───
「ねえ」
「うん?」
子供が、目の前にいた。現れた、というべきか。しかしずっと、ここにいたような気もする。
空を仰ぐ。何もない、ただの青い空。
地面を見る。乾燥した土と、すき間に生える草。
深く息を吸う。慣れた、ブルキナファソの臭い。
ベンドレ・ウェドラオゴは、気づいた時にはそこにいた。
「いっしょにいこう」
子供が、手を伸ばす。
ベンドレは少し迷って、少し屈んで、抱き上げた。確かに重みがあった。
目の前には、道が続いている。ブルキナファソの空と、道が、延々とある。
歩き始める。
ブルキナファソ。西アフリカに位置する国である。
どのような国であるか、一言で言い表すのは難しい。サハラ砂漠南に位置する内陸国。多宗教、多民族で構成された2300万人の国民を抱える国家。フランス植民地の歴史を経験し、またそこから独立した共和制国家。国名の意味は『高潔な人々の国』。
だが、それら特徴は、日本国内においては知られていない。日本という国の中で、最も分かりやすくブルキナファソを語るのであれば。
世界最貧国。
しかし、その基準もまた海の外より渡来したもの。
かつてブルキナファソにあったものは、狩猟採集の生活、鉱山と工芸と鉄器、幾つかの部族の同和と対立。十分生活は出来ていた。だから生きられた。この土地には一万年以上の昔から人間が住んでいて、生まれて、死んで、いのちが続いていた。
「ねえ」
「どうした」
「あそこ」
ベンドレは歩き続けている。
抱き上げた子供が何かを指す。そこにはいつの間にか海が広がっていて、西洋由来であろう船舶が並んでいた。
ブルキナファソは、かつてフランスの植民地であった。1888年に最初のフランス人がこの土地を訪れ、10年もしないうちに侵略は完了した。各地にはフランス軍の設備が置かれ、1919年の第一次世界大戦の際には多くの国民が戦線に強制的に駆り出された。
ベンドレは歩き続けている。軍艦が見える海辺の道。遠くから誰かしらの泣き声が聞こえて、聞こえないふりをした。
植民地の生活は苦しい。先住民──即ちブルキナファソの殆どの民は、酷い差別を受けて育った。
課された労役で自給自足は崩壊、しかし税は重く払えなければ罰金。教育の場からは現地言語が排斥され、当然政治に触れることはない。
反乱が起き、鎮圧される。その最中に、常にブルキナファソはあった。
「こほっ」
抱き上げている子供が、小さく咳をする。
「大丈夫か」
「うん」
周囲を見回す。既にもう海辺ではない。そこは町中で、辺りは幾分近代的になっていて、しかし、空気は濁った気がした。
ブルキナファソが独立を勝ち取ったのは、1960年のことだ。その頃は上ボルタ共和国という名前だった。だが、独立に際しても平和はなかった。
初代大統領は事前に決めた政治制度を反故にして自党以外の政党を禁止、数年で追放される。次の大統領はクーデターでやはり追放。更に複数度のクーデターで、政権は幾度となく切り替わった。国名が上ボルタからブルキナファソに改名されたのは1984年。改名を主導した大統領サンカラは、3年後には暗殺されていた。
「こほっ、こほっ」
「……ゆっくりだ。落ち着いて、ゆっくり息をするんだ」
空気の濁りが、酷くなった。大気が砂交じりだ。火薬の臭いがする。煙が視界を覆い始める。ベンドレはその腕に抱いた子供を、無意識に少し強く抱いた。それが無意味だと知りながら。
きっとここでは、歩くしかない。
遠くで銃声がした。
政権も安定しないが、ブルキナファソには別の脅威も台頭している。イスラム武装勢力だ。
始まりは2015年だった。政権崩壊で対テロの体制が崩れたこの年を境に、ブルキナファソに流入したイスラム武装勢力が侵攻、支配地域の拡大を開始する。彼らは民間人をターゲットに断続的なテロを繰り返し、何百万人もの避難民を作り出した。当然、犠牲者も数知れず。
政権交代を繰り返した今もなお、テロリズムの抑制は実現しない。
銃声がする。煙が更に立つ。ベンドレは歩く。子供を抱いて。
──ああ、これは駄目だな。頭の中には諦観があった。
煙の中を抜ける。
軽い。
そう思った。視線を落とす。抱いていたはずの子供が消えている。
やっぱりか。
空になった腕を、しばらく見つめて。嘆息して、ベンドレは顔を上げた。
そこは部屋の中だった。小綺麗な空間。……彼は知っている。ここは、ブルキナファソ大統領府。
どうすれば良いかは解っている。目の前には扉があって、ベンドレはそれを開く。
軍服の男が、こちらを向いて立っている。
「聖杯戦争に参加するんだ」
開口一番、そう告げる。
ベンドレは彼の名前を知らない。政府高官の男とは聞いていたが、それだけだ。
「何故俺を?」
「君には素養があった。そして国家への忠誠が高いことも、仕事ぶりから理解できる」
「しかし、場所は日本でしょう。俺は行ったことがない」
「これから勉強したまえ。日本語も、魔術も、必要なこと全てを」
「命令ですか」
「その通りだ」
政府高官の男はそう、ベンドレに言葉を押し付ける。ベンドレに拒否権はなく、判断の余地すらもない。これは確定事項の通達でしかなかった。
「勝利し、そして聖杯に願え。ブルキナファソの発展を、そして平和を」
「それも命令ですか」
「だが、君も求めているはずだ。……君の娘のためでもある」
何を、と思う。知りもしないものを、都合良く引用する。しかし言葉は噛み殺す。ベンドレにとっては慣れた作業だ。
「お前は託された。ブルキナファソ国民、その全ての願いをだ」
バチン、と。部屋が暗転する。
世界が夜に切り替わったんだ、と、ベンドレは認識して。
既にそこは、大阪万博の会場だった。
コモンズD、ブルキナファソのブース。普段の展示棚を脇に押しのけて作ったスペース。そこに描いた魔法陣。光が迸り、人型が顕れる。
「サーヴァント・ライダー、プリンセス・イェネンガ──よろしくね、マスター!!」
その顔を見て。
ベンドレは呆然と立ち尽くした。立ち尽くしたことを覚えている。
彼女のその顔は。かつて失ったものを、いつか掴めたはずのものを、思い出させた。
「マスター? 聞こえてる? え、合ってるよね、マスターだよね?」
覗き込み、手を振り。そうするライダーのその声に。
その声に、別の声が上乗せされる。
「──聞こえるか、ベンドレ・ウェドラオゴ」
「……聞こえたよ」
目の前にいるのは、既に、ライダーではなかった。
代わりにバーサーカーが、ベンドレを見守るように立っている。
「これは幻覚か」
「そんなところだ。民族の過去を見せる宝具なのだが……そうか、ここまで辿り着くのか」
君の経験のせいだろうか、と。バーサーカーは呟く。ここまでの旅路は見られたのだろうか。そうだとすれば、心を覗かれたようで、気分は良くない。しかし、仕方がないことなのだろう。
「出よう、ベンドレ・ウェドラオゴ。ライダーもさっき目覚めたところだ」
「そうか」
バーサーカーの姿が消える。
きっと、その後を追えば。一歩でも踏み出せば、この夢は覚めるのだ。
その前に。
ベンドレは、床の魔法陣に一度だけ視線を落とした。ライダーのことを思って、それから、さっきまで腕に抱いていたはずの子供を思った。
その晩、彼は運命に出逢っていた。
───
「証拠は揃った、行き先は決まってる」
「その、ジブン、顔恐ろしいで」
「話を聞きに行く。それでいいんだろ」
「僕にも願いがある」
「こっちから会いに来てやったぜ」
「羊羹食べる?」
7話 マスター・基田狼我
「アサシンの真名は──」
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