終のむじなが見た夢に 作:夜琥
意識が、肉体へと、強引に、引き戻される。
それは、穏やかな覚醒ではなかった。
魂が、一度、光の粒子にまで分解され、凄まじい情報の奔流の中で再構築されるような、激しい苦痛と、浮遊感。
数多の、ありえたかもしれない人生の記憶が、脳裏で明滅しては、消えていく。
一度目の、破滅した世界の記憶。そして、本来、そうなるはずだった、平和な世界の記憶。その二つが、混じり合い、彼女の魂を、激しく揺さぶる。
その、永遠とも思える時間の後。
彼女の意識は、ついに、一つの器へと、収束した。
――ピキ、と。
かつて、すべての始まりとなった、あの、硝子が割れるような音が、再び、頭蓋の内側で響いた。
「……っ!」
早柚は、はっと、目を開けた。
背中に感じる、ざらりとした、木の幹の感触。鼻腔をくすぐる、懐かしい、緋櫻の甘い香り。
耳に届く、穏やかな風の音と、遠くで聞こえる、人々の生活音。
ドサッ、という鈍い音と共に、背中を強かに打ち付ける。
(……痛い)
その、当たり前の感覚に、涙が出そうになった。
一度目の世界で、スメールへと向かう、あの地獄のような旅路の中では、とうに、失われていた感覚だったからだ。
「……戻った……?」
自分の手を見る。汚れてはいるが、旅の間にできたはずの無数の傷が、綺麗さっぱり消えていた。
身体が、軽い。あの、鉛のように重かった罪悪感と疲労が、嘘のようだ。
やったのだ。本当に、過去に。
マハールッカデヴァータ様との、あの、禁忌の契約は、果たされたのだ。
歓喜が、全身を駆け巡った。
今度こそ、やり直せる。蛍を、みんなを、救える。
そう、思った、その時だった。
ぞわり、と。
全身の産毛が、逆立った。
それは、恐怖というよりも、もっと根源的な、存在そのものを揺るがすような、強烈な「拒絶」の感覚だった。
すぐ近くに、「いる」
頭上から、気配がする。それは、紛れもなく、自分自身の気配。
本能が、魂が、世界のすべてが、警鐘を鳴らしている。
同じ存在が、二つ、同じ世界にいる。それは、あってはならないことだ。
世界の理を根底から覆す、致命的なエラー。
(……会ってはいけない)
マハールッカデヴァータの警告が、脳裏に、雷鳴のように、響き渡った。
『もし、あなたが、過去のあなた自身に出会えば、二人の存在は、時空の歪みによって、一瞬にして対消滅します』
早柚は、ゆっくりと、しかし、必死に、木の幹の裏側へと、その身を隠した。息を殺し、気配を断ち、まるで、石になったかのように、固まる。
木の枝の上で、小さな身体が、もぞもぞと、動く気配がする。一番、寝心地のいい場所を探しているのだろう。
そして、聞こえてきた。
「ふぁ〜……。ここは、よく眠れそうだぞ……」
それは、紛れもなく、自分自身の、眠たげな声だった。
これから始まる、世界の命運を賭けた悲劇など、何も知らずに、ただ、身長を伸ばすことだけを考えている、無垢で、そして、幸福な、自分の声。
心臓が、鷲掴みにされたかのように、きしむ。
世界が、ぐにゃりと歪み、凄まじい吐き気に襲われる。これが、パラドックス。
これが、禁忌を犯した者に、世界が与える、罰。
早柚は、口元を、必死に押さえながら、その場から、這うようにして、離れた。
もう、二度と、あの場所には、近づけない。
あの、拙(せつ)が、最も愛した、昼寝の場所には。
* * *
彼女は、本当の意味で、影になった。
自分の影からすら、逃げ続けなければならない、哀れな亡霊。
寝床は、紺田村の、ずっと奥にある、打ち捨てられた古井戸の底だった。
そこなら、誰も、来ることはない。雨と、夜露を、凌ぐことができた。
彼女は、ただ、待った。
そして、観察し続けた。
神里屋敷の、遠くに見える屋根を、崖の上から、見つめた。
庭先で、楽しそうに、家事をこなす、トーマの姿が見える。時折、綾華様が、縁側で、お茶を飲んでいる姿も。
その、あまりにも、平和な光景を見るたび、胸が、張り裂けそうになった。
あそこが、拙の、帰る場所だったはずなのに。
もう、決して、戻ることは、できない。
彼女は、「もう一人の自分」の、追跡者となった。
本来の世界にいる早柚が、いつ、どこで、何をしているのか。
それを、完璧に、把握する必要があった。決して、鉢合わせにならないために。
社奉行の仕事をサボって、木陰で昼寝をしている姿を見つけた時は、苦笑いが漏れた。
先輩の忍びに、見つかって、叱られている姿を見た時は、少しだけ、心が和んだ。
(……相変わらずだな、拙は)
そして、早柚は、ある、重大な事実に、気づいていた。この、二度目の世界では、あの、すべての始まりとなった「知識」は、この子には、決して流れ込まないことに。
もう一人の自分は、もう、あの、運命のうたた寝をすることはないのだ。
つまり、あの子は、この運命を背負った拙とは、全く違った穏やかで、何も知らない未来を、歩んでいく。
その、ただ、身長のことだけを考えて、のんびりと生きていける「本来の自分」の姿が、ひどく、眩しく見えた。
あれが、拙が、手放してしまった、人生なのだ。
この子の、当たり前の、幸せを、奪う権利など、誰にもない。
だからこそ、戦わなければならないのは、この、異物である、拙だけなのだ。
やがて、旅人である蛍が、稲妻を訪れる、その、ずっと前に。
早柚は、決意を固めた。
(……行かなければ)
すべての悲劇の始まりの地、モンドへ。
「もう一人の自分」は、この稲妻で、平和に、生きていく。
ならば、世界を救うために、この地を離れ、戦わなければならないのは、この、イレギュラーである、拙だけなのだ。
早柚は、神里家から密かに預かっていた、当面の活動資金を手にすると、誰にも、何も告げず、ただ一人、モンド行きの船に、乗り込んだ。
今度は、密航者ではない。ただの、稲妻から来た、物珍しい、旅人として。
船の上で、彼女は、一度目の失敗を、徹底的に、分析した。
モンドでの、傲慢なまでの、自信。
璃月での、焦りからくる、短絡的な思考。
稲妻での、視野の狭い、完璧主義。
そのすべてが、最悪の結末を、招いた。
(今度は、違う)
彼女は、心に、誓った。
(決して、目立たない。決して、歴史に、直接、干渉しない。ただ、ほんの少しだけ、風の向きを、変えるだけだ。誰にも気づかれず、誰からも、認識されず、悲劇の芽だけを、そっと、摘み取る)
彼女は、もはや、英雄になろうなどとは、思っていなかった。むしろ、その逆だ。
この世界にとって、拙は、存在しない方が、いいのだから。
モンドに到着した時、そこは、拙の記憶の中にある、あの、絶望に満ちた街とは、全く違う、活気に満ちた、自由の都だった。
風車が、ゆっくりと、回り、吟遊詩人の、陽気な歌声が、広場に響いている。
その、あまりにも、平和な光景に、早柚は、再び、涙を、こらえなければならなかった。
(……これを、守るんだ)
彼女は、街外れの、古い、廃屋を、仮の寝床と決めると、そこから、二度目の世界の、物語が、始まるのを、静かに、待ち続けた。
やがて、蛍とパイモンが、モンドに、現れた。
早柚は、決して、彼らに、接触しなかった。ただ、遠くから、その動向を、見守るだけだった。
アンバーと出会い、モンド城を案内され、そして、風魔龍の最初の襲撃が、起こる。
すべてが、拙の「知っている歴史」の通りに、進んでいく。
その光景を、彼女は、大聖堂の、屋根の、一番高い場所から、冷たい風に吹かれながら、見つめていた。
(舞台は、整った)
(役者も、揃った)
(今度こそ……物語の結末を、変えてみせる)
その瞳には、かつての、甘えた少女の面影は、もう、どこにもなかった。
そこにあるのは、自らの存在そのものを、代償として、運命に、戦いを挑む、一人の、名もなき、忍びの、覚悟だけだった。
彼女の、本当の意味での、戦いが、始まろうとしていた。