひやっとして一瞬だけ息を飲む。

けれど、それすら「生きている」という証のようで、私は小さく笑った。

お兄ちゃんの部屋の扉は、今日も少しだけ開いていた。

ドアの隙間から覗くと、机に向かう背中が見える。

長めな黒髪、猫背気味の姿勢、手の動きは止まらず、時折ペンを振り回しては小さなノートに何かを書き込む。

私には遠すぎて読めない文字列。

「カッ、カッ」と机の上でペン先が跳ねる音。

まるで別世界の音楽のようだった。

私はそれを、ただ黙って見つめる。

「お兄ちゃん」

そう呼びかけたくても、声は喉の奥に引っかかったまま出てこない。

呼んでしまったら、彼の世界を壊してしまう気がした。

だけど、本当は――

気づいてほしかった。

小さな私がここにいることを、ただ知っていてほしかった。

台所から母の話し声が聞こえてくる。

受話器を肩に挟みながら忙しなく皿を洗う音、ざばざばと水が流れる音。

その中で「モモ、ちょっと静かにしててね」という言葉だけが、何度も頭の奥で反響する。

母の声は優しいはずなのに、私には鋭い針のように感じられた。

父は新聞を広げ、細かい文字を指で追っている。

たまにページをめくる音が、古い紙の匂いと一緒に部屋を満たす。

私が「おはよう」と声をかけても、「あぁ」とだけ短く返事をするだけ。

ページの奥に、私より大切なものが詰まっているようだった。

家の中に、自分の居場所がないと感じる瞬間が、幼い私にはたくさんあった。

そのたびに小さな胸がぎゅっと痛くなる。

呼吸の仕方すら分からなくなって、短く息を吸って、浅い吐息を繰り返す。

それでも声にならない「私を見てよ」という言葉は、どこにも届かない。

そんなある日、父が言った。

「今度の休みに海へ行こうか」

その一言が、小さな私の世界を一瞬で塗り替えた。

海。

広くて、青くて、遠くて、すべてを飲み込む場所。

きらきらと太陽を反射する水面は、まるで夢の中の宝石のように眩しかった。

私の胸の奥が、期待と不安と喜びで熱くなる。

「パパ、見ててね! モモ、すっごく速く走れるんだよ!」

何度もそう言いながら、砂浜を駆ける。

足裏には温かい砂の感触、ざくざくと小さな貝殻が混じる音。

かかとに当たった砂が跳ねて、太ももにくっつく。

太陽の匂いと潮の匂いが混じり合って、胸がいっぱいになる。

父は、遠くから私を見守っていた。

大きく手を振るたびに、私の視界に笑顔が広がる。

「もっと見て、パパ! ほら、すごいでしょ!」

胸が弾むたび、足元の水しぶきがきらきらと飛ぶ。

一歩一歩進むたびに、まるで世界が私のためにきらめいているように思えた。

声をあげながら何度も振り返ると、父は笑顔で大きく手を振っていた。

その笑顔に、私は確かに「愛されている」と思った。

「もっと、もっと見て!」

私はさらに海へと近づく。

足首を冷たい水が包み、一瞬息を呑む。

けれど、それが楽しくて、もっと先へ、もっと深く――。

振り返ると、父の顔は小さくなっていた。

「パパ、見ててよ!」

叫んだ声が風に攫われる。

その瞬間、背後で大きな波のうねりが音を立てた。

白い水の壁が迫る。

「わっ――」

気づくより早く、波が私の全身を呑み込む。

口の中に塩辛い水が流れ込み、喉が焼けるように痛い。

視界は泡に覆われ、音は低い轟音に変わる。

足元の砂が崩れ、身体が沈む。

「パパ……助けて……」

声は泡になり、天へ逃げる。

苦しい。

暗い。

でも、その奥に甘い陶酔があった。

――見てくれている。

この瞬間、確かに私は父の目の中心にいる。

「モモ――!」

父の声が、遠くで裂けるように響く。

大きな影が水の中に飛び込む気配。

手が伸び、私の手首を強く掴む。

けれど、次の瞬間――父の身体が私を守るように覆いかぶさる。

大きな背中。

震える呼吸。

「大丈夫だ、大丈夫だから……!」

声は泡立ちながら、私の耳に届く。

でも、波は容赦なかった。

次々に押し寄せるうねり。

父の身体がぐらりと揺れ、私の手首を掴む力が弱くなる。

「パパ……!」

見開いた目が、私を見つめたまま、ゆっくりと動きを止める。

恐怖と、安堵と、無念――そのすべてが混ざった瞳。

最後の最後まで、私を見つめ続けてくれていた。

その目に映る「私」は、まさに世界の中心だった。

大きな泡が弾け、父の身体が海の奥に沈む。

腕が離れ、私だけが波の上に浮かぶ。

周囲の景色が歪んで、塩水と涙で滲む。

「パパ……!」

声が震え、喉が裂けそうになる。

それでも、その瞬間、胸の奥には奇妙な充足感が広がっていた。

――見られた。

これ以上ないほど、確かに「私」を見てくれた。

白い光が視界の端に差し込む。

冷たい蛇のような感触が、目の奥へ滑り込む。

「目を奪う」

まだ意味を知らない言葉が、意識の底に焼きつく。

無数の瞳が私を囲み、私を讃える。

恐怖と快感が混ざり、全身が痺れるように震えた。

気づけば、私は砂浜に倒れていた。

周囲に人が集まり、誰かが大声で呼びかけている。

「お父さんが……!」

「早く、救急車を――!」

大人たちのざわめき。

焦燥、悲鳴、そして絶望が入り混じった空気の匂いが、胸に刺さる。

でも、私にはもうそれすら遠い出来事のようだった。

父は、波に攫われたまま二度と戻らなかった。

私の命を救うために、父は海の底へ消えていった。

夜、母は泣き崩れ、兄はただ黙ったまま私を見つめていた。

母のすすり泣く声が壁を伝って震える。

兄の目の奥には、言葉にできないほどの暗い色があった。

けれど、私の胸の奥には、ひどく静かな冷たい湖が広がっていた。

「見てくれた……」

その思いだけが、何度も何度も泡のように浮かんでは弾ける。

夜の布団の中。

母の泣き声は止まらない。

兄が部屋の前で立ち尽くしている気配がする。

「パパ……」

声にならない声を胸の中で繰り返す。

呼吸が浅くなるたび、あの白い光と無数の目がまぶたの裏に蘇る。

あの日の波の音、塩の匂い、父の温かい手、そして最後に見たあの目。

「もっと、もっと見て……」

心の中の願いは、もう止まらなかった。

小さな胸が脈打つたび、その渇きは深く、鋭く、暗くなっていく。

父の死が、私に「視線」という呪いを深く刻み込んだ。

それは幼い私が理解できるほど単純ではなく、けれど確かに甘美な力だった。

「私を見て」

この思いが、これからの私をどれほど壊していくのか――

まだ誰も知らない。

もちろん、私自身さえも。

 

暗転

 

季節は春。

桜の花びらがひらひらと舞い、誰かの髪に、制服の肩に、そっと触れては溶けて消えていく。

中学の入学式、私は校庭の端にある花壇の前で一人、小さなノートを握りしめていた。

ノートの端には、あの日の海の青を思わせるような絵の具の染み。

誰にも言えないけど、その染みは私の中にまだ残る「渇き」と「視線」の証だった。

周囲の女子たちの笑い声、男子の騒ぎ声、保護者の呼びかけ。

そのすべてが私には遠く、夢の中の音のようにぼんやりとしていた。

「もっと、もっと見て」

心の中で、あの海の白い波と父の最後の視線が何度もよみがえる。

「このノートなら、見てもらえるかも……」

小さな希望を抱いて、私は美術部の部室の扉を開けた。

部屋の中には、絵の具と溶剤の独特な匂いが充満していた。

油彩、アクリル、鉛筆デッサン。

壁には先輩たちの作品が所狭しと並び、窓からは柔らかい午後の日差しが射し込んでいる。

光は静かに作品たちを撫で、時折、絵の中の人物が今にも動き出しそうに思えるほど生々しかった。

「ようこそ、美術部へ!」

元気な声が私を迎えた。

その声に驚き、私はノートをぎゅっと抱きしめた。

「す、すみません……」

小さく謝る声に、部長の女の子がにっこり笑った。

「気にしないで! 見せてくれる? そのノート」

差し出された手が、とても遠く、怖かった。

でも、どこかで「見てほしい」と願う自分がいた。

ノートを開くと、部長と周りの先輩たちが一斉に覗き込む。

ページの中には、私が描き続けてきた「誰かに見てほしい私」の欠片たち。

波のように渦巻く髪の少女、瞳の奥に海を閉じ込めた横顔、壊れた人形のように儚いポーズ。

――「視線」を求める私の願いが、筆跡に絡みついていた。

「これ、すごいじゃない!」

「プロみたいだね!」

周囲から溢れる声が、私の耳にじわじわと流れ込んでくる。

身体が熱くなり、足の裏から心臓まで血が駆け巡る。

「見られている」

その感覚に、背骨が痺れるような快感が走った。

けれど、その歓声は甘美であると同時に、どこか冷たかった。

褒め言葉の裏に混ざる小さな嫉妬や、微かな苛立ちの色。

ふと気づけば、部室の片隅でキャンバスを抱える他の子が、私の絵を睨むように見ていた。

気づかないふりをしても、空気の微かな重みが私の背中に張りつく。

「モモちゃん、次の校内展も出すんでしょ?」

「モモの絵、学校のパンフレットの表紙になるって噂だよ!」

――その言葉が、私を嬉しくさせるはずだった。

でも、喜びはすぐに不安に溶けていく。

「嫌われたくない」

「だけど、見られたい」

二つの願いが胸の中でぐちゃぐちゃに絡まり、吐き気のような緊張を生む。

やがて、私の作品が校内展で最優秀賞を獲ると、他の部員の目はますます冷たくなった。

「すごいよねー、モモちゃん」

「私たちじゃ敵わないし」

その言葉は表面的には笑顔を貼り付けているけれど、瞳の奥には鋭い棘が刺さっていた。

放課後の部室に、一人で残ることが増えた。

誰もいない静寂の中、絵筆を持つ手が震える。

「こんなに嫌われるくらいなら、見られない方がいいのかな」

でも、筆を止めようとすると、胸の奥で「もっと」という声が呻く。

あの日、波の中で父が私を見てくれた、あの最後の視線。

あれを超える「視線」を、私はずっと探している。

それはもう単なる承認欲求ではなく、呪いのような渇望。

光を浴びるほどに孤独は深く、誰にも届かない暗闇に自分が落ちていく感覚。

けれど、その暗闇すらも「誰かが見てくれている」錯覚の中で輝いて見える。

中学2年生の冬。

ある日突然、私は部室に行けなくなった。

「モモちゃん、辞めたらしいよ」

「まぁね、あの子、ちょっとういてたもんね」

廊下に残る小さな噂話と、消えた私のロッカーの中の絵の具の匂い。

あの部室に残された私のイーゼルは、もう誰も触れないまま埃をかぶっていった。

「見てもらえる場所」を失った私は、再び「目を奪う」力の渦へと引き戻される。

その力に気づかないふりをしながらも、私の奥底ではずっと「視線」を喰う怪物が息づいていた。

夜、布団の中で目を閉じると、キャンバスの白と、あの日の波の白が溶け合う。

「もっと……もっと……」

声にならない声が、喉の奥で泡のように弾ける。

描き続けた孤独の中、私は確かに「見られる快感」と「拒絶される恐怖」を同時に抱えて生きていた。

それが、私が選んだ「美術部での青春」だった。

 

春の風が頬を撫でる。

桜の花びらは、もう散り際を迎え、アスファルトの隅に集められた白と桃色のかたまりになっていた。

中学を卒業した私は、誰にも気づかれないまま、静かに高校生になった。

新しい制服のリボンは、私にとって仮面のようなもの。

「普通の女の子」になれるはずの衣装。

でも、その布の奥では、「見てほしい」という声がひそひそと息をしている。

クラスの自己紹介。

「如月モモです……えっと……」

言葉が途切れ、周りの視線が一斉に集まる。

冷たい汗が背を滑る。

喉の奥が詰まり、心臓が痛いほど脈打つ。

「もっと、もっと……!」

怖いのに、胸の奥では抑えきれない高揚が渦巻いていた。

その日の帰り道、ふと立ち寄った駅前。

スーツ姿の男が近づいてくる。

「君、今ちょっといい?」

男は名刺を差し出し、私はそれを震える手で受け取った。

「芸能事務所……?」

不安と期待が、溶けきらない飴玉のように胸に残る。

声をかけられた瞬間、全身の血が一気に逆流する。

「やっと、見つけてくれた」

そんな錯覚に、思わず涙が込み上げそうになる。

家に帰ると、母は台所で忙しくしていて、兄は部屋に閉じこもっていた。

「お母さん……」

声をかけようとしたが、彼女は振り返らなかった。

その背中に、小さな破片のような孤独が刺さる。

――誰も見ていない。

だから、私は決めた。

私が、私を証明する

見てもらうためなら、何でもやる。

それが、私に残された唯一の道だと信じていた。

スカウトの翌週、事務所の白い壁の応接室。

テーブルに置かれた紙コップのコーヒーは、苦味よりもぬるい孤独の味がした。

「君には、特別な魅力がある」

「君なら、すぐにトップに立てるよ」

大人たちの口から流れる甘い言葉。

心の奥では「嘘だ」と叫ぶ声があったが、その声はすぐに「もっと見て」という声に押し潰された。

そして、最初のステージ。

照明の熱が肌を刺すように焼きつける。

観客の視線が波のように押し寄せる。

「モモーッ!!」

名前が呼ばれるたび、身体が震え、汗が混じる香水の匂いが立ち上る。

怖い、でも、快感。

ライトの白は、あの波の白と重なる。

喉を締める緊張と、甘い期待が混じり合い、私は息を忘れていた。

初めて歌声を響かせた瞬間、会場の空気が爆ぜた。

声援、歓声、熱狂――全てが私を飲み込み、再び海の中に戻ったような感覚。

「見て……全部、見て……!」

心の奥で叫ぶ声と、ステージ上の「笑顔を作る私」が乖離していく。

脚が震え、マイクが汗で滑りそうになる。

でも、誰も気づかない。

誰も「怖い私」を見ない。

それが、さらに私を追い詰める。

ステージ後、控室で一人きりになる。

ライトの残光が網膜に残り、まだ拍手の波が耳に響く。

「もっと、もっと欲しい」

自分でも気づかないほど小さな声が、唇から漏れる。

その声に、鏡の中の私が薄く笑った。

「楽しい?」。

ただ、鏡の中の私は笑い続ける。

日々のスケジュールは過密になった。

歌番組、雑誌の取材、ファンイベント。

街を歩けば、どこかで視線が私を刺す。

その視線は、時に甘く、時に刃のように冷たい。

家に帰ると、母は疲れた顔で「お疲れ様」とだけ言う。

兄は相変わらず、扉の向こうで無言だった。

「私を、見てる?」

問いかける声は、もう誰にも届かない。

夜、ホテルの部屋で一人ベッドに沈む。

天井の小さな灯りは、舞台のライトの残像に変わる。

枕を濡らすのは、汗か涙かもうわからない。

「私、見てもらえてる?」

無数のファンの声は、父の最後の呼び声にはならなかった。

どれだけ拍手を浴びても、あの海での渇きは癒されない。

舞台袖で吐く癖がついた。

出番前、胃の中がひっくり返るように苦しい。

だけど、それさえも「見られること」の一部だと錯覚していた。

「私を見て」

「もっと」

「全部、私にちょうだい」

視線を奪うためなら、どんな痛みも喜びに変わる。

それが、私の「目を奪う」力の真の姿だった。

けれど、力は制御できない。

私が笑えば、誰かの笑顔が消える。

私が輝けば、誰かの未来が奪われる。

それでも――

「いいよ、全部ちょうだい」

心の奥底で、溶けた飴玉のように甘く腐った声が囁く。

父の瞳に映った「私」を、私は超えたい。

それが、唯一の願いだった。

そして、ある雨の日。

スタジオを出た帰り道、冷たい雨粒が制服に染みる。

赤信号を見上げると、街のネオンが滲んで溶ける。

「私、どこに行くんだろう」

問いかけても、答える声はない。

すれ違う人々の視線は、もう私を見ていない気がした。

家に戻ると、誰もいない。

兄の部屋の扉は閉じられ、母の食卓には冷めたご飯だけ。

「おかえり」

言葉はなく、テーブルに置かれたメモに「仕事で遅くなる」とだけ書かれていた。

一人、薄暗い部屋の鏡に向かう。

「見てよ……」

鏡の中の私は、滲む水彩画のように輪郭を失っていた。

頬を伝う液体が涙なのか、笑いの余韻なのか、それさえわからない。

でも、鏡の奥に確かに揺れていた。

――あの日、海の向こうに消えた父の背中と、割れるほどの白い波の閃光。

「もっと……もっと……私を……」

震える指先が鏡面に触れると、冷たい硝子の膜がまるで深海の水面のようにひんやりとした感触を返す。

私は、これからも注目され続けられるであろうことへの「歓喜」と「恐怖」に押し潰されてしまうかの様な感覚に陥っていた。

「普通」になりたいと思い始めたのもこの頃からだった。

暗転

気付くと自分は街中で、衆目の注目を集めていた

誰もがこちらを見てくる――いや、見ようとしていなくても、全員の視線が突き刺さる。

細いわけでもない歩道だったはずなのに、車道へ溢れ出すほどの群衆がうごめいていた。

通報があったのか、遠くでサイレンが唸りを上げる。それは群れを散らすどころか、むしろ人々をさらに呼び寄せる音に思えた。

 

――それを呼んだのは、私だ。

 

自嘲と嫌悪が脳裏に黒い淵を作る。

私は、生きているだけで人を惹きつけ、期待と好奇、そして悪意までも背負わされる存在だ。

「普通」になりたい――あんなに強く願ったのに、その願いは冷たく踏みつぶされ、「目」は全てを暴き、私を見世物のように晒す。

皮膚を剥がされるような視線に喘ぎながら、人の群れを割り、数人の警官がこちらへにじり寄ってきた。

そのうちの一人が、私の肩に触れた瞬間。

わずかに開いた人の隙間へ、本能的に体が滑り込む。

 

逃げなければ――。

しかし進むほどに、周囲は終わりの見えない暗いトンネルのように細く、冷たく、私を押し潰す。

苦しさで喉が焼け、視界が滲む。

 

必死に伸ばした手に、誰かの指が触れた気がした。

その瞬間、視界が一瞬だけ開け、吹き抜ける大通りの光が私を切り裂いた。

 

誰かが道を開けてくれたのか。

振り返る暇もなく、私はただ走る。

 

背後を振り向くと、人の群れが一つの巨大な肉塊のように蠢き、こちらを目指して押し寄せてくる。

無我夢中で路地裏に飛び込むと、数は減ったが、一人一人がスマートフォンを握り、狂気の光を瞳に宿していた。

 

絡み合うような細い路地を、上も下もわからず進む。

何度も躓き、壁に手をつきながら、心臓が焼けるほど走った。

 

「あっ……!」

 

辿り着いたのは、行き止まり。

逃げ道はどこにもない。

 

胸が潰れそうに痛む。

呼吸は乱れ、体から力が抜ける。

 

そのとき、ポケットの中で携帯が震えた。

震える指で画面を見ると、マネージャーの名が表示されていた。

恐怖と絶望に濁る頭で応答すると、荒れた声が耳を突き刺した。

何を言われているのかまるでわからなかった

「わ、私そんなに普通じゃないんですか! ずっと変装してたのに……ずっと変な目で見られて……! もう、もう嫌です! もう帰りませんから……い、いままでありがとうございましたっ!」

ただ叫ぶようにして、通話を切ったことだけ覚えている。

 

指先が震え、涙が止まらない。

自分が何を言ったのかも理解できず、ただ喉の奥から、言葉にならない声が漏れる。

 

崩れ落ちた先の地面の感触もわからない。

 

せっかく自分で積み上げてきた「普通」になるための全てを捨ててしまった。

 

けれどもそこで団長さんに出会えたのは不幸中の幸いと言えただろう。

 

 

「大丈夫か?」

顔を上げると、真夏の熱気の中、長袖のパーカーに深いフードを被った女が、そこにいた。

恐怖で声が出ない。

目だけが、女を必死に追う。

 

「あ、いや……すまん。脅かすつもりはなかったんだ」

「……へ?」

 

混乱と恐怖が混ざり、間抜けな声が漏れる。

 

女はしゃがみ込み、私と視線を合わせた。

白い肌に、凛とした瞳。

どこか、痛みを知る者の色があった。

 

「さっきの騒ぎ……全部見てた。派手にやったな」

「あ、アレって……」

「歩道でのことだよ。まさか、あそこまでなるとは思わなかったが」

 

この後結局団長さんはメカクシ団のアジトに私を迎え入れてくれた。

あそこでの時間は、私にとって最もかけがえのないものになった。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――しかしそれはいつも、すぐに終わってしまう時間でもあった。




多分2週間弱ぶりです。
文章を書くことの大変さを痛感しました。
こんな調子でマイペースに投稿していきます。
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