終のむじなが見た夢に   作:夜琥

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16. 木霊の囁き

璃月を後にした船が稲妻の海域へと入ると、空は一変した。

 

つい先ほどまでの穏やかな瑠璃色の空はどこにもなく、分厚い紫色の雷雲が空を低く覆い尽くし、ゴロゴロと地の底から響くような雷鳴が絶え間なく続いている。

 

時折、海面を引き裂くように紫電が走り、船を激しく揺さぶった。

 

早柚は船室の小さな窓から、その荒れ狂う故郷の海をただ黙って見つめていた。

 

(……泣いている、みたいだ)

 

この国が、目狩り令という深い病に苦しみ、泣いている。

彼女にはそのように思えた。

 

モンドを救い、璃月も救った。だがその代償として、彼女の存在はさらに希薄になっていた。

 

もう右腕感覚はほとんどない。

 

 

 

時折自分の過去の記憶が、まるで知らない誰かの物語のように、他人事のように感じられることがある。

 

 

(……でも、まだ、終われない)

 

彼女は懐から古びたむじむじだるまを取り出した。

一度目の世界で、蛍の亡骸の傍らに残されていた、ただ一つの思い出の品。

 

(これを、いつか、笑っている蛍に渡すんだ)

 

そのたった一つの願いだ

けが、すり減っいく彼女の魂を、かろうじてこの世界に繋ぎ止めていた。

 

 

稲妻の玄関口である離とうは、彼女の記憶の中にあるどの時点よりも殺伐としていた。

 

 

幕府の役人たちの鋭い視線が絶えず人々を監視している。

誰もが息を潜め、隣人すら信用できないといったような不信の空気が、島全体を支配していた。

 

早柚は旅の商人一座に紛れ込むようにして、どうにか鳴神島へと渡った。

 

そして、彼女はまず自らの拠点を探した。

 

一度目の世界で何もかもを失った後、蛍たちに見つけられるまで身を潜めていたあの洞穴は、もう使えない。

 

感傷は、今の彼女にとって最も危険な毒だ。

 

彼女が新たな寝床として選んだのは、鎮守の森のさらに奥深く、ほとんど人が足を踏み入れることのない、古びた小さな社の床下だった。

そこならば雨風を凌げ、そして誰の目にも触れることはない。

 

彼女はそこで、最後の、そして最も緻密な計画を練り始めた。

 

(一度目の稲妻での失敗の原因……)

 

彼女は洞穴の土の壁に、木の枝で図を描き出す。

 

(拙の情報提供が完璧すぎた。だから九条裟羅は、その情報の異常な精度に気づいてしまった)

 

(そして彼女の鋭い思考は、最もありえない、しかし最も論理的な結論へとたどり着いた。社奉行、神里家、という結論に)

 

(今度は違う)

 

彼女は一度目を閉じた。

 

(抵抗軍を勝たせてはいけない。いや、勝ちすぎさせてはいけないんだ)

 

(拙がやるべきことは、戦争を終わらせることじゃない。ただ、歴史を本来のあるべき流れに戻すこと。そのためには、むしろファデュイの暗躍や抵抗軍の苦境すらも、ある程度許容しなければならない)

 

(そして、九条裟羅の疑念の矛先を、別の、もっともらしい標的へと逸らすんだ)

 

それはもはや英雄のそれではなく、歴史の裏側で、すべてを操ろうとする、冷徹な傀儡師の思考だった。

 

計画の第一段階として、彼女は抵抗軍へと再び接触した。だが、彼女がもたらす情報は、以前とは全く違っていた。

 

海祇島の、ある寂れた祠。そこに、一枚の木の葉が、そっと置かれる。

 

『――九条陣屋、西の警備、手薄』

 

その、たった一文だけ。いつ、何が、という具体的な情報は一切ない。

 

その報告は、海祇島の、抵抗軍の作戦本部に、小さな、しかし、確かな波紋を広げていた。

 

「……なんだ、これは?」

 

抵抗軍の大将、ゴローは、眉間に深い皺を寄せ、届けられた木の葉を、睨みつけていた。

 

「偵察兵によれば、八酝島の、寂れた祠に、突き刺さっていたと。誰が、何のために……」

 

部下の一人が、困惑したように報告する。

 

「罠、でしょうか? 我々を誘き出すための、幕府軍の」

 

「……かもしれん。だが、この、西の警備が手薄、という情報は、我らが掴んでいる情報とも、一部、合致する」

 

ゴローは、腕を組み、唸った。

 

「……よし。偵察部隊を、二隊、送れ。一隊は、陽動だ。もう一隊で、情報の真偽を確かめろ。決して、深追いはするな。何かあれば、すぐに、撤退しろ」

 

「はっ!」

 

その夜、ゴローの元に、吉報が、もたらされた。

 

情報は、真実だった。手薄になった陣屋を奇襲し、僅かながらも、幕府軍の兵糧を、焼き払うことに成功した、という。

 

「……信じられん。一体、誰が……」

 

それは戦況を大きく変えるほどの勝利ではない。だが、連敗続きだった抵抗軍の士気を、わずかに回復させるには十分だった。

 

「我々に、味方する、何者かがいる、ということでしょうか……?」

 

「……分からん。だが、警戒は、怠るな。この『木霊の囁き』が、いつ、我らを、裏切るとも、限らんのだからな」

 

ゴローは、そう言って、部下を下がらせた。そして、一人、地図を睨みながら、呟いた。

 

「……正体不明の、味方、か。面白い……」

 

早柚は、その報告を、遠くから、聞きながら、ただ静かに、次の手を打っていた。

第二段階。九条裟羅の、目を、欺くこと。

 

早柚は、ファデュイの下級兵士の兵舎へと忍び込んだ。

 

そして、一人の兵士の私物の中に、一枚の、暗号化された密書を、忍び込ませた。

 

その密書は、彼女が偽造したものだ。内容は、先日、抵抗軍が奇襲に成功した、あの、西の警備に関する情報。

そして、ごく僅かな報酬が、支払われたことを示唆する文面。

 

数日後、その兵士は、些細な別の罪で、天領奉行に捕らえられた。そして、持ち物検査で、その密書が、「発見」された。

 

「……やはり、ファデュイか」

 

報告を受けた、九条裟羅は、深く、眉を寄せた。

 

「あの、胡散臭い、スネージナヤの者どもが、抵抗軍にも情報を横流ししていた、ということか。我らを互いに争わせ、漁夫の利を得るつもりなのだろう。……許せん」

 

彼女の疑念は、神里家ではなく、ファデュイへと向かった。

 

早柚の計画は、今のところ、完璧に進んでいた。

 

だが、その完璧な計画の裏側で、彼女の存在は、確実に、蝕まれていた。

ある夜、彼女は、懐かしい人影を、夢に見た。神里屋敷の庭先で、いつも、おやつを渡してくれていたトーマの姿だ。

『早柚、背を伸ばすためには腹ごしらえも大事だ!ってことでこれ、作りすぎたからあげるよ。あとで感想聞かせてな』

 

そう言って、笑う、彼の顔が。声が。

 

思い出せない。

 

思い出そうとすればするほど、その記憶は、指の間をすり抜ける砂のように、さらさらと、消えていく。

 

「……あ……」

 

早柚は、暗い古井戸の底で、目を覚ました。

 

頬を、冷たい何かが、伝っていく。それが、涙であるという感覚すら、もう、曖昧だった。

 

(また、何かが、消えた。拙の中から、大事なものが、ひとつ、零れ落ちた。この、空っぽになっていく感覚が怖い。でもこれが拙が支払わなければならない、代償なんだ。死なせてしまったみんなへの償いなんだ)

 

彼女は、そう、自分に、言い聞かせた。

 

そして、彼女は、二度目の世界で、初めて、あの、運命のいたずらに直面する。

 

蛍が、目狩り令の、百個目の儀式の対象となった、トーマを救うために、天守閣の前で、雷電将軍と対峙する、あの日。

 

早柚は、一度目の、破滅した歴史の記憶から、その戦いがいかに危険なものかを、知っていた。

蛍は一度敗北する。

 

そして、トーマの助けがなければ、命を落としていたかもしれない。

 

(……助けに、行くべきか?)

 

心が揺れる。

 

(いや……駄目だ。拙が出ていけば、また、歴史が、大きく、変わってしまう)

 

本来の、成功する歴史では、蛍は、ここで敗北する。

 

だが、その敗北こそが、彼女を、抵抗軍へと導き、そして、八重神子との出会いに繋がるのだ。

彼女は、歯を、食いしばった。

 

ただ、見守るしかない。

友人が、神の圧倒的な力の前に打ちのめされるのを、ただ、指を咥えて、見ているしかないのだ。

 

それは、アビスの使徒と、たった一人で戦うことよりも、ずっと、ずっと、苦しい戦いだった。

 

彼女は、遠くの屋根の上から、雷光に照らし出される、蛍の小さなシルエットを、ただ、見つめていた。

 

その瞳からは、もう、何の感情も、読み取ることはできなかった。

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