『ハンパク運動』というものがあった、らしい。
1969年、大阪万博を翌年に控えた大阪で、その大阪万博に対して否を唱える運動があった、らしい。
大阪万博を推し進める当時の政府、社会への不満。怒り。憤り。それをぶつける運動があった、らしい。
青年、
彼はまだ25歳である。中程度の身長に中程度の体重、どこにでもいそうな、大学生めいた男である。
だが、今、ここに。
彼がいることは異常だった。
「──着いた」
満月が照らす夜。真夜中。
波の音。潮の味。ぐしょ濡れの体。
見上げるものは巨大な柱。木の柱。それは何本も続いていて、その柱の天辺では、ぐるりと弧を描いて、橋桁が連なっている。
そう彼は。
大阪万博、大屋根リングのすぐ下にいる。
狼我はなるべく静かに、波紋を立てないように気を使って、背中の防水カバンを触る。感触的に、何かを落としたりはしていなさそうだ。
カバンの中身は、カラースプレー。派手な活動をするのなら、こいつでどこぞの壁に向かって、それらしいことを書くのがいい。
さて、何を書こうか。
鼻より下は全て水に沈めて、狼我はゆっくり水を掻く。
ここまでどうやって来たのかは、彼自身よく覚えていない。計画を思い立った段階では、搬入のトラックに忍び込んだはずだったのだが、どこかのタイミングで水に落ちて、こんなことになっている。カバンが防水で良かった。
万博の岸部、そのギリギリに設置された金網にまで、狼我はそろそろとたどり着いた。
まだ、監視に見つかってはいない。
……というか、監視がいない。
不思議なこともあるものだ、あるいは万博は警備員を雇えなかったのか。
ひちゃ、と。水音を地面に立てて。
「ふう──」
ゆっくりと、息を吐く。舗装された地面に立つ。
狼我は確かに、大阪万博への不法侵入に成功した。
なら、これからは?
ノープランだ。
そもそも狼我には、ここがどこかも解っていない。とりあえず、あらかじめ印刷しておいたマップを開く。
「日本館は……あっちか」
とりあえず、日本館にでも行ってみよう。
壁に何を書いてやろうか。
政党への批判? それとも税制への怒り?
バンクシーの真似でもしようか、いやそうするには画力が足りない。しかしそれならどうするか。
不満がないってわけじゃない。でも文字に起こすと、途端に矮小化してしまう気がして。狼我はここにきて、自分の頭が整理できていなかった。
整理できていなかった。
だから気づかなかった。
今から横切ろうとする道の少し先から、戦闘の音がしていることに。
聖杯戦争が、既に始まっていることに。
万博聖杯戦争 1日目 夜
「──は?」
基田 狼我が違和感を感じたのは、通路を横切っている最中。何かの破片が、頬に当たったためだった。
小さい欠片だが、それなりの速度だったし、結構痛かった。彼は咄嗟に頬に当たったそれを掴む。左の掌の上のそれは、黄茶色の塊。陶器の破片のように見えた。
おかしいのは、それが真横から飛んできたことだ。
どうして?
その疑問に思い至って、ようやく、狼我は己の左、破片が飛んできた方を向く。
「──はぁ?」
眉を顰めた。だっておかしい。
視界の先、何十メートルか先。
いくつかの人影が、戦っている。
「王の目を欺けると思ったか、
「──」
ハッキリと見える人影は、2つ。
1つは、全身に鎧を纏った男。いや、狼我にはそれが鎧なのかもわからない。とにかくゴテゴテ、ギラギラと、月の光を反射する装飾。それを纏った1人の男。それが、真向かいを向いて叫んでいる。
そしてその真向かいにはやはり男。しかしこちらは全身黒く、シルエットしかわからない。いや、少なくとも、何やら長い棒を持っている。あるいは槍か。
そしてその2つの周囲でも。何やら幾つか、シルエットの塊が飛び交っていた。
「その立ち振る舞い!! 貴様、
「──」
「返答はなしか、無礼者!! ……しかしまあよい、
アサシン。鎧の男は真向かいの黒い男を指してそう言った。その単語には、狼我も聞き覚えがある。
しかしおかしい。ここは、令和の日本のはずだ。暗殺者なんてまさか、まさか。
「──喧しいな、
「カハハハ、ようやっと喋りおった!!」
今度はランサー。アサシンと呼ばれた方が、鎧の男を指して呼ぶ。不思議な話に思えた。槍持ちは黒い男の方に見えたからだ。もしかしたらもう片方も槍を持っているのかもしれないが、狼我には目を凝らしてもよく見えない。
しかし、凝視にも意味はあった。分かったこともある。
先ほどからランサーとアサシンの周りを飛び交うシルエットは、2勢力。片方はランサーの周囲を護るように並ぶ、黄茶色の陶器らしい素材でできた、上半身だけの人形たち。そしてもう片方は、アサシン同様に黒い姿をした、俊敏に駆け回る半透明の影。
いや、だからといって、狼我に理屈が判るわけではない。彼には何も理解できない。
「……なんなんだよ」
そんな吐息が、口から漏れて。
それが不味かった。
「またか!! 初日から騒がしい、
ランサーと呼ばれた方が、唐突にそんな叫びを上げる。一瞬だけだったが、その意識が狼我に向いたような、そんな悪寒を彼は感じた。
そして、実際そうだった。ランサーはアサシンを見据えて動かないが、その周囲に居た人形が一体、狼我の方へ近づいてきている。
まずい。
狼我は板バネが如くその場を駆けた。見えてる騒ぎの反対側へ、急いで、急いで。あれに捕まれば、何が起こるかわからない。いや、少しだけ想像できて、なおさら恐ろしい。
捕まったら、とりあえず死にそうだ。
物陰に転げ込む。そこは大屋根リングへと登るエスカレーターの真下。ベンチと給水器の狭間に身を埋め、息を潜める。
しかし既に遅い。遠くからはカシャリと足音。否、あの人形に脚はなかったのだから、これは鎧の擦れる音か? そんなことを脳裏で一瞬考えて、狼我はすぐに舌を噛む。今はそれどころじゃない。どうすれば逃げられる? 逃げようがない。
ここから走って、逃げ切れるとは思えない。しかしきっとここにも気づかれている。
カシャリ。音が耳障り。
考えにもならない考えが巡る、狼我の脳裏に、ふと。
──素に銀と鉄。礎に石と契約の大公──
そんな言葉が、侵入してきた。
──降り立つ風には壁を。四方の門を開き、各国より出で、万博を巡る大輪は循環せよ──
「……なんだ、これは?」
頭の中に、誰かの声が入ってきた。誰かの言葉が入ってきた。まるで骨伝導イヤホンでも着けたみたいに、はっきりと流れ込んできた。
それだけではない。
何も描かれてはいなかったはずの地面に青白く光が走り、円を描く。
──
──循環するつどに五度。満たされる刻もまた循環す──
「なんだ、なんだ、なんだ!!」
カシャリ、カシャリ、また音が近づく。そうだというのに止まらない。
何が起きているのか、ずっと狼我は解っていない。覚えているのは、ただ命の危機。そして混乱。
──告げる。汝の身は我が下に、我が
──聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ──
「うるさい、黙れ、静かに、静かに、黙れっ……!!」
混乱する脳裏にあってなお、誰かの声だけは克明に。何か、とんでもないことを起こしている。
──未来を此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者──
──されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。されども我は共存する者──
バチリ、右手の甲に痛みが走る。ふと目を落とせば、真っ赤な何か、入れ墨のようなものが刻まれて。
顔を上げればもう既に、青白い光は魔法陣めいた図形を描き終えて。
──汝三大の言霊を纏う七天──
「──大阪・関西万博へ来たれ、天秤の守り手よ──!!」
最後にはとうとう堪えかねて、唇は脳内のそれをなぞっていた。
そんな中でも。
カシャリ、カシャリ、カシャリ。
音が近づく。近づく。近づく。
近づいて、エスカレーターに手を掛けて、覗き込む。黄茶けた陶器の顔が、何もない双眸が、狼我を探して覗き込む。
その顔面へ、一撃。
魔法陣から現れた、ナニカが。
その拳を捩じ込んで、壊してしまった。
「 」
狼我は最早声も出ない。完全なる絶句であった。
魔法陣から現れたそれを、目で追うことしかできなかった。
『事務局から緊急連絡!! 今すぐ万博聖杯戦争を中断してください!! 外部からの立ち入りがありました!! 繰り返し──
追って、そんなアナウンスがかかり始める。
ぞくり、とする感覚は狼我にもある。逃げなければ、とも思う。だがそれよりも。
今目の前にいるコレに。
狼我自身を見下ろすコレに。
目を惹きつけられて、離せない。
「──ハンパクか」
目が、離せないのは。
「懐かしいな」
美しいからか。
醜いからか。
頼もしいからか。
恐ろしいからか。
「お、お前っ、かっ、関係者だなっ、万博の」
少なくとも、最初に狼我に理解できたことは、それだった。
明らかに異常なことだったが、異常が過ぎて、そんなことしか飲み込めなかった。
目の前のそれは未だに狼我を見下ろして、人であるかのように嘆息する。
「べらぼーな怯え方だ、まあ、間違いではないか」
そう、人であるかのように。
だって、目の前のコレは、明らかに、人じゃない。
「だが、そうだな」
コレは。
白い身体。
赤いライン。
黄金の顔。
そして胸元に白い顔。
コレは。
「私は、いちばんのハンパクだ」
コレは、大阪万博だ。
「
まだ、満月が出ている。
白く、眩く、まるで太陽であるかのように。
「監督役の照野 美琴や」
「万博には夜の顔がある」
「どうして俺がマスターに?」
「ここにいるなら、戦うってことでいいんでしょ?」
「君の指示に従おう」
「まずはここで1人、景気づけ!!」
2話 万博聖杯戦争 2025 大阪・関西
「気をつけろ、降ってくるのは月の石だ!!」
【挿絵表示】