終のむじなが見た夢に   作:夜琥

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第2部:影踏まずの奇跡
10. 禁忌の契約


絶望には、底があった。

そして、その奈落の底には、狂気という名の、最後の希望が眠っていた。

 

戦場だったはずの平原に、静寂が戻っていた。

巨大な敵は、蛍の、命と引き換えの一撃によって、消滅していた。

 

残されたのは、破壊の爪痕と、そして、小さな亡骸を抱きしめる、二つの影だけだった。

 

早柚は、動かなくなった蛍の亡骸を、そっと大地に横たえた。

 

その顔は、ひどく、安らかに見えた。

まるで、ようやく、重い荷物を下ろして、眠りについたかのように。

 

「……ごめん、パイモン」

 

隣で、もう涙も涸れ果てたのか、ただ、虚ろな目で蛍を見つめている、小さな相棒の頭を、そっと撫でる。

 

「……拙は、行かなくちゃいけない」

「……え……? さゆ……どこに、行くんだよ……? 蛍が……蛍が、ここにいるのに……」

 

パイモンの、か細い声が、震えている。

 

「……だから、行くんだ」

 

早柚は、立ち上がった。

その瞳には、もはや、悲しみも、絶望もなかった。

ただ、すべてを焼き尽くすほどの、冷たい、冷たい執念の色だけが、宿っていた。

 

彼女は、もう、振り返らなかった。

蛍の亡骸にも、パイモンの泣き顔にも、そして、自らが破壊し尽くした、この稲妻の地にも、背を向けた。

 

目的地は、スメール。世界の記憶が眠る聖域。

 

その旅路は、もはや苦行と呼ぶことすら生温かった。

彼女は、まず、夜の闇に紛れて、離とうの港へと向かった。

 

幕府軍の厳しい検問を、終末番として培った、すべての技術を駆使して、掻い潜る。

物陰に潜み、気配を殺し、まるで、存在しないかのように、彼女は進んだ。

 

港には、璃月へと向かう、ファデュイの貨物船が停泊していた。

 

警備は、厳重だ。だが、今の彼女には、恐怖はなかった。失うものが、何もなかったからだ。

 

彼女は、積み荷のクレーンが動き出す、ほんの一瞬の死角を突き、音もなく、船の甲板へと、その小さな身体を滑り込ませた。

 

そして、魚の腐臭と、潮の匂いが充満する、薄暗い船倉の中へと、身を隠した。

 

船が、大きく、軋む。ゆっくりと、岸を離れていく。故郷を、後にする。

 

暗闇の中で、彼女は、ただ、膝を抱えて、時の過ぎるのを待った。

 

眠れば、悪夢が襲ってくる。炎を失ったモンドの英雄。

石と化す璃月の民。同胞が殺し合う故郷。そして――腕の中で冷たくなっていく、蛍の感触。

 

だが、今の彼女は、もう、その悪夢から、逃げようとはしなかった。

 

むしろ、その光景を、脳裏に、何度も、何度も、繰り返し、焼き付けた。

 

(忘れるな)

 

心の中で、自分に、言い聞かせる。

 

(これが、拙の犯した、罪だ。これが、拙が、これから、覆すべき、現実だ)

 

その記憶こそが、彼女を、前へ、前へと、進ませる、唯一の、燃料だった。

 

璃月の港で、夜陰に紛れて、船を降りた。

 

そこは、自らが招いた災厄の爪痕が生々しく残る土地だった。

再建の槌音が、昼夜を問わず響き渡り、人々の顔には、深い疲労と、消えない不信が刻まれている。

 

彼女は、人の目を避け、獣道を往き、雨水を啜り、草の根を齧って、ただひたすらに西を目指した。

 

ある日、小さな村の近くで、食料を探していると、村人たちの会話が、風に乗って、聞こえてきた。

 

「聞いたかい? あの災厄の時、旅人さんが、仙人様たちと一緒に、戦ってくださったそうだ」

「ああ。だが、あの後、その旅人さんは、稲妻で、大変な目に遭われたと……」

「なんてことだ。あの方こそ、真の英雄だというのに……」

 

その言葉の一つ一つが、見えない刃となって、早柚の心を、深く、抉っていく。

彼女は、その場から、逃げるように、走り去った。

 

どれほどの月日が経っただろうか。

 

ついに辿り着いたスメールの地は、彼女が知る、どの国とも、違っていた。

むせ返るような湿気、見たこともない、巨大で、奇妙な植物たち。そして、絶えず聞こえてくる、未知の生き物の鳴き声。

 

彼女の肉体は、とうとう限界を迎えた。

アビディアの森の奥深く、巨大なキノコの傘の下で、高熱に浮かされながら、彼女の意識は、ぷつりと糸が切れるように途絶えた。

 

だが、その意識は、闇に落ちることはなかった。

執念だけが、魂だけの存在となって、彷徨い始める。目指すは、ただ一つ。

世界の記憶の核心、世界樹。

 

* * *

 

気づけば、早柚は、光の中に立っていた。

 

物理法則を超越した、概念の空間。

無数の光の筋が、川のように流れ、枝分かれし、絡み合い、巨大な樹の形を、ぼんやりと形作っている。

 

ここは、夢の中だ。そして、夢でありながら、世界の真実が眠る場所。

 

「……こんにちは、異質な魂を持つ子。どうして、あなたはこの聖域を、そんなにも激しく揺さぶるのですか?」

 

威厳がありながらも、どこか優しく、そして、憂いを帯びた声が響いた。

 

早柚の前に、ゆっくりと、その姿が現れた。

それは、幼い少女の姿をしたナヒーダではなかった。

そこにいたのは、深く、優しい緑色の瞳を持ち、荘厳な装飾を身につけた、大人の女性の姿をした存在だった。

 

「……あなたは……?」

 

「私は、この世界樹の守護者。……いいえ、今は、この世界樹に記録された、ただの『記憶』と呼ぶべきかしら。かつて、人々からは『マハールッカデヴァータ』と呼ばれていました」

 

その名を聞いた瞬間、早柚の魂が、震えた。先代の草神。

彼女は、早柚の魂を、静かに、しかし、深く、見つめた。

 

「あなたの魂は、見慣れない傷を負っていますね。本来、この世界に存在しない、『ありえなかった歴史』の記憶を、深く、強く、抱えすぎている。その歪みは、世界樹の根幹を、僅かにですが、確実に、揺るがしています」

 

早柚は、覚悟を決めて、すべてを語った。二つの未来の知識を得たこと。

より良い結末を求めて介入したこと。そして、その結果、すべてを、最悪の形で、破壊してしまったこと。

 

彼女の言葉は、時折、嗚咽に詰まり、途切れ途切れになったが、その魂の叫びは、マハールッカデヴァータの心に、深く、響いた。

 

沈黙が、しばし続いた。

やがて、彼女は、ゆっくりと、口を開いた。

 

「……あなたの願い、理解しました。そして、あなたの絶望も。あなたは、知っていたのですね。あなたが何もしなくとも、旅人――蛍が、この世界を、正しく、導くはずだったことを」

 

「……はい」

 

早柚は、か細い声で、答えた。

 

「拙は、知っていました。蛍がいれば、モンドも、璃月も、稲妻も、最後には、救われるはずだった。そして……このスメールに巣食う、禁忌の知識の問題も、彼女と、新しい智慧の神が、解決してくれるはずだったことを」

 

その言葉を口にした瞬間、早柚の心に、本当の意味での、絶望が、訪れた。

 

「拙は……拙は、ただ、少しでも、犠牲を減らしたかっただけなんです。ディルック様が傷つかず、群玉閣が落ちず、トーマが死なない、そんな、完璧な未来が、あるはずだと、信じていた……。でも、その、拙の、ほんの少しの、傲慢な願いのせいで……」

 

彼女は、顔を覆った。

 

「拙は、この世界を救う、たった一つの『答え』だった、蛍を、この手で、死なせてしまった……!」

 

その、あまりにも、残酷な真実。

その自覚が、彼女の魂を、完全に、打ち砕いた。

 

マハールッカデヴァータは、静かに、早柚を見つめていた。その瞳には、深い、深い、慈悲と、そして、同情の色が浮かんでいた。

 

「……ええ、その通りです。彼女は、このテイワットの外から来た、運命の織り手。彼女の存在こそが、この世界を、停滞から救い出す、唯一の希望でした」

そして、彼女は、言葉を区切ると、自らの周囲を漂う、かすかな、黒い影のようなものに、目を落とした。

 

「……そして、その希望が失われた今、この世界樹もまた、病に侵され、死を待つだけの存在となっています。禁忌の知識は、私の記憶、私の存在そのものに、深く、根を張ってしまった。私が、この世界樹から消え去らない限り、この世界の病は、決して、癒えることはないのです」

 

彼女の声には、拭い去れない、深い疲労の色が滲んでいた。

 

「……あるいは、あなたのような、イレギュラーな存在の力ならば……この、停滞した流れを、変えることができるのかもしれません。毒を以て毒を制す、という言葉もあります」

 

それは、世界の守護者たる神が口にするには、あまりにも危険な賭けだった。

 

「ですから、私は、あなたに、力を貸しましょう。過去へと遡る、機会を与えます」

 

早柚は、信じられない思いで、顔を上げた。

 

「ですが……代償は、決して軽いものではありません。過去に介入するたびに、あなたの存在は、世界から少しずつ、削り取られていきます。記憶は曖昧になり、力は失われ、最後には、誰からも認識されない、ただの『なかった存在』となるでしょう」

 

「それでも、構いません」

 

早柚は、迷うことなく、即答した。

「拙の存在など、蛍の笑顔に比べれば、塵芥にも等しいのです」

 

マハールッカデヴァータは、深い溜息をついた。

 

「そう、そこまであなたは……。ですが、それほどまでに強い願いを持つ魂ならば……あるいは、本当に、奇跡を起こせるのかもしれませんね」

 

彼女は、ゆっくりと両手を広げた。その掌から、眩いばかりの、翠色の光が溢れ出す。それは、世界樹そのものの、純粋な力だった。

 

「契約を交わしましょう、異質な魂を持つ子。私は、あなたに過去への道を開きます。その代償として、あなたは、その存在のすべてを、この世界の歪みを正すために費やすと、誓ってくれますか?」

 

その言葉は、優しく、そして、抗うことのできない、神の問いかけだった。

 

「誓います」

 

早柚は、跪き、迷うことなく、答えた。

翠色の光が、彼女の魂を包み込む。激しい痛みが、全身を貫いた。

 

「覚えておいてください。あなたの旅路は、茨の道です。一歩、間違えれば、あなた自身だけでなく、世界の流れを、完全に破壊してしまう可能性もあります。そして、私があなたに与えることができるのは、この一度きりの機会だけ」

 

マハールッカデヴァータの声は、次第に、遠のいていく。

 

「……行きなさい、か弱き魂よ。あなたのその願いが、いつか、この世界に真実の光をもたらすことを、私も、この記憶の牢獄から、祈っています」

 

* * *

 

意識が、激しく引き戻される。

スメールの森の、あのキノコの傘の下。早柚は、はっと、目を開けた。

 

まるで、ほんの一瞬の夢だったかのように。

だが、その魂には、確かに、先代草神との、重い契約の感触が、深く、刻まれていた。

 

そして、彼女の頭の中には、契約を完了させるための、最後の「手順」が、明確に、示されていた。

 

世界は、何も変わっていない。だが、彼女だけが、もう、以前の彼女ではなかった。

 

高熱に浮かされていた身体は、嘘のように、軽くなっていた。心の中を支配していた、混沌とした絶望は消え、そこには、氷のように冷たい、ただ一つの目的意識だけが、宿っていた。

 

彼女は、ゆっくりと、立ち上がった。

 

そして、自分が、無意識のうちに、この場所を、最後の休息の地として選んでいた理由を、理解した。

 

目の前にある、天を突くほどに巨大な、古代の樹。それは、ただの樹ではなかった。

 

世界樹の、地上に伸びた、巨大な根の一つ。世界中の地脈と、情報の奔流が、この場所で、交わっているのだ。

 

ここが、過去へと渡るための、唯一の「扉」だった。

 

早柚は、その巨大な樹の、一番太い幹へと、歩み寄った。

これが、この、破滅した世界で、彼女が踏み出す、最後の、一歩だった。

 

彼女は、そっと、その幹に、手を触れた。ひんやりとした、しかし、どこか、生きているかのような、不思議な感触が、伝わってくる。

 

彼女は、静かに、目を閉じた。

そして、脳裏に、これまで、自らが破壊してきた、世界の光景を、一人ひとり、思い浮かべた。

 

(さようなら、ディルック様。あなたの炎は、きっと、次の世界では、消えさせはしない)

 

(さようなら、トーマ。若様、綾華様。あなた達の温かい居場所は、きっと、次の世界では、守ってみせる)

 

(さようなら、鍾離様。あなたの、あまりにも、長くて、優しい契約を、これ以上、拙が、邪魔をすることはない)

 

そして、最後に。

 

(さようなら、蛍……)

彼女の、最期の、笑顔を、思い出す。

 

(今、助けに行くから。拙の、すべてを、代償にしても)

 

彼女は、目を開けた。

その瞳には、もう、一片の、迷いもなかった。

 

「―――契約は、果たされなければならない」

 

マハールッカデヴァータに誓った、最後の言葉を、静かに、呟く。

そして、彼女は、自らの魂の、その、最も、深い場所にある、存在の核を、意識した。

 

(持っていけ)

 

心の中で、そう、念じる。

 

(拙の、記憶も、力も、この、罪深い、存在の、すべてを、燃料にして!)

 

彼女の手のひらから、淡い、翠色の光が、放たれた。

その光は、樹の幹に、吸い込まれるように、溶けていく。

 

すると、彼女の身体が、足元から、少しずつ、光の粒子となって、崩れ始めた。

それは、痛みも、苦しみもない、ただ、ひたすらに、静かな、分解だった。

 

自らの存在が、この世界から、消えていく。

その、不思議な感覚を、彼女は、ただ、穏やかに、受け入れていた。

 

やがて、彼女の身体は、完全に、その輪郭を失い、無数の光の粒子となって、巨大な樹の根へと、吸い込まれていった。

 

彼女という、一個人の、一度目の人生は、ここで、完全に、終わりを告げた。

 

その光は、世界樹の、巨大な根を伝い、情報の奔流の中を、凄まじい速度で、逆流していく。

 

人々の、数多の記憶を、通り過ぎて。

国々の、数多の歴史を、遡って。

 

目指す先は、ただ一つ。

すべての過ちが、始まる、あの、運命の日。

 

彼女が、緋櫻の木の下で、うたた寝をしていた、あの、穏やかな、一日の、ほんの少しだけ、過去。

 

新たな「奇跡」を起こすため、そして、その代償として、自らが、消え去るため。

 

一人の少女の、二度目の戦いが、今、始まろうとしていた。

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