終のむじなが見た夢に 作:夜琥
モンドの空は、抜けるように、青かった。
風魔龍がもたらした、あの、暗く、重苦しい暴風は、嘘のように消え去り、自由の都には、本来の、穏やかで、陽気な風が、再び、吹き渡っていた。
街の人々は、互いの無事を喜び、騎士団の尽力を称え、そして、異世界から来た、金色の髪の英雄の活躍を、吟遊詩人たちが、早速、新しい詩にして、歌い始めていた。
誰もが、勝利に、酔いしれていた。
だが、そのあまりにも完璧な、大団円の裏側で、いくつかの小さな、しかし、決して無視できない「謎」が、残されていたことを、まだ誰も知らなかった。
【旅人:蛍の視点】
「いやー、それにしても、美味い! やっぱり、勝利の後の『鳥肉のハニーソテー』は、格別だな!」
鹿狩りの、テラス席。
パイモンは、口の周りをソースだらけにしながら、満面の笑みで、そう言った。
隣では、アンバーが、誇らしげに、胸を張っている。
「ふふん、そうでしょ! 私のオススメなんだから!」
「蛍も、もっと食べろよ! 今回は、お前が、一番、頑張ったんだからな!」
「うん……ありがとう、パイモン」
蛍は、微笑みながら、頷いた。嬉しい。心から、嬉しいのだ。
モンドを救えたこと。トワリンを、苦しみから、解放できたこと。
仲間たちが、誰も、欠けることなく、こうして、笑い合っていること。
すべてが、喜ばしい、はずなのに。
どうしてだろう。心の、どこか、片隅に。
小さな、霧のようなものが、ずっと、かかっている。
「……でも、不思議だったよね」
蛍は、ポツリと、呟いた。
「え? 何がだ?」
「神殿を調査してた時、何箇所か、妙な場所があったの。アビスの魔術師たちが、何か、儀式をしていたみたいな、跡があったんだけど……。私たちが、そこに着く前に、いつも、誰かが、そこを、めちゃくちゃに、破壊した後だった」
「ああ! あったあった! なんか、地面が、変に、抉れてたり、風の刃みたいな跡が、たくさん、残ってたりしたよな!」
「うん。まるで、私たちを、先に進ませるために、誰かが、道を切り拓いてくれていた、みたいな……」
アンバーは、きょとんとした顔で、言った。
「え? そうなの? 私は、てっきり、魔物同士で、仲間割れでもしたのかと思ってたわ。まあ、何にせよ、ラッキーだったじゃない!」
「……うん。そうだね。ラッキー、だったんだよね」
蛍は、そう言って、笑った。
だが、霧は、晴れなかった。幸運、というには、あまりにも、出来すぎていた、気がしてならなかったのだ。
【西風騎士団騎兵隊長:ガイアの視点】
執務室の机の上には、数枚の、偵察騎士からの報告書が、並べられていた。
ガイアは、その報告書を、組んだ指の上で、顎を休ませながら、興味深そうに、眺めていた。
「……なるほどな」
報告内容は、どれも、似通っていた。
『囁きの森東方にて、アビス教団によるものと思われる、大規模な儀式の痕跡を発見。しかし、儀式は何者かによって妨害され、複数のアビスの魔術師の残骸のみが、確認された』
『風龍廃墟、地下区域にて、正体不明の、強力な魔物の、召喚準備の跡を発見。こちらも、召喚が完了するまさに、その寸前に、何者かによって、阻止された形跡あり』
『いずれの現場にも、旅人、及び、騎士団のメンバーは、関与していないことを、確認済み』
ガイアは、ふっと、息を吐いた。
「……これは、面白い」
旅人が、トワリンと、塔の頂上で、死闘を繰り広げている、まさに、その、同じ時間に。
その真下で、別の、誰かが、アビス教団の、本命の計画を、たった一人で、潰していた、ということになる。
一体、誰が? 何のために?
ガイアの脳裏に、一つの、小さな、人影が、浮かんだ。
稲妻から来たという、あの、いつも、眠たそうな顔をした、むじなのような、忍びの少女。
「……そういえば、あいつ、どこへ行ったんだ?」
風魔龍の事件が、本格化して以来、彼女の姿を、ぱったりと、見かけなくなっていた。
任務を放棄して、国にでも、帰ってしまったのか? いや、それにしては、出国記録がない。
(……まさか、な)
ガイアは、口の端を、吊り上げた。
考えすぎか。だが、もし、そうだとしたら。
この、自由の都には、騎士団も、アカツキワイナリーも知らない、三人目の、「守護者」がいる、ということになる。
「……ふふ、面白いじゃないか。実に、面白い」
彼は、誰に言うでもなく、そう呟くと、報告書を、引き出しの、奥深くに、しまい込んだ。
【アカツキワイナリーの主:ディルックの視点】
エンジェルズシェアの店内は、久しぶりの、賑わいを取り戻していた。
ディルックは、黙々と、カウンターの内側で、グラスを磨いていた。彼の右腕は、健在だった
。戦いの後、多少の無理はしたが、あの、一度目の世界で負ったような、致命的な傷を、負うことはなかった。
(……運が、良かった)
彼は、そう、結論付けていた。あの夜、淑女と対峙した時、なぜか、彼女の配下の動きが、妙に、散漫だったのだ。
おかげで、一対一の状況に、持ち込むことができた。あれがなければ、どうなっていたか。
「やあ、ディルック。一杯、貰えるかい?」
カウンターの前に、ジンが、腰を下ろした。いつもの、騎士団の制服ではなく、簡素な、私服姿だった。
「……珍しいな。君が、こんな時間に来るとは」
「たまにはね。街が、平和になったお祝いに」
ディルックは、黙って、彼女の前に、蒲公英酒のグラスを、置いた。
「ありがとう」
ジンは、礼を言うと、美味しそうに、それを飲んだ。
「……君には、感謝している。あの時、協力してくれなければ、ライアーは、取り戻せなかった」
「フン、当然のことをしたまでだ。モンドにあれ以上、ファデュイをのさばらせるわけにはいかない」
そう、彼は、答えた。だが、心の、どこかで、何かが、引っかかっていた。
淑女は、なぜ、あれほど、あっさりと、引き下がったのか。
彼女の目的は、ウェンティの「神の心」だったはずだ。
それならば、もっと執拗にモンドに、留まるはず。
なのに、彼女は、まるで、何か別の、大きな脅威に、気を取られているかのように、そそくさと、姿を消した。
まるで、獲物を狙う、狼の目の前で、その獲物を別のもっと、巨大な何かが横から、かっさらっていったかのような。
そんな、奇妙な、感覚。
ディルックは、磨き上げたグラスの向こうに映る、自分の、赤い瞳を、見つめていた。
この、モンドの、夜の闇には。
まだ、僕の知らない、何かが、潜んでいる。
**【影の忍び:早柚の視点】**
廃屋の、冷たい、石の床の上で、早柚は、傷だらけの身体を、横たえていた。
風龍廃墟の地下で、あのアビスの使徒と戦った時の傷が、まだ、熱を持っている。
歩くたびに、全身の骨が、軋むように、痛んだ。
だが、そんな、肉体的な痛みよりも、彼女を、苛んでいたのは、別の、感覚だった。
(……また、一つ、消えた)
彼女は、自分の、記憶の、一部が、綺麗に、抜け落ちていることに、気づいていた。
稲妻での、幼い頃の記憶。
神里屋敷の縁側で、トーマが作ってくれた、甘い点心を食べた記憶。
その味も、匂いも、思い出せない。
ただ、そんなことが、あったような気がする、という、曖昧な、感覚だけが、残っていた。
これが、代償。
これが、奇跡の、対価。
彼女は、傷ついた身体を、引きずるようにして、窓辺に、寄った。
そこからモンドの街が、一望できた。
街は光に満ちていた。
家々の窓からは、温かい光が漏れ、広場では、人々が、篝火を囲んで、歌い、踊っている。
その光景を、彼女は、ただ、黙って、見つめていた。
(……よかった)
心の中で、呟く。
(これで、よかったんだ)
ディルック様は、無事だった。街も、救われた。蛍も、パイモンも、笑っている。
拙が、望んだ、通りの、結果だ。
なのに、どうしてだろう。胸が、こんなにも、痛いのは。
彼女は、その光の輪の中に、決して、入ることはできない。
自分は、この平和な世界の、土台となった、ただの、礎石なのだから。
誰からも、知られず、誰からも、褒められることなく、ただ、この世界の、一番、暗くて、冷たい場所で、すべてを、支え続ける。
それが、拙の、役目なのだから。
遠くで、教会の、鐘の音が、鳴った。
それは、風魔龍との和解を、告げる、鐘の音だった。
人々が、ひときわ、大きな、歓声を上げる。
その、歓声を聞きながら、早柚は、静かに、涙を、流した。
その涙の、味ももう、彼女には、分からなかった。
* * *
後日。
風立ちの地で、蛍たちは、ウェンティと、最後の、会話を交わしていた。
そして、原作通り淑女が、現れ、ウェンティの「神の心」を、奪い去った。
その光景を、早柚は、遠くの木の上から見ていた。
(……これは、止められない)
これは、世界の大きな流れだ。拙が、介入してはいけない、領域。
この事件が、蛍を、次の国、璃月へと、導くのだから。
彼女は、唇を強く、噛み締めた。
自分の、無力さを改めて、思い知らされる。
拙のモンドでの、役目は、終わった。
彼女は静かに、その場を後にした。
蛍たちがモンドを発つのと、ほぼ同じタイミングで。
彼女もまた、誰にも気づかれず、次の戦いの舞台となる、璃月の地へと、その小さな影を、進めたのだった。