終のむじなが見た夢に 作:夜琥
稲妻の空を覆っていた分厚い雷雲は、嘘のように消え去った。
眼狩り令は撤廃され、国を二分した内乱は終わりを告げた。
雷電将軍は永遠を追い求めるその孤独な道から一歩踏み出し、民と共に歩むことを選んだ。
鎖国令も解かれ、離とうの港には、異国の船が、活気よく、行き交っている。
街には、人々の明るい笑い声が戻ってきた。
それは、誰もが夢見た平和な日常。
だが、そのあまりにも完璧な大団円の裏側で。いくつかの小さな無視できない「謎」が、まるで水面に広がる波紋のように、人々の心へ静かに残されていた。
**【社奉行神里家・茶室にて】**
「旅人さん。あなたには、いくら感謝してもしきれません」
静かな茶室に、神里綾華の、凛とした、しかし、温かい声が響く。
彼女が、丁寧な所作で点ててくれた抹茶は、深い、翠色をしていた。
「あなたが、いなければ稲妻は、今も偽りの永遠の中に閉ざされていたことでしょう。私…兄上、そして、トーマも……。本当に、ありがとうございました」
彼女は、畳に手をつき深々と、頭を下げた。
「ううん、そんなことないよ。綾華たちが、最後まで諦めずに、戦ってくれたからだよ」
蛍は、そう言って慌てて彼女に、顔を上げさせた。
隣では、トーマが、にこにこと、笑いながら手作りの和菓子を勧めてくる。
「さあさあ、旅人も、パイモンも、遠慮せず! これは、俺の、自信作なんだ! 祝勝会だから、今日は存分に、楽しんでいってくれ!」
「やったー! トーマの飯、だーい好き!」
パイモンが、嬉しそうに和菓子に、飛びつく。
その、あまりにも、平和で、温かい光景に、蛍の心も、満たされる。
すべてが、救われたのだ。
そう、思う、はずなのに。
どうしてだろう。心のどこか片隅に。小さな霧のようなものがずっとかかっている。
「そういえば……」
蛍は、思い出したように、切り出した。
「邪眼の工場で、散兵の罠にかかった時、私、もう駄目だと思ったんだけど……。あの時なんだか、不思議な風が吹いたような気がしたの。すごく優しくて、温かい風が……。あれで、少しだけ、意識が、はっきりして……」
その言葉に綾華は、優雅に微笑んだ。
「それはきっと、この稲妻の自由を願う人々の想いが、風となってあなたを助けてくれたんですよ。あなたはそれだけのことをしてくださったのですから」
「……うん。そうだね。そうなのかもしれないね」
蛍は、そう言って、頷いた。
だが、霧は晴れなかった。
あの風の感触。それはどこかで一度感じたことがあるような、ひどく懐かしい匂いがしたのだ。
「そういえば、早柚は、どうしてるんだろう?」
トーマが、ふと、思い出したように、言った。
「あの子、内乱の間なんだか様子がおかしかったんだよな。いつも通りサボってばかりいるのは変わらないんだが……」
トーマは、少し首を傾げた。
「時々、妙な成果を上げてくるんだよ。例えば、幕府軍の極秘の輸送計画を偶然昼寝中に聞いてしまった、とか言って報告してきたり。その情報が、また驚くほど正確で。若も、『彼女の眠りには何か特別な力でもあるのだろうか』なんて、冗談を、言っていたよ」
「え……?」
蛍は、驚いて顔を上げた。
「早柚が……そんな、すごいことを?」
「ああ。まあ本人は、手柄を立てたというよりは、『これで、また、しばらく、昼寝ができるぞ』って、満足そうな顔をしていたんだけどね。でも、あの子のおかげで助かった局面もあったんだよ。不思議だよね」
その言葉に、蛍の心の中の、霧がさらに濃くなった。
(早柚が……? あの、面倒くさがりな、早柚が、そんな、大事な情報を……?)
それは、まるで、誰かが彼女にそっと答えを教えてあげているかのようだった。
**【神里屋敷・庭にて】**
早柚は大きな緋櫻の木の下で、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
今日の仕事はすべて終わった(ということにして、サボってきた)。
今こそ最も重要な任務――身長を伸ばすための睡眠の時間だ。
「――おーい! 早柚ー! こんなところで寝てるんじゃないぞー!」
その穏やかな時間を破ったのは、聞き慣れた大声だった。
早柚はむっつりと目を開ける。
目の前にはパイモンがぷかぷかと浮いていた。
そして、その後ろから蛍と綾華様がこちらに歩いてくる。
「……むにゃ……うるさいぞちびすけ。拙は、成長期なのだ。睡眠の邪魔をするな」
「だーれが、ちびすけだ! お前だってちっちゃいじゃないか!」
ぷんぷんと、怒るパイモンを、蛍が、まあまあ、となだめている。そして、彼女は早柚の前にしゃがみこんだ。
その金色の瞳が、じっと、こちらを、見つめてくる。なぜか、少しだけ悲しそうな、目をしている。
「こんにちは、早柚。えっと……ありがとう」
「……?」
早柚は、きょとんとして、首を傾げた。
「……何がだ? 拙、何かしたか? 仕事なら、ちゃんと終わらせてきたぞ。たぶん」
あまりにも、いつも通りの悪びれない態度に、蛍は言葉に詰まった。
「ううん、そういうことじゃなくて……」
彼女は自分の荷物の中から、一つのものを取り出した。
それは、いつ誰から貰ったのかも全く覚えていない古びた「むじむじだるま」
「これ…見覚えないかな?」
早柚はそのだるまを、じっと見つめ首を傾げた。
「……拙の、むじむじだるまに似てるな。でもこんなに古びてないぞ。それに……」
彼女はくんくん、と匂いを嗅ぐ。
「……なんだか、悲しい匂いがする」
その純粋な一言に、蛍は息を呑んだ。
「まあいいや」
早柚は興味を、失くしたように、ごろん、と、寝返りを打った。
「ふぁ〜……。もういいだろう? 拙は寝るぞ。おやすみ……」
そのあまりにも、マイペースな姿に、綾華と蛍は、顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。
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その夜。
蛍は、木漏茶屋の自室で一人考え事をしていた。
綾華も、トーマも、ゴローも、心海も、みんな生きている。そして笑っている。
早柚もいつも通り、元気に昼寝をしている。
完璧な結末。
なのに、この胸の痛みはなんだろう。
彼女は手に持ったむじむじだるまを、ぎゅっと、握りしめた。
(……やっぱり、いたんだ)
彼女は確信していた。
この世界を、救ってくれた、もう一人の「誰か」が。
その誰かは、早柚と同じ姿をしていたのかもしれない。同じ気配を持っていたのかもしれない。
だがその誰かは、今もうこの世界のどこにもいない。
その事実だけが確かな重みを持って、蛍の心にのしかかっていた。
(……探しに、行かなくちゃ)
たとえ、その名前も顔も思い出せなくても。
この平和な稲妻のどこかに残された、その名もなき恩人の痕跡を。