終のむじなが見た夢に 作:夜琥
1. 終の夢
音が、なかった。
それは完全な無音というわけではない。
世界のどこかで、崩れかけた建物が最後の悲鳴を上げて軋む音や、乾いた風が瓦礫の隙間を通り抜ける、か細い笛のような音がしているのかもしれない。
だが、早柚の耳には届かなかった。
かつてこの港を満たしていた潮騒も、人々の喧騒も、鳥のさえずりも、そのすべてが分厚い忘却の帳の向こうに消え去り、彼女自身の、幽鬼の呻きにも似た浅い呼吸の音だけが、頭蓋の内側で不気味に反響していた。
視界が、白く霞んでいる。
降り積もった埃のせいか、それとも、もう何も見たくないと魂が網膜の焦点を結ぶことを拒絶しているのか。
判然としないままに繰り返す瞬きのたび、まつ毛に絡んだ砂粒がじゃり、と不快な感触を伝えた。
舞い上がった粉塵が、微かに鉄錆びた匂いを運んでくる。血の匂いだ、と感情の死んだ頭の片隅で認識した。
もう随分と嗅ぎ慣れてしまった、絶望という名の香りだった。
ゆっくりと、凍りついた首の関節を動かす。目の前に広がる光景は、かつて「璃月港」と呼ばれていた場所の、巨大な墓標だった。
海と山に抱かれた宝石箱だと、吟遊詩人は歌った。緋色の甍が連なり、金色の装飾がきらめく、壮麗で活気に満ちた港町。
その面影は、今やどこにもない。無慈悲な神の手が天から振り下ろされ、盤上の駒を薙ぎ払ったかのように、すべてが砕け、崩れ、散乱していた。
天を突くほどに見事だった建築物は、見る影もなくその骨組みを晒し、龍や瑞獣の彫刻が施された屋根瓦は、割れた陶器のように瓦礫の山に突き刺さっている。
かつて人々が笑い合い、品物を売り買いした大通りは、巨大な亀裂に飲み込まれ、深い奈落の口を覗かせていた。
海の香りよりも濃く立ち込めるのは、埃と、腐臭と、そして死の匂いだ。それらが混じり合った澱んだ空気が、肺を灼くように痛めつける。
遠い故郷も、きっと同じような有様だろう。モンドを吹き抜けていた自由の風は止み、風車の羽根は無残に折れているだろう。
拙(せつ)の愛した稲妻の、木漏れ日の暖かさも、緋櫻の甘い香りも、今はもう……。
――拙が、そうしてしまったのだから。
「…………ぁ」
ひび割れた唇から、空気の漏れるような、意味をなさない音がこぼれた。
霞む視界の焦点を、意志の力で無理やり合わせる。瓦礫の山に寄りかかるようにして、彼女はいた。
泥と煤に汚れきった金色の髪。陽の光を吸い込んで、見る者の心を明るく照らすようだったその輝きは、今は生命力を根こそぎ奪われ、ただの色の抜けた繊維の束になっていた。
髪に飾られた白いインテイワットの花も、花弁が砕け、茶色く変色している。
いつも強い意志と、時に悪戯っぽい光を宿していたはずの瞳は固く閉じられ、長い睫毛がその下に濃い影を落としていた。
どんな困難にも屈しなかったその表情は、まるで精巧な人形のように、ただ穏やかで、そして空虚だった。
旅の中で少しずつ汚れていった白いドレスは、今は見るも無残に引き裂かれ、乾いて黒ずんだ血が、残酷な模様を描いている。
岩のように固い意志を宿し、幾万の敵を打ち払ってきたその手は、今は力なく投げ出され、その指先は、瓦礫の冷たさに馴染んでしまっていた。
旅人、蛍。
異世界からの来訪者。そして兄を探す旅に出ていた、世界の希望だったはずの、拙の、たった一人のかけがえのない友人。
まるでゼンマイ仕掛けの人形のように、ぎこちなく腕が持ち上がる。震える指先を伸ばし、その投げ出された手に、そっと触れた。
氷のようだった。
いや、違う。氷ならまだ、いつか溶けるという希望がある。
これは、熱という概念そのものが、最初から存在しなかったかのような、絶対的な虚無の冷たさだった。
その絶望的な冷感が、これが悪夢ではないのだと、どうしようもない現実なのだと、早柚の皮膚から神経を伝い、脳の奥深くまでを凍てつかせていく。
「……あ、……ぁぅ……」
喉から、獣が締め上げられたような声が漏れた。
違う。こんなはずじゃ、なかった。
拙は、知っていたはずなのに。物語の筋書きを、世界の行く末を、全部、全部……。
始まりは、モンドだった。
風魔龍の危機。拙の頭の中に流れ込んできた「原作知識」によれば、それは旅人と西風騎士団、そして風神バルバトスが力を合わせることで解決されるはずの、最初の試練。
そこで深まる仲間との絆が、未来の戦いの礎となる。
だが、当時の拙は傲慢だった。知識という万能の力に酔っていた。仲間が傷つく過程など不要だ、と。
拙の知識があれば、もっとスマートに、誰も犠牲にならずに解決できるはずだ、と。
拙は騎士団を出し抜き、単身で風龍廃墟へと忍び込んだ。トワリンを説得する言葉も知っていた。アビスの呪いが彼の本意ではないことも。
「トワリン!」
呼びかけに、龍は一瞬だけ反応した。だが、その瞳に宿る憎悪と苦痛は、「原作」で見たものより遥かに深かった。
拙の介入が早すぎたのだ。彼の苦悩が、まだ仲間たちの歌に癒される段階にまで熟していなかった。
「誰だ!」
潜んでいたアビスの魔術師が、想定外の侵入者に気づく。
放たれた水弾を咄嗟に避けるが、その騒ぎが引き金となった。
苦痛に咆哮したトワリンは、拙の言葉を聞くことなく、ただ憎悪のままに翼を広げ、真っ直ぐにモンド城へと向かった。
結果は、悲劇だった。騎士団の準備が整う前の、あまりにも早い強襲。
城壁は砕かれ、家々は炎に包まれた。そしてその混乱の最中、ファデュイの執行官「淑女」の暗躍をいち早く察知したディルック様が、たった一人で彼女と対峙した。
原作よりも早いタイミング、そして圧倒的に不利な状況で。
遠くで、夜空を焦がす炎の鳥が、氷の嵐に掻き消されるのが見えた。
後になって聞いた。モンドの「夜の英雄」は、その翼を折られ、二度と夜の闇を駆けることはできなくなった、と。
『きみのおかげで、モンドの被害が減ったよ。ありがとう、早柚』
いつか、そう言って笑ってくれるはずだった蛍の顔が、脳裏でぐにゃりと歪んだ。
次は、璃月だった。
モンドでの失敗に、拙は酷く焦っていた。知識は万能ではなかった。使い方を間違えれば、毒にしかならない。
今度こそ、もっと慎重に、もっと完璧に立ち回らなければ。
岩神モラクスの「死」を巡る騒動。ファデュイの公子タルタリヤが、渦の魔神オセルを復活させようと企んでいることも知っていた。彼の狙いは、仙人たちと璃月七星を争わせ、その隙に「神の心」を奪うこと。
拙は、彼の計画の根幹である「禁忌滅却の札」を無力化すれば、すべては解決すると思った。
力で劣る拙でも、忍びの技を使えば札を奪うことくらいはできる、と。
黄金屋での騒動が起きる前夜、拙はタルタリヤの潜伏先へと侵入した。完璧な潜入だったはずだ。
だが、彼は気づいていた。札に仕掛けられた微弱な元素の罠が、拙の接近を彼に告げていた。
「……へえ。面白いネズミが紛れ込んだものだ」
札を奪おうとした瞬間、背後から聞こえた声に、心臓が凍った。振り向いた拙が見たのは、愉悦に歪んだ彼の笑顔。
「君、そのお札が何なのか、分かってて取りに来たんだろう? ただの空き巣じゃあない。……そうか、計画が漏れてるのか。なら、こっちに切り替えよう」
その言葉の意味を、拙が理解したのは翌日のことだった。
タルタリヤは、オセル復活を陽動にした。仙人たちと千岩軍が総出で孤雲閣の封印に神経を尖らせている、その裏側で。
彼は、原作知識を持つ拙すら知らない、全く別のプランを実行した。
璃月港の地下深く。かつてモラクスが討ち滅ぼしたとされる、別の古代魔神『螭』の怨念の残滓。それを、彼は解放したのだ。
それは、津波のような分かりやすい災厄ではなかった。地脈を通じて這い寄る、静かで、しかし抗いようのない呪詛だった。
地面から突き出した黒い結晶が、触れるものすべてを石に変えていく。悲鳴を上げる暇もなく人々が灰色の彫像と化し、美しい港町が内側から、まるで病巣に蝕まれるように崩壊していく。
凝光様が決死の覚悟で投下した群玉閣も、オセルを鎮めるための切り札であり、『螭』の呪詛の前では、焼け石に水だった。
『すごいじゃないか! まるで未来でも見てきたみたいだな!』
いつか、そう言って感心してくれるはずだったパイモンの顔が、石化した人々の絶望の表情と重なって見えた。
そして、故郷の稲妻。
モンドで英雄を失い、璃月で都市を失った。もう後がなかった。ここが拙の故郷だ。誰よりもこの土地を知っている。
終末番としての経験も、人脈もある。今度こそ、今度こそ完璧にやってみせる。
拙は、抵抗軍の「影」となった。幕府軍の配置、兵糧の輸送経路、天領奉行の内部情報。拙の持つ知識は、連敗続きだった抵抗軍にとって、まさに神の啓示だった。
ゴロー様は拙を「勝利の女神」と呼び、心海様は拙に全幅の信頼を寄せた。抵抗軍は勝ち続け、戦線は日に日に幕府の本拠地へと近づいていった。
だが、その「完璧すぎる勝利」が、最悪の疑念を招いた。
幕府軍大将、九条裟羅。彼女は、ただの武人ではなかった。その不自然なまでの情報の漏洩に、彼女は「ありえない」と断じた。
これは、幕府の中枢、それも天領奉行や勘定奉行の動向すら把握できるほどの地位にいる者による、組織的な裏切りだと。
そして、その条件に合致する組織は一つしかなかった。社奉行、神里家。
拙が抵抗軍の勝利に酔いしれていた、ある日の夕暮れ。神里屋敷に戻った拙が見たのは、天領奉行の兵士たちに包囲された、我が家の姿だった。
「社奉行、神里綾人に、反逆の嫌疑あり! 将軍様の御名において、捕縛する!」
トーマが、綾華様を庇って斬り伏せられるのが見えた。若様が、冷静な仮面をかなぐり捨てて、怒りの形相で刀を抜くのが見えた。だが、多勢に無勢だった。
拙のせいだ。拙が、良かれと思って渡した情報が、巡り巡って、拙が何よりも守りたかったはずのこの場所を、この人たちを、地獄の業火で焼き尽くした。
『さすが早柚です。これからもよろしくお願いしますね』
いつか、そう言って頭を撫でてくれるはずだった若様の顔が、血に濡れて捕縛される絶望の表情に塗り替えられた。
「……ぅ、……あ……」
いくつもの地獄が、脳裏で明滅する。
その全ての失敗の果てに、最後の戦いはあった。仲間たちは疲弊し、世界は傷つき、敵はあまりにも強大になっていた。
それでも戦った。蛍がいたから。彼女だけが、最後の希望だったから。
だが、その希望も、拙が摘み取った。
敵の、世界そのものを引き裂くような一撃が、立ち尽くす拙に迫った。もう避ける気力もなかった。これで終わるのだと、そう思った瞬間。
白い影が、拙の前に躍り出た。
金色の髪が、スローモーションのように舞う。
「―――っ!」
肉を断ち、骨を砕く、鈍い音。
世界から、再び音が消えた。
振り向いた蛍の口から、おびただしい量の血が溢れ出す。
その瞳は、拙を映していた。驚きも、怒りも、憎しみもなかった。ただ、深い、深い悲しみと、そして、慈愛に満ちた光が宿っていた。
『早柚は…悪く、ない…』
それが、彼女の最後の言葉だった。
違う。違う、違う、違う! 拙が悪いんだ。拙が、全部、壊したんだ!
そう叫びたかったのに、声は出なかった。
優しい赦しの言葉は、何よりも残酷な刃となって、早柚の魂を、その根源から切り刻んだ。
現実に意識が戻る。
目の前には、冷たくなった蛍がいる。
自分のせいだ。自分のせいだ。自分のせいだ。
頭の中で、壊れたからくりのように同じ言葉が回り続ける。
涙は、もう出なかった。悲しいとか、悔しいとか、そんな生易しい感情は、とうの昔に砕け散って、塵になってしまった。
あるのは、ただ、自分が存在しているという事実に対する、絶対的な嫌悪だけ。
拙が、蛍を殺した。
拙が、この世界を、壊した。
立ち上がる気力も、どこかへ逃げ出す気力もない。
拙は、冷たくなった蛍の手を、ただ両手で包み込んだ。
自分の体温が、その氷のような指先に虚しく吸い取られていく。
まるで、拙の命そのものを、この亡骸が吸い上げているかのようだった。
空は、どこまでも昏い灰色だった。
やがて訪れるであろう、本当の終焉を。
彼女は、友人の亡骸の隣で、ただ静かに待っていた。