終のむじなが見た夢に 作:夜琥
モンドの空は、青かった。
早柚が、その地を、影のように去る時。
彼女が見たのは、一度目の記憶にある、絶望に煤けた空ではなく、自由の風が、どこまでも吹き渡っていくような、澄んだ青空だった。
(……これで、一つ)
彼女の介入によって、モンドは、本来のあるべき姿を取り戻した。だが、その代償として、彼女の存在は、また少し世界から、削り取られた。
勝利の味も、安堵の温もりも、今の彼女には、感じることができない。
ただ、契約を、一つ、果たしたという、冷たい、無機質な達成感だけが、残っていた。
璃月への道中、彼女は再び、影となった。
蛍たちの、数日先を行き、決して、その気配を、悟らせることなく、旅を続ける。
彼女の頭の中は、常に、思考が、渦巻いていた。
(モンドでの失敗は、拙(せつ)の、傲慢さが原因だった。知識を、過信し、真正面から、介入しようとした)
(一度目の璃月での失敗は、拙の、短絡さが原因だった。『公子を止めれば、オセルは復活しない』と、ただ、それだけしか、見ていなかった。人間を、状況を、あまりにも、浅く、考えていた)
(今度は、違う)
彼女は、心に、誓った。
(決して、目立たない。決して、歴史に直接、干渉しない。ただ、ほんの少しだけ、天秤の皿に、重りを乗せるだけだ。誰にも気づかれず、誰からも、認識されず、本来、あるべき歴史へと、事が運ぶように)
彼女は、もう、より良い結末を、望んではいなかった。
ただ、自らが知る「最善の歴史」を、寸分の狂いもなく、再現すること。
それが、今の、彼女の、すべてだった。
璃月港は、彼女の記憶の中にある、あの、活気に満ちた、偉大な港のままだった。
その光景を見るたび、一度目の世界で、石と化していった、人々の顔が、脳裏をよぎり、心が、軋むように痛んだ。
(……今度こそ、守る)
彼女は、港の最も雑然とした、裏路地の一角に、仮の寝床を見つけると、そこから物語が始まるのを静かに待った。
やがて、「迎仙儀式」の日が、訪れた。
早柚は、群衆に紛れ、その、歴史的な瞬間を、見つめていた。
天から墜ちてくる岩王帝君の亡骸。
人々の、悲鳴と混乱。千岩軍による、封鎖。
そして、容疑者として、その場から、逃走する、蛍とパイモン。
すべてが、「知識」の通りに進んでいく。
彼女は、ただ、それを見ていた。決して手を出さず、ただ、その流れを、肯定するように、見つめていた。
だが、この、二度目の世界は、もう彼女の知る、どちらの歴史とも、違っていた。
彼女という、あまりにも、巨大な「イレギュラー」の存在が、世界の理を、僅かにしかし、確実に、歪ませていたのだ。
その歪みに、最も、敏感に、反応したのは、世界そのものの「敵」だった。
アビス教団。
彼らは、本来の歴史では、この璃月の一件に、ここまで、深くは、介入してこなかったはずだった。
しかし、早柚は、見てしまったのだ。
蛍たちが、仙人を探しに、絶雲の間へと向かっている、その裏側で。
北国銀行に出入りする、ファデュイの兵士に紛れて、アビスの魔術師が、何やら、密談を交わしているのを。
(……おかしい)
早柚は、彼らの後を、追った。
彼らは、璃月港の、地下水路の、奥深くで、一度目の世界で見たものと、よく似た、しかし、より、強力な、呪いの儀式を、行っていた。
「ククク……ファデュイの道化も、間抜けなものよ。我らが、奴らの計画に、便乗していることにも、気づくまい」
「魔神オセルが、復活すれば、港は、大混乱に陥る。その隙に、この、アビスの呪詛を、地脈に流し込めば、この国は、内側から、腐り落ちる!」
(……!)
早柚は、息を呑んだ。
これが、この世界の、「イレギュラー」か。
拙の存在が、アビスの力を、増長させ、彼らに、本来、ありえなかったはずの、行動を、起こさせている。
このままでは、たとえ、蛍たちが、オセルを、止めたとしても、璃月は、別の形で、破滅する。
(……やるしか、ない)
彼女は、クナイを、強く、握りしめた。
早柚の、二正面作戦が、始まった。
表の舞台では、蛍たちが、「知っている歴史」の通りに、物語を進めていく。
鍾離と出会い、「送仙儀式」の準備を進める。その、平和な光景を、早柚は、屋根の上から、ただ、見守った。
蛍と、鍾離が、二人で、石商の元を訪れ、夜泊石を選んでいる。その、穏やかな光景。
(……鍾離様)
彼女は、そのあまりにも、人間離れした、男の本当の姿を、知っていた。
一度目の世界で、その、深淵の如き瞳に、見つめられた時の、恐怖を、忘れることはない。
彼がなぜ、神の座を、降りようとしているのか。
その、幾千年にもわたる、想いの、ほんの一端を、彼女は、理解していた。
だからこそ、一度目の世界で、彼の「試験」を、台無しにしてしまった、自分の罪が、より、重く、感じられた。
そして、夜になれば、彼女は、影の戦士となった。
アビス教団の、陰謀を、阻止するために、たった一人で、暗躍した。
地下水路の、儀式場を、急襲し、呪詛の源を、破壊する。儀式の、邪魔をされた、アビスの魔術師たちが、彼女に、襲いかかってくる。
「見慣れぬ、ネズミめが!」
「お前も、アビスの、糧となるがいい!」
炎と、氷と、水の、元素攻撃が、四方八方から、彼女を襲う。
早柚は、風の輪をまとい、その猛攻を、紙一重で、躱し続ける。
(……拙は、強くない。でも……)
彼女は、敵の、攻撃と、攻撃の、ほんの、一瞬の、隙間を、見抜く。
(……速さだけなら、誰にも、負けない!)
風のように、駆け抜け、クナイで、魔術師の、バリアの、核を、的確に、破壊する。
バリアを失い、無防備になったところに、渾身の、蹴りを、叩き込む。
それは、あまりにも、泥臭く、そして、孤独な、戦いだった。
戦いが、終わるたびに、彼女の身体には、新しい傷が、増えていった。
そして、それと、引き換えに、彼女の、遠い、過去の記憶が、また、一つ、また、一つと、霞んで、消えていく。
(……綾華様が、点ててくれた、お茶の、味は、どんなだったかな……)
そんな、思考が、不意に、頭をよぎり、彼女は、強く、首を振った。
感傷に、浸っている、暇はない。
そして、運命の日が、来た。
黄金屋で、蛍と、タルタリヤが、対峙する。
早柚は、その高い天井の、梁の上から、息を殺して、その様子を、見守っていた。
(……頼む、蛍。歴史の通りに、事を、運めてくれ……)
だが、彼女の、祈りも、虚しく。
タルタリヤは、「神の心」が、そこにないことを、知ると、不敵な笑みを浮かべ、懐から、「禁忌滅却の札」を、取り出した。
「残念だけど、ここからが、本番さ!」
彼が、札を、天に、かざす。
その瞬間、早柚は、動いた。
(……今だ!)
彼女が、この璃月で、やらねばならぬ、最後の、そして、最大の仕事。
彼女は、懐から、小さな、むじなの人形を取り出した。それは、彼女の、元素爆発の、媒体。
「――風よ!」
彼女は、それを黄金屋外壁の、ほんの、一部が、脆くなっている箇所へと、全力で、投げつけた。
轟音と共に、壁が、砕け散る。
「なっ!?」
タルタリヤが、驚きに、目を見開く。
その、ほんの、一瞬の、隙。
蛍の剣が、タルタリヤの、腕を、切り裂き、札が、宙を、舞った。
歴史が、変わった。
本来ならば、タルタリヤは、札を完全に、使い切りオセルを、復活させるはずだった。
だが、この予期せぬ妨害によって、札の解放は、不完全に終わったのだ。
海上で復活したオセルの咆哮が聞こえる。だが、その力は拙の知る、「本来の歴史」よりも、明らかに、弱々しかった。
その代償として、早柚の視界は、一瞬、完全に白く染まった。
(……ああ、若様の、顔が、思い出せない……)
強烈な喪失感が、彼女を襲う。だが、今は、まだ、倒れるわけには、いかない。
彼女は、最後の力を、振り絞り、群玉閣へと、向かった。
そこでは、歴史通り、仙人と、七星が、力を合わせ、オセルと、戦っていた。
弱体化したオセルは、もはや、彼らの敵ではなかった。
そして、凝光が、叫ぶ。
「私と共に、この、群玉閣の、すべてを、ご覧なさい!」
空中宮殿が、オセルの上へと、墜ちていく。
璃月は、救われた。
それも、本来の歴史よりも、ずっと、少ない、犠牲で。
遠くの山頂から、その光景を見届けた、早柚は、その場に静かに、崩れ落ちた。
(……やった……。今度こそ、うまく、やれた……)
安堵と、そして凄まじい、疲労感。
彼女の身体は、もう、限界だった。存在が、あまりにも、希薄に、なっている。
それでも、彼女は、立ち上がらなければならなかった。
まだ、終わっていないのだから。
最後の、そして最も困難な舞台が残っている。
故郷、稲妻。
彼女は、霞んでいく意識の中で、ただ、その二文字だけを、心に、刻み付けた。