愛・地球博。かつて開催された、日本国際博覧会の通称である。
開催されたのは2005年3月25日から9月25日まで。1970年の大阪万博以来の──合間で開催された沖縄海洋博、つくば科学万博、大阪花博を除くのであれば──2回目の万博であった。
テーマとして掲げた言葉は『自然の叡智』。新世紀に突入し環境配慮について真剣に取り組み始めた人類による、自然との共存を目指した万博。
来場者数は、2,204万9,544人。
その中に、狼我もいた。
「……」
バーサーカーの宝具によって、狼我は己の過去、愛・地球博に飲み込まれている。狼我はそれを理解して、しかし声は出なかった。1人だから出す必要もない。
狼我は板張りの床を歩く──そこの名称はグローバル・ループ。愛・地球博長久手会場を囲うように整備された空中回廊。一歩一歩、踏み鳴らすように歩く。
万博会場のはずだが、人の気配はしなかった。風に草がそよぐ音、どこかで鳥の鳴く声。多分季節は初夏なのだろう、空は青く、大気は暖かい。
狼我はかつて、ここにいたはずだ。いたはずだということは理解している。
ただそれは20年前、過ぎ去った2005年の話。最早狼我の記憶には、愛・地球博の断片しか、それも全く細分化された、新聞の切れ端めいた情報しかない。
ユカギルマンモスが展示されていた。
オーストラリアパビリオンには大きなカモノハシがいた。
自分の顔を合成できる映画があった。
スタンプを自作できるワークショップがあった。
全部、失われた昔の話。二度と現実には生まれない風景。愛・地球博はとうに終わって、今ではジブリパークになってしまった。
ざまあない。
「……」
狼我は未だ、グローバル・ループを歩いている。行く宛ては全くない。出口を探すつもりすら、あまりなかった。
ただ、歩いている。体の奥底から記憶の断片が浮かび上がってきて、腹のどこかで詰まったような心地だった。
……ふと、脚を止めた。
道の向こうから、何かが来る。グローバル・ループの上を赤い車が列を成し、ぼてぼてと走っている。
「……トラムか」
道の端に退きながら、狼我は漏らした。
グローバル・トラム。グローバル・ループの上を走っていた乗り物だ。バッテリー駆動による環境配慮、車椅子でも乗車可能なバリアフリー性を売りにしていたが、当時の狼我は知る由もなかった。というより、記憶にもほぼ残っていない。これがトラムだと判別できたのも、後年にガイドブックを読み直していたからだ。
それでも、うすぼんやりと。これに乗ったのだということは、覚えている。
狼我の目の前を、グローバル・トラムは通過していく。トラムの中はすっぽりと無人。誰もいない運転席、第一車両、第二車両。第三──
「──あ」
子どもが、一人いた。
狼我と目が合ったはずだが、子どもは気にもとめなかった。グローバル・トラムは走っていく。
今、目が合った子供。服装をどこかで見たことがある。いや、見たことがある、わけではない。きっと今のは、
「あれが、マスターか」
──真横から、不意にそう声がした。
狼我は咄嗟に見仰ぐ。白い身体、バーサーカーがそこにいる。視界に捉えたその刹那、頭の中で火花が弾けた。
「テメェ──!!」
次のその瞬間には。狼我は無意識に拳を握っていた。向き直ると同時に勢いをつけ、振り被り、打ち込んでいた。
そこに立っているバーサーカーの腹、否、太陽の顔の顔面へ。狼我は怒りに任せて、そこに拳を打ち込んでいた。
がん、と、鈍い音。
顔面が痛みに歪む──狼我の顔面だ。
「っ──!!」
拳を引く。うっすらと血が滲んでいた。
太陽の塔は建造物だ。その表面はコンクリートで出来ている。人間の拳が通るものではない。
「落ち着けマスター」
「っああ!!」
わざとらしく、痛みを誤魔化すように腕を振るった。指を広げてぱたつかせる。
狼我自身、これが八つ当たりであることは理解していた。バーサーカーを殴ったところで、痛むのは己であることも。理解して、しかし止められない。感情の抑えが効かなかった。
「ここはマスター、君の過去だ」
「解ってるんだよ、そんなことは。クソ、なんで、こんなことをした」
「私の黒い太陽を、君に合わせて調整した。……普段の私では、ここまでの指向性は持たせられない。令呪のおかげだ、マスター」
「うるせぇな、どうやったのかは聞いてねえ」
その後、少しの沈黙があった。
狼我の中には憤りが燻っているが、最早相手を殴ることもできない。仕方がないので妥協する。その程度には、頭が冷えた。
狼我はまた、グローバル・ループの真ん中まで歩み出る。それからバーサーカーに振り向いて、顎で道の先を指し示した。
「……歩くぞ、バーサーカー」
「いいだろう」
歩いた。
数分、歩いた。
十数分は歩いたかもしれない。
……多分、この世界では時間は意味を持たない。何分歩こうが、意味はない。
会話もなく、ただ歩いた。狼我が数歩先を先導して、バーサーカーが着いて歩いた。
グローバル・ループを、ほぼ一周して。
「アンタは何がしたいんだ」
思い立って、狼我は誰もいないグローバル・ループ前方に目を据えたまま、後ろへ声を投げた。
「……本当に何がしたいんだ。そういえば、アンタの望みを聞いたことがねえ」
数秒経って。
「聖杯に懸ける望みは、私にはない」
バーサーカーの声が、後ろから返ってくる。
歩みを止めずに、また投げ返す。
「聖杯戦争に喚ばれたのにか?」
「だが願いがないわけではない。私が望むことがあるとすれば、それは人を導くことだ」
「導く?」
「導く、という言葉も適切ではないかもしれないが。私は……岡本太郎という人間が思い描いた、人間のあるべき姿を、1人でも多くの人間に伝えたい」
そんな言葉が耳に届く。何も背負ってはいないが、狼我はどこかに重みを感じて、意味もなく肩を回す。
「……そうか」
「だから、マスター。私は君へ問いたいと思う」
「……」
「君は何に恐怖したのか。何の嘘を吐いたのか。何故、万博を壊したいのか」
……気づけば。狼我は脚を止めていた。意識するでもなく、自然にそうしていた。
「恐怖へ、立ち向かわなければならない。挑むこと、向き合うことを止めてはならない。自らの意思で挑戦し、困難を乗り越え続ける。それが……恐らくは、あるべき人間の姿だ」
狼我は少しだけ、しかし確かに、その場で深呼吸をして。それから、振り向く。
バーサーカーは、そこにいる。真っ直ぐに立っている。堂々と、その脚で立って、狼我のことを見つめている。
「怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ──そう、岡本太郎も言っていた」
その姿を、見つめ返して。
「俺は──
バーサーカーに、そう切り出した。
……切り出した方を間違えた気がして、口を噤む。
数秒沈黙。何をどう話せばいいか、わからない。
何時だってそうだった。この事柄を──万博のことを、深く考えると。まるで思考を塗り潰すように、短絡的な嫌悪で溢れる。
だが今は、そうはならなかった。思考の中に落ち着きが残っている。それはバーサーカーの宝具の影響か、あるいは愛・地球博の風景がそうさせるのか。
頭の中の、感情を掻き分けて、整理する。
整理に、たっぷり5分かけて、それから。
「……愛・地球博には、よく来てたんだ」
おずおずと、話を開始する。
「来ていた記憶は、もうほぼ残っていない。それでも、母さんが年パスを買ってくれて、幼稚園の合間を縫って連れて行ってくれた」
記憶の断片と、聞き齧った過去と。並べて、ラベルを貼って、脳裏の書棚に整理する。整理したそれをなぞる様に、ぽつり、ぽつりと、言葉を紡ぐ。
「色んな国の人と話した。らしい。英語で話して、サインを貰ったんだと」
買い集めたピンバッジ、ビッシリ埋まったサイン帳、歩き疲れて乗ったベビーカー。
今となっては実感のない、2005年の記憶。
「多分、その名残だ……小学生の頃、俺の夢は国連職員だった。勉強だって怠らなかったんだ、俺は」
読みふけった海外旅行のチラシ。英語教室の合宿。連れて行ってもらったインドカレーの出店。
微かに脳裏にこびり着いた、2009年の記憶。
「世界を飛び回って、良いことをしたいと思っていた。正しいことをして、それはきっと楽しいと思っていた。俺の中には、万博が終わっても、万博はあったんだ。万博を信じてた」
付箋だらけの地図帳。職員室でのALTの先生との雑談。パスポート申請の用事。
泥の中から掘り返す、2013年の記憶。
「…………」
連日続いた■■■■■による日本人殺傷のニュース。泣いて■■■■への留学を引き止める母親の顔。棚に押し込んだ■■の表彰状。■■■へのヘイトスピーチ。■■■難民についての報道。惰性で合格した■■大学。海を渡ってきた■■■■■■■。人種差別撤廃のための■■■運動とその過激化。大衆の嫌悪が積もった■■■。マナーのない■■■旅行客。排他的になった日本の世論。いつまでも出られない自分の部屋。戦争。
「…………万博は嘘つきだ」
そう思ったのは、果たして何が切っ掛けだったか。
だが一度そう思い至ってしまえば、もうその考えは離れなかった。
「万博は。これが世界だって提示して、でもそうじゃなかった。これが未来だって公言して、でもそうはならなかった。これが理想だって謳って、でもそうはならないと、本当は皆知っていた」
万博は嘘つきだ、何故ならば。
「この
静かに、言葉を吐き捨てて。
……まだ足りないと、言葉を付け足す。
「俺も、万博になれなかった」
ピシリと。
どこかから、高い音がした。
内省が断ち切られ、狼我は咄嗟に音の方を見る──そこには何もない、ただの青い空だ。しかし。
「オム・ナマ・シヴァヤ!!」
その中空から、唐突に声が響く。よく目を凝らせば、その空間には幾つかのヒビ。そしてパシリと、更にヒビは走り、ついには。
世界が、割れた。空間の向こう側から、顔を覗かせる者がある。
セイバーだ。
「はあ──?」
狼我は息を呑む。
空間が、まるで当然のように割り砕かれて。そこからセイバーと、それを追ってライダー。2人の姿が、愛・地球博に現れたのだ。
「アンタら、一体」
「我が神、シヴァ神の力を借り受ければ、世界の壁の破壊もまた可能。そうだろう、ライダー?」
「まあ、2度目は慣れたしね」
そう言いながら、グローバル・ループに降り立つ2人。それと共に空間の割れ目は自然と修復され、まるで最初からそこにいたかのよう。
しかもセイバーは、落ち着き払ってその裾を払ってから、
「失礼した、続けてくれ」
と、狼我に対して言い添える。
「────聞いていたのか」
「ゴメンねローガくん!! えっと、壁の向こうまで、ちょっと漏れ聞こえてて……」
「だが、良い傾向だ、狼我殿。貴殿は今己自身と向き合っている」
じわり、と。背中が濡れたのを、狼我は感じた。汗だ。全身に力が籠もって、歯軋りする。
「…………勘弁してくれ」
気づけば、目元が震えていた。瞼の間から体液が漏れ出る。きっとみっともない顔をしている。
「バーサーカーだけなら、まだしも。アンタらまで、掘り返しに来た。うんざりだ」
頭が痛い。視界がブレる。心臓の音が耳に煩くて、右腕で強く左胸を押し留めていた。
脳内が染め上げられる──怒の一文字に、染め上げられる。喉の奥から溢れ出す。
「どいつもこいつも、無遠慮だ!! 俺の過去に、立ち入るな──!!」
その怒りと、全く同時のことだった。
愛・地球博会場に、地鳴りが響く。彼らの足下、グローバル・ループが振動する。がごぽ、と、聞き覚えのない音がする。
まさか、と思った。狼我はグローバルループの端に数歩歩み寄り、会場を見回す。
愛・地球博、長久手会場の中央──イベント会場としても使用された巨大なため池、『こいの池』。
そこの水が、抜け出ている。水を湛えていたはずのそこには、最早池はなく、また底もなく。あるものは底無しの大穴。
青かったはずの空は、既に深い赤に変貌していた。
「……これは、何が起きている?」
そう漏れたのは誰の言葉か。狼我もバーサーカーも、セイバーもライダーも。4人は大穴を見下ろして、揃ってぞわりと悪寒を覚えて。
そして。
大穴の中から、蔦が伸びた。
枝。葉。蔓。蔦。幹。根。芽。花。
植物が急速に生え伸びる。底もしれない大穴から、何十、何百、何千、何万。枝葉は伸び、絡み合い、塊を形成し、自らを拡大し。その表面は葉で覆われ、それをまた新たに葉が覆い、蔦が編み上げ、花が咲き、それを囲んで枝葉が縛り。
みるみる、見る間に。
巨大な、1つのオブジェクト。その背の高さは100メートルをゆうに越し、大きな胴体、そして2本の大腕が形を顕にする。
ああ、これは。これも、怒りなんだと、狼我は直感する。
その形を、狼我は既に知っている。
「巨大な────モリゾー?」
モリゾー。愛・地球博マスコットキャラクターの片割れ。その形状を、確かに取っている。
が、しかし。その細部に目を向ければ、繁茂を続ける草木の枝葉。猛烈な成長は蠢きを成し、巨人が如く駆動を始め。
その身を覆う樹木の皮層、即ち樹層、121と4枚。
その身から伸びる樹木の腕、即ち樹腕、2200本。
それは怒り。世界へと向いた怒り。基田狼我の体内に巣食いし激情が、ここに至って形を得た。仰ぎ見るはバーサーカー、ライダー、セイバー、そして狼我本人。
「バーサーカー、あれ何? アタシ、前はあんなの出なかったと思うんだけど!!」
「私ではない。ここはマスターの過去、マスターの精神の中。だからアレも、またマスターだ。……余計なことをしてくれた」
巨躯、揺動。オブジェクトがその身を震わせれば、全身からは樹腕が伸びる。幹と枝葉の塊が猛烈な速度で成長し、何十本ものそれはグローバル・ループの上、狼我へ目掛けて撃ち込まれ──
「っ、マスター!!」
直撃間近のその刹那、バーサーカーが狼我を抱え飛び上がる。追ってセイバー、ライダーも跳躍。
下を見下ろせば、さっきまで立っていたグローバル・ループは、その床板ごと抉り飛ばされていた。まともに食らえば致命傷だ。
少し距離を取って、サーヴァント3騎は着地。狼我を抱えたままのバーサーカーにセイバーが問う。
「どういうことだバーサーカー、あれも狼我殿なのだろう? 今の攻撃は明らかに、そちらの狼我殿を狙っていた」
「それは……」
「……それは、そうだろう」
バーサーカーに担がれて、狼我は既に納得している。心当たりが、今なら見つかる。
基田狼我は、パスポートを持っていない。
外国へ行ったことがない。
外国語は覚えたが、実践したことは数度。
己の目で、直接世界を見たことがない。
結果的に、どれもすることが出来なかった。
それは、正しくない。
嘘。偽り。誤魔化し。取り繕い。基田狼我という人間は、あらゆる不正義を嫌悪する。
ならば狼我は、万博を嫌悪するように──己自身をも、また嫌悪する。
目の前のそれが──狼我が、何より怒りを向けるものがあるとすれば、それは狼我自身に違いない。
正しくないものを、罰するために。
「マスターを守る、協力してほしい。今ここでマスター──この世界の主を失えば、起こるのはビッグクランチだ。我々は一瞬で砕け散る」
バーサーカーは狼我を抱えながら、再度襲い来る樹腕を飛び越えた。更に飛び退いて、セイバー、ライダーと視線を交わす。
対面するは20年かけて膨れ上がった狼我の自罰。
所詮は個人の激情の産物だ、もしこの怪物が外界に滲み出たとすれば、いとも容易く圧壊していることだろう。世界のルールを前にして、個人の感情なぞその程度。
しかし、ここは狼我個人の精神世界。世界の掟は狼我の主観、世界の怒りは狼我の怒り。狼我の感情が、この世界の絶対だ。
──なれども。人が必ずしも自らの怒りを御せないのと同様に、最早自罰は狼我の手を離れた存在となった。
編み上げられた樹木の塊は、無数の樹腕を走らせる。目標は、狼我自身の殺害。
その樹腕に直面し。セイバーはただ一言、こう命名する。
「いわば──樹冠の厄災か!!」
「マスターは逃げろ!!」
「己を苛む自罰の厄災」
「衝動は、制御ができない」
「アタシの、もう1つの宝具!!」
「そっか、ここにあったんだな」
「本当の本当の、根っこにある願い」
19話 この世界のどこでもない場所
「なあんだ、そういうことかあ!!」
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