終のむじなが見た夢に   作:夜琥

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11. 影踏まずの忍び

意識が、肉体へと、強引に、引き戻される。

 

それは、穏やかな覚醒ではなかった。

 

魂が、一度、光の粒子にまで分解され、凄まじい情報の奔流の中で再構築されるような、激しい苦痛と、浮遊感。

 

数多の、ありえたかもしれない人生の記憶が、脳裏で明滅しては、消えていく。

 

一度目の、破滅した世界の記憶。そして、本来、そうなるはずだった、平和な世界の記憶。その二つが、混じり合い、彼女の魂を、激しく揺さぶる。

 

その、永遠とも思える時間の後。

彼女の意識は、ついに、一つの器へと、収束した。

 

――ピキ、と。

かつて、すべての始まりとなった、あの、硝子が割れるような音が、再び、頭蓋の内側で響いた。

 

「……っ!」

 

早柚は、はっと、目を開けた。

背中に感じる、ざらりとした、木の幹の感触。鼻腔をくすぐる、懐かしい、緋櫻の甘い香り。

耳に届く、穏やかな風の音と、遠くで聞こえる、人々の生活音。

 

ドサッ、という鈍い音と共に、背中を強かに打ち付ける。

 

(……痛い)

 

その、当たり前の感覚に、涙が出そうになった。

一度目の世界で、スメールへと向かう、あの地獄のような旅路の中では、とうに、失われていた感覚だったからだ。

 

「……戻った……?」

 

自分の手を見る。汚れてはいるが、旅の間にできたはずの無数の傷が、綺麗さっぱり消えていた。

身体が、軽い。あの、鉛のように重かった罪悪感と疲労が、嘘のようだ。

 

やったのだ。本当に、過去に。

マハールッカデヴァータ様との、あの、禁忌の契約は、果たされたのだ。

 

歓喜が、全身を駆け巡った。

 

今度こそ、やり直せる。蛍を、みんなを、救える。

そう、思った、その時だった。

 

ぞわり、と。

全身の産毛が、逆立った。

 

それは、恐怖というよりも、もっと根源的な、存在そのものを揺るがすような、強烈な「拒絶」の感覚だった。

すぐ近くに、「いる」

 

頭上から、気配がする。それは、紛れもなく、自分自身の気配。

本能が、魂が、世界のすべてが、警鐘を鳴らしている。

 

同じ存在が、二つ、同じ世界にいる。それは、あってはならないことだ。

世界の理を根底から覆す、致命的なエラー。

 

(……会ってはいけない)

 

マハールッカデヴァータの警告が、脳裏に、雷鳴のように、響き渡った。

 

『もし、あなたが、過去のあなた自身に出会えば、二人の存在は、時空の歪みによって、一瞬にして対消滅します』

 

早柚は、ゆっくりと、しかし、必死に、木の幹の裏側へと、その身を隠した。息を殺し、気配を断ち、まるで、石になったかのように、固まる。

 

木の枝の上で、小さな身体が、もぞもぞと、動く気配がする。一番、寝心地のいい場所を探しているのだろう。

そして、聞こえてきた。

 

「ふぁ〜……。ここは、よく眠れそうだぞ……」

 

それは、紛れもなく、自分自身の、眠たげな声だった。

 

これから始まる、世界の命運を賭けた悲劇など、何も知らずに、ただ、身長を伸ばすことだけを考えている、無垢で、そして、幸福な、自分の声。

 

心臓が、鷲掴みにされたかのように、きしむ。

世界が、ぐにゃりと歪み、凄まじい吐き気に襲われる。これが、パラドックス。

 

これが、禁忌を犯した者に、世界が与える、罰。

 

早柚は、口元を、必死に押さえながら、その場から、這うようにして、離れた。

 

もう、二度と、あの場所には、近づけない。

あの、拙(せつ)が、最も愛した、昼寝の場所には。

 

* * *

 

彼女は、本当の意味で、影になった。

自分の影からすら、逃げ続けなければならない、哀れな亡霊。

 

寝床は、紺田村の、ずっと奥にある、打ち捨てられた古井戸の底だった。

そこなら、誰も、来ることはない。雨と、夜露を、凌ぐことができた。

 

彼女は、ただ、待った。

そして、観察し続けた。

 

神里屋敷の、遠くに見える屋根を、崖の上から、見つめた。

 

庭先で、楽しそうに、家事をこなす、トーマの姿が見える。時折、綾華様が、縁側で、お茶を飲んでいる姿も。

その、あまりにも、平和な光景を見るたび、胸が、張り裂けそうになった。

 

あそこが、拙の、帰る場所だったはずなのに。

もう、決して、戻ることは、できない。

 

彼女は、「もう一人の自分」の、追跡者となった。

 

本来の世界にいる早柚が、いつ、どこで、何をしているのか。

それを、完璧に、把握する必要があった。決して、鉢合わせにならないために。

 

社奉行の仕事をサボって、木陰で昼寝をしている姿を見つけた時は、苦笑いが漏れた。

先輩の忍びに、見つかって、叱られている姿を見た時は、少しだけ、心が和んだ。

 

(……相変わらずだな、拙は)

 

そして、早柚は、ある、重大な事実に、気づいていた。この、二度目の世界では、あの、すべての始まりとなった「知識」は、この子には、決して流れ込まないことに。

 

もう一人の自分は、もう、あの、運命のうたた寝をすることはないのだ。

 

つまり、あの子は、この運命を背負った拙とは、全く違った穏やかで、何も知らない未来を、歩んでいく。

 

その、ただ、身長のことだけを考えて、のんびりと生きていける「本来の自分」の姿が、ひどく、眩しく見えた。

あれが、拙が、手放してしまった、人生なのだ。

 

この子の、当たり前の、幸せを、奪う権利など、誰にもない。

だからこそ、戦わなければならないのは、この、異物である、拙だけなのだ。

 

やがて、旅人である蛍が、稲妻を訪れる、その、ずっと前に。

早柚は、決意を固めた。

 

(……行かなければ)

 

すべての悲劇の始まりの地、モンドへ。

 

「もう一人の自分」は、この稲妻で、平和に、生きていく。

ならば、世界を救うために、この地を離れ、戦わなければならないのは、この、イレギュラーである、拙だけなのだ。

 

早柚は、神里家から密かに預かっていた、当面の活動資金を手にすると、誰にも、何も告げず、ただ一人、モンド行きの船に、乗り込んだ。

 

今度は、密航者ではない。ただの、稲妻から来た、物珍しい、旅人として。

 

船の上で、彼女は、一度目の失敗を、徹底的に、分析した。

モンドでの、傲慢なまでの、自信。

 

璃月での、焦りからくる、短絡的な思考。

稲妻での、視野の狭い、完璧主義。

 

そのすべてが、最悪の結末を、招いた。

 

(今度は、違う)

 

彼女は、心に、誓った。

 

(決して、目立たない。決して、歴史に、直接、干渉しない。ただ、ほんの少しだけ、風の向きを、変えるだけだ。誰にも気づかれず、誰からも、認識されず、悲劇の芽だけを、そっと、摘み取る)

 

彼女は、もはや、英雄になろうなどとは、思っていなかった。むしろ、その逆だ。

 

この世界にとって、拙は、存在しない方が、いいのだから。

 

モンドに到着した時、そこは、拙の記憶の中にある、あの、絶望に満ちた街とは、全く違う、活気に満ちた、自由の都だった。

 

風車が、ゆっくりと、回り、吟遊詩人の、陽気な歌声が、広場に響いている。

 

その、あまりにも、平和な光景に、早柚は、再び、涙を、こらえなければならなかった。

 

(……これを、守るんだ)

 

彼女は、街外れの、古い、廃屋を、仮の寝床と決めると、そこから、二度目の世界の、物語が、始まるのを、静かに、待ち続けた。

 

やがて、蛍とパイモンが、モンドに、現れた。

 

早柚は、決して、彼らに、接触しなかった。ただ、遠くから、その動向を、見守るだけだった。

 

アンバーと出会い、モンド城を案内され、そして、風魔龍の最初の襲撃が、起こる。

 

すべてが、拙の「知っている歴史」の通りに、進んでいく。

 

その光景を、彼女は、大聖堂の、屋根の、一番高い場所から、冷たい風に吹かれながら、見つめていた。

 

(舞台は、整った)

(役者も、揃った)

(今度こそ……物語の結末を、変えてみせる)

 

その瞳には、かつての、甘えた少女の面影は、もう、どこにもなかった。

そこにあるのは、自らの存在そのものを、代償として、運命に、戦いを挑む、一人の、名もなき、忍びの、覚悟だけだった。

 

彼女の、本当の意味での、戦いが、始まろうとしていた。

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