終のむじなが見た夢に 作:夜琥
モンドに到着してから、数週間が経った。
早柚は、街外れの、古い、廃屋を、仮の寝床と決めると、そこから、二度目の世界の、物語が、始まるのを、静かに、待ち続けた。
彼女の計画は、こうだ。
――何もしない。
一度目の世界での、自らの、傲慢で、短絡的で、視野の狭い介入が、すべての悲劇を招いた。
ならば、答えは、簡単だ。今度こそ、余計なことは、一切しない。
頭の中にある「本来の、成功する歴史」の通りに、物事が進むのを、ただ、見守る。
そうすれば、多少の犠牲は出ても、世界は、破滅を免れるはずだ。それが、彼女が、マハールッカデヴァータとの契約で得た、結論だった。
やがて、蛍とパイモンが、モンドに、現れた。
早柚は、決して、彼らに、接触しなかった。ただ、遠くから、その動向を、見守るだけだった。
アンバーと出会い、モンド城を案内され、そして、風魔龍の最初の襲撃が、起こる。
すべてが、拙の「知識」の通りに、進んでいく。
その光景を、彼女は、大聖堂の、屋根の、一番高い場所から、冷たい風に吹かれながら、見つめていた。
(これで、いい……)
心の中で、何度も、自分に、言い聞かせる。
(拙は、ただの、観客だ。物語に、決して、手を出してはいけない)
その、何もしない、という行為が、これほどまでに、心を、締め付けるものだとは、知らなかった。
蛍たちと共にあり、共に戦った、一度目の世界の、苦い記憶が、何度も、蘇る。
だが、彼女は、唇を、強く、噛み締め、その衝動を、必死に、抑え込んだ。
蛍たちは、原作通り、西風騎士団の「栄誉騎士」となり、ジンたちと協力して、モンド周辺の、四風守護の神殿の調査へと、向かった。
すべてが、順調だった。順調、すぎた。
最初の異変に気づいたのは、蛍たちが、ガイアと共に、北風の狼の神殿を調査し終えた、その夜だった。
早柚は、いつものように、モンドの夜の闇に紛れ、情報収集を行っていた。
その時、風の中に、微かな、しかし、間違いなく、邪悪な気配が、混じっていることに、気づいた。
(……なんだ? この、元素の流れの、淀みは……)
それは、アビスの魔術師たちが放つ、特有の気配だった。
だが、一度目の世界で、何度も、感じたそれとは、明らかに、濃度が違う。
まるで、澱んだ水底の泥を、無理やり、かき混ぜたような、不自然な、そして、悪意に満ちた、力の流れ。
胸騒ぎを覚え、彼女は、その力の源流を、追った。
辿り着いたのは、囁きの森の、さらに奥深く。本来、魔物など、寄り付かないはずの、静かな場所だった。
だが、そこには、信じられない光景が、広がっていた。
数人のアビスの魔術師が、地面に、禍々しい紋様を描き、何か、儀式を行っていたのだ。
そして、その紋様の中心には、一度目の世界では見たこともない、黒紫色の、脈打つ、水晶のようなものが、地面から、突き出ていた。
「……あれは、なんだ?」
早柚は、息を呑んだ。
拙の知る、どちらの歴史にも、こんなものは、存在しなかった。
その時、魔術師たちの一人が、歓喜の声を上げた。
「ククク……素晴らしいぞ! この地の、時空の歪みが、我らがアビスの力を、増幅させてくれる! これならば、ただ、龍を操るだけでなく、モンドの地脈そのものを、汚染することも、可能だ!」
(……時空の、歪み……?)
その言葉に、早柚の全身から、血の気が、引いた。
まさか。
まさか、拙が、この時代に、存在している、そのこと自体が。
この世界の理を、歪め、アビスの力を、増長させている、というのか……?
何もしない、はずだった。ただ、見守るだけで、すべては、うまくいく、はずだった。
だが、違った。拙が、ここに、いるだけで。
この世界は、もう、本来の、あるべき姿では、なくなってしまっていたのだ。
(……どう、すれば……)
このまま、放置すれば、どうなる?
蛍たちが、トワリンを救ったとしても、モンドの土地そのものが、アビスに汚染されてしまえば、結局、待っているのは、緩やかな、破滅だ。
かといって、ここで、拙が、介入すれば? また、一度目の世界のように、何が、どう、転ぶか、分からない。
(……いや)
彼女は、心を、決めた。
(もう、迷っている、時間はない)
この、新たな「イレギュラー」は、間違いなく、拙の存在が、生み出したものだ。
ならば、これを、処理するのもまた、拙の、役目だ。
蛍たちには、トワリンを救う、という、本来の、大きな役目がある。
彼女たちの邪魔を、するわけには、いかない。
ならば、この、新たな脅威は。
拙が、一人で、誰にも知られず、処理するしかない。
早柚の、二度目の世界の、本当の戦いが、その夜、始まった。
蛍たちが、リサと共に、南風の獅子の神殿へと向かっている間。早柚は、たった一人で、アビスの儀式場へと、潜入した。
「誰だ!」
見張りのヒルチャールが、気づく。だが、遅い。
早柚は、風の刃と共に、闇の中から、躍り出た。その動きに、かつてのような、迷いはない。
ただ、冷徹な、目的遂行のための、最短距離を、なぞるだけだ。
「面倒な……!」
一体目の、アビスの魔術師(水)のバリアを、風元素で拡散させ、氷の矢で、凍結させる。
そして、懐に飛び込み、クナイで、その核を、一息に、破壊した。
だが、敵は、一体ではなかった。
「生意気なネズミめ!」
炎と、氷の、アビスの魔術師が、同時に、攻撃を仕掛けてくる。
早柚は、風の輪をまとい、その場から、高速で、離脱。敵の攻撃が、交差した瞬間、そこに、起爆札を、投げ込んだ。
凄まじい、爆発。だが、その程度では、魔術師たちは、倒せない。
それは、あまりにも、孤独で、そして、絶望的な、戦いだった。
蛍のように、圧倒的な力はない。ディルックのように、すべてを焼き尽くす、炎もない。
ただ、忍びとして、培ってきた、技と、速さと、そして、決して、諦めないという、意志だけが、彼女の、武器だった。
どれほどの時間が、経っただろうか。
夜が、白み始める頃。早柚は、満身創痍で、そこに、立っていた。
周囲には、塵と化した、魔術師たちの、残骸が、散らばっている。そして、あの、不気味な水晶もまた、砕け散っていた。
(……やった……)
だが、代償は、大きかった。
彼女の、左腕。そこにあったはずの、傷の、記憶が、一つ、綺麗に、抜け落ちていた。いつ、どこで、負った傷だったか、思い出せない。
(……これが、『燃料』……)
マハールッカデヴァータの言葉が、脳裏に、蘇る。
奇跡の、代償。
その数日後。蛍たちは、ついに、トワリンを救うため、風龍廃墟へと、向かった。
だが、早柚は、知っていた。アビスの、本当の狙いを。
彼らは、陽動として、モンド中に、兵を、ばらまいていた。
そして、その本命は、風龍廃墟の、さらに、地下深く。
そこに、巨大な、ゲートを開き、アビスの、より強力な怪物を、召喚しようとしていたのだ。
もし、それが、成功すれば。
トワリンを救った、疲弊しきった蛍たちでは、到底、太刀打ちできないだろう。
(……行かせない)
早柚は、傷ついた身体に、鞭を打って、風龍廃墟へと、向かった。
蛍たちが、塔の、頂上で、トワリンと、対峙している、その、真下で。
早柚は、たった一人で、ゲートから、溢れ出てくる、アビスの、怪物たちと、戦っていた。
アビスの使徒。黒蛇騎士。その、どれもが、一度目の世界では、もっと、後の時代に、現れるはずだった、強敵。
(……なんで、こんなものが、今、ここに……!)
これもまた、拙の存在が、招いた、イレギュラー。
絶望的な、戦い。何度も、吹き飛ばされ、斬りつけられ、意識が、遠のきそうになる。
だが、彼女は、倒れなかった。
(……拙は、もう、誰も、死なせはしない……!)
その、一心だけが、彼女を、支えていた。
そして、ついに、塔の上から、トワリンの、浄化された、歓喜の、咆哮が、聞こえてきた、その時。
早柚もまた、最後の一体を、倒し、その場に、崩れ落ちた。
遠くで、空が、晴れていくのが、見えた。
モンドに、本当の、平和が、戻ったのだ。
それを、見届けた、彼女の口元に、ほんの、わずかな、笑みが、浮かんだ。
そして、彼女は、静かに、意識を、手放した。
彼女の戦いを、知る者は、誰もいない。
彼女の起こした、本当の奇跡を、褒めてくれる者も、誰もいない。
だが、それで、よかった。
彼女は、影なのだから。
影は、光を、守るためだけに、存在するのだから。