終のむじなが見た夢に   作:夜琥

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17. 邪眼の深淵

モンドの空は、守られた。

璃月の契約も、本来の形を取り戻した。

 

だが、早柚の心は、晴れることはなかった。

 

むしろ、成功を重ねるたびに、彼女の魂は、まるで、薄氷の上を歩くかのように、その危うさを、増していった。

 

代償として失っていく、自らの記憶。

そして、何よりも、彼女の存在そのものが、この世界の理を、歪ませている、という、拭い去れない、事実。

 

その歪みは、常に世界の最も暗い場所を、刺激する。

 

稲妻に戻った彼女を待っていたのは、安らぎではなかった。

 

蛍たちが雷電将軍に一度目の敗北を喫し、お尋ね者として抵抗軍に身を寄せる。

 

すべては、「知っている歴史」の通りに、進んでいるように見えた。

 

早柚は影に徹した。

 

決して、表舞台には出ない。

ただ、歴史が本来のあるべき道筋から、外れないように、その流れを、見守り続ける。

 

だが、彼女は、気づいてしまったのだ。

この、二度目の世界の稲妻の戦場に、一度目の世界にはなかった、新たな「毒」が、流れ込んでいることに。

 

海祇島の抵抗軍の陣営。

 

早柚は、夜陰に紛れて、そこに、潜入していた。

 

目的は、兵士たちの士気の確認。

 

そして何よりも、ファデュイが、裏で兵士たちに配っているという「邪眼」の影響を調査するためだった。

 

兵士たちの士気は高かった。あまりにも高すぎた。

 

「ははは! 見たか、今日の、俺の、戦いっぷり!」

 

「ああ、哲平! お前、最近、すごいじゃないか! まるで、鬼神のようだったぞ!」

 

陣営の片隅で哲平と呼ばれた若い兵士が、仲間たちと自らの手柄を誇らしげに語らっている。

 

彼の顔は高揚感で、赤く上気していた。

 

だが、早柚の忍びとしての、目は、見逃さなかった。

 

彼のその、不自然な高揚感の奥底に潜む、深い、深い、疲労の色と、そしてその命が、まるでろうそくのように、凄まじい勢いで、燃え尽きようとしている、その、不吉な、兆候を。

 

(……これが、邪眼……)

 

知っている。この力は、人間が、安易に、手にしていいものではない。その代償は、命だ。

 

だが、それだけではなかった。

 

早柚は、哲平の、身体から、放たれる、元素の、残滓の中に、微かな、しかし、間違いなく、一度目の世界にはなかった、異質な、気配を、感じ取っていた。

 

(……アビスの、力……?)

 

それは、モンドの、地下で、感じたものと、同質の、気配。

 

(……まさか)

 

早柚の背筋を、冷たい汗が伝った。

 

(ファデュイの邪眼にアビス教団が、干渉している……? 拙の存在がまた新たな最悪のイレギュラーを、生み出してしまったというのか……?)

 

このままでは、兵士たちは、ただ命を削るだけではない。その魂ごと、アビスの、汚染に、取り込まれてしまうかもしれない。

 

(……止めないと)

 

だが、どうやって?

 

心海様や、ゴロー様に、直接訴える?

 

正体不明の「木霊」の言葉を彼らが信じるだろうか。

いや、それどころか、拙の介入が、またどんな予期せぬ事態を招くか分からない。

 

早柚は、唇を、強く、噛み締めた。

 

彼女が、選んだ方法は、あまりにも、地味で、そして、遠回りなものだった。

 

彼女は、ファデュイの邪眼の製造工場と思われる場所へと向かった。

そしてその物資の輸送ルートにほんの少しだけ手を加えたのだ。

 

例えば輸送用の荷車の留め金を一本だけ、緩めておく。あるいは、輸送ルートの、途中の橋の強度をわずかに弱めておく。

 

それは、誰にも、気づかれない、ほんの、些細な、妨害工作。

 

結果、邪眼の供給は滞った。「原因不明の輸送トラブルが相次いでいる」という、報告だけがファデュイの陣営を苛立たせた。

 

そのわずかな時間稼ぎが、珊瑚宮心海に邪眼の危険性を調査する猶予を与えることになったのを、早柚はまだ知らなかった。

 

そして運命の日が来た。

 

哲平が死んだ。

 

その報を人づてに聞いた蛍は、激しい怒りに駆られた。

そして、単身邪眼の製造工場へと、乗り込んでいく。

 

(……駄目だ、蛍!)

 

早柚は、慌てて、その後を、追った。

 

知っているのだ。

その先には、ファデュイ執行官「散兵」の、罠が、待っていることを。

 

製造工場は、オロバシの、祟り神の怨嗟が渦巻く危険な場所だった。

一度目の世界では、蛍は、その怨嗟に、飲み込まれかけ、危うく意識を失うところだった。

 

そして、この、二度目の世界では。

アビスの力が、混じった怨嗟は、一度目の比ではなかった。

 

工場に、足を踏み入れた、瞬間。凄まじい、負のエネルギーが、蛍を、襲う。

 

「ぐっ……うぅ……!」

 

「蛍! しっかりしろ!」

 

パイモンが、叫ぶ。

 

だが、蛍は、膝から崩れ落ちた。怒りの感情が、怨嗟を増幅させ彼女の精神を内側から蝕んでいく。

 

そして、その光景を、散兵が高みから見下ろし嘲笑っていた

 

「ははは! いい様だ! 神々への、怒りに、身を任せそのまま怨念の、一部となるがいい!」

 

(……まずい!)

 

早柚は見ていた。

 

蛍の、意識が完全に闇に飲まれようとしているのを。

八重神子が、助けに来てくれるはずだ。だが、間に合うか?

この、増幅された、怨嗟の中では、それすらも、定かではない。

 

早柚は覚悟を決めた。

彼女は物陰から飛び出すと印を結んだ。

 

「――風よ!」

 

それは攻撃ではない。

 

彼女の元素爆発。その、治癒能力だけを、極限まで高めた一撃。

 

巨大な、むじむじだるまが、蛍のすぐ傍に出現した。

そしてそのだるまから、清浄な風の元素が溢れ出し、渦を巻く怨嗟のほんの一部を中和していく。

 

それは、焼け石に水だったかもしれない。

 

だが、そのほんの一瞬の浄化が。

 

蛍の意識をかろうじて繋ぎ止めた。

 

「――そこまでじゃ、道化の小僧」

 

その時、空間が歪み艶やかな声と共に、八重神子が舞い降りた。

 

散兵は忌々しげに舌打ちをすると、その場から姿を消す。

 

八重神子は倒れている蛍に歩み寄った。

 

そして、ふと、ほんの一瞬だけ眉を寄せ、周囲の空気を探るように、鼻をくん、と鳴らした。

 

(……気づかれた!?)

 

早柚の、心臓が、凍りついた。

 

だが、八重神子は早柚が隠れている物陰の方を見ることはなかった。

彼女は、ただ、独り言のように、呟いた。

 

「……ふむ、妙じゃの。散兵の奴の力と、オロバシの怨嗟……それだけではない。もう一つ、まるで、通りすがりの、そよ風のような、しかし、妙に、芯の通った、風の匂いが、混じっておる。面白い……実に、面白いことじゃ」

 

彼女は、何かが、あったことには、気づいている。だが、その、正体までは、見抜けてはいない。

 

早柚は、ただ、息を殺してその場から消えることしかできなかった。

 

(……まずい、まずい、まずい……!)

 

代償として、また、記憶が、薄れていく。

 

今度は、神里屋敷の庭の匂いが、思い出せなくなっていた。

あの雨上がりの土の匂いも、緋櫻の甘い香りも。

 

それでも、彼女は、進むしかない。

 

その後、歴史は彼女の知る「正しい流れ」へと収束していった。

 

八重神子の元で修行を積んだ蛍。

 

天領奉行の裏切りを知り、自らの正義に苦悩する九条裟羅。

 

そして、天守閣での淑女(シニョーラ)との御前試合とその衝撃的な結末。

 

早柚は、そのすべてを影から、見守り続けた。

 

もう、彼女が手を下す必要はなかった。

 

ただ、他に、イレギュラーが発生しないか、それだけを、監視し続けた。

 

彼女は、もはや、物語の登場人物ではなかった。

ただ、ひたすらに、舞台装置が正しく動くかどうかを、確認するだけの、名もなき、舞台係だった。

 

そして、ついに、最後の決戦の時が来た。

 

旅人が、楓原万葉と共に、再び天守閣の雷電将軍の元へと挑む。

 

早柚は、稲妻城の一番高い屋根の上からその光景を見つめていた。

 

彼女の身体は、もう、月の光に透けて見えるほど、希薄になっていた。

 

(……頼む)

 

心の中で祈る。

 

(拙の過ちをどうか正してくれ)

 

(蛍……。今度こそ、あなたが、この長い戦いを終わらせるんだ)

 

その祈りが届いたのか。

 

歴史はついに、彼女が望んだ結末へとたどり着いた。

 

万葉が友の願いを受け継ぎ、雷電将軍の無想の一太刀を受け止める。

 

そして、蛍が皆の願いを背負い、将軍の心の中にいる本当の彼女との対話を果たす。

 

目狩り令は、撤廃され稲妻にようやく本当の平和が訪れた。

 

歓声が遠くに聞こえる。

 

それを見届けた、早柚は、ふらり、と、その場に膝をついた。

 

(……終わった)

 

モンドを、救った。

 

璃月を、救った。

 

稲妻も、救った。

 

そして、何よりも。

 

(……蛍が生きている)

 

その、事実だけが彼女の、すり減り、消えかかっている、魂を温かいもので満たした。

 

もう思い残すことはない。

 

彼女は、屋根の上に静かに横たわった。ひんやりとした瓦の感触が、燃えるように熱い身体に、心地よかった。

 

(……ああ、なんだか、すごく、眠たいな……)

 

一度目の世界で、すべてを失ってから、ずっと、張り詰めていた、緊張の糸が、ぷつり、と、切れたかのようだった。

 

もう、走らなくて、いいんだ。

 

もう、隠れなくても、いいんだ。

 

もう、誰かの、運命を、背負わなくても、いいんだ。

 

世界の理に、怯えなくても、いい。

 

自分の、影から、逃げなくても、いい。

 

(……これで……やっと……安心して、お昼寝が、できる……)

 

それは、彼女がこの長くて辛い戦いの旅に出るきっかけとなった、最初の、そして、最後の願いだった。

 

早柚の口元に、ほんの、わずかな、安堵の笑みが浮かんだ。

 

早柚は、そのあまりにも大きな代償を払って手に入れた、永遠の安らぎへと、ゆっくり意識を沈めていった。

 

最後の代償が支払われる。

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