終のむじなが見た夢に   作:夜琥

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18. 緋櫻に寄せる夢

稲妻の空を覆っていた分厚い雷雲は、嘘のように消え去った。

眼狩り令は撤廃され、国を二分した内乱は終わりを告げた。

 

雷電将軍は永遠を追い求めるその孤独な道から一歩踏み出し、民と共に歩むことを選んだ。

 

鎖国令も解かれ、離とうの港には、異国の船が、活気よく、行き交っている。

 

街には、人々の明るい笑い声が戻ってきた。

 

それは、誰もが夢見た平和な日常。

 

だが、そのあまりにも完璧な大団円の裏側で。いくつかの小さな無視できない「謎」が、まるで水面に広がる波紋のように、人々の心へ静かに残されていた。

 

**【社奉行神里家・茶室にて】**

 

「旅人さん。あなたには、いくら感謝してもしきれません」

 

静かな茶室に、神里綾華の、凛とした、しかし、温かい声が響く。

彼女が、丁寧な所作で点ててくれた抹茶は、深い、翠色をしていた。

 

「あなたが、いなければ稲妻は、今も偽りの永遠の中に閉ざされていたことでしょう。私…兄上、そして、トーマも……。本当に、ありがとうございました」

 

彼女は、畳に手をつき深々と、頭を下げた。

 

「ううん、そんなことないよ。綾華たちが、最後まで諦めずに、戦ってくれたからだよ」

 

蛍は、そう言って慌てて彼女に、顔を上げさせた。

 

隣では、トーマが、にこにこと、笑いながら手作りの和菓子を勧めてくる。

 

「さあさあ、旅人も、パイモンも、遠慮せず! これは、俺の、自信作なんだ! 祝勝会だから、今日は存分に、楽しんでいってくれ!」

 

「やったー! トーマの飯、だーい好き!」

 

パイモンが、嬉しそうに和菓子に、飛びつく。

その、あまりにも、平和で、温かい光景に、蛍の心も、満たされる。

 

すべてが、救われたのだ。

 

そう、思う、はずなのに。

 

どうしてだろう。心のどこか片隅に。小さな霧のようなものがずっとかかっている。

 

「そういえば……」

 

蛍は、思い出したように、切り出した。

 

「邪眼の工場で、散兵の罠にかかった時、私、もう駄目だと思ったんだけど……。あの時なんだか、不思議な風が吹いたような気がしたの。すごく優しくて、温かい風が……。あれで、少しだけ、意識が、はっきりして……」

 

その言葉に綾華は、優雅に微笑んだ。

 

「それはきっと、この稲妻の自由を願う人々の想いが、風となってあなたを助けてくれたんですよ。あなたはそれだけのことをしてくださったのですから」

 

「……うん。そうだね。そうなのかもしれないね」

 

蛍は、そう言って、頷いた。

 

だが、霧は晴れなかった。

あの風の感触。それはどこかで一度感じたことがあるような、ひどく懐かしい匂いがしたのだ。

 

「そういえば、早柚は、どうしてるんだろう?」

 

トーマが、ふと、思い出したように、言った。

 

「あの子、内乱の間なんだか様子がおかしかったんだよな。いつも通りサボってばかりいるのは変わらないんだが……」

 

トーマは、少し首を傾げた。

 

「時々、妙な成果を上げてくるんだよ。例えば、幕府軍の極秘の輸送計画を偶然昼寝中に聞いてしまった、とか言って報告してきたり。その情報が、また驚くほど正確で。若も、『彼女の眠りには何か特別な力でもあるのだろうか』なんて、冗談を、言っていたよ」

 

「え……?」

 

蛍は、驚いて顔を上げた。

 

「早柚が……そんな、すごいことを?」

 

「ああ。まあ本人は、手柄を立てたというよりは、『これで、また、しばらく、昼寝ができるぞ』って、満足そうな顔をしていたんだけどね。でも、あの子のおかげで助かった局面もあったんだよ。不思議だよね」

 

その言葉に、蛍の心の中の、霧がさらに濃くなった。

 

(早柚が……? あの、面倒くさがりな、早柚が、そんな、大事な情報を……?)

 

それは、まるで、誰かが彼女にそっと答えを教えてあげているかのようだった。

 

**【神里屋敷・庭にて】**

 

早柚は大きな緋櫻の木の下で、気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 

今日の仕事はすべて終わった(ということにして、サボってきた)。

 

今こそ最も重要な任務――身長を伸ばすための睡眠の時間だ。

 

「――おーい! 早柚ー! こんなところで寝てるんじゃないぞー!」

 

その穏やかな時間を破ったのは、聞き慣れた大声だった。

 

早柚はむっつりと目を開ける。

 

目の前にはパイモンがぷかぷかと浮いていた。

 

そして、その後ろから蛍と綾華様がこちらに歩いてくる。

 

「……むにゃ……うるさいぞちびすけ。拙は、成長期なのだ。睡眠の邪魔をするな」

 

「だーれが、ちびすけだ! お前だってちっちゃいじゃないか!」

 

ぷんぷんと、怒るパイモンを、蛍が、まあまあ、となだめている。そして、彼女は早柚の前にしゃがみこんだ。

 

その金色の瞳が、じっと、こちらを、見つめてくる。なぜか、少しだけ悲しそうな、目をしている。

 

「こんにちは、早柚。えっと……ありがとう」

 

「……?」

 

早柚は、きょとんとして、首を傾げた。

 

「……何がだ? 拙、何かしたか? 仕事なら、ちゃんと終わらせてきたぞ。たぶん」

 

あまりにも、いつも通りの悪びれない態度に、蛍は言葉に詰まった。

 

「ううん、そういうことじゃなくて……」

 

彼女は自分の荷物の中から、一つのものを取り出した。

 

それは、いつ誰から貰ったのかも全く覚えていない古びた「むじむじだるま」

 

「これ…見覚えないかな?」

 

早柚はそのだるまを、じっと見つめ首を傾げた。

 

「……拙の、むじむじだるまに似てるな。でもこんなに古びてないぞ。それに……」

 

彼女はくんくん、と匂いを嗅ぐ。

 

「……なんだか、悲しい匂いがする」

 

その純粋な一言に、蛍は息を呑んだ。

 

「まあいいや」

 

早柚は興味を、失くしたように、ごろん、と、寝返りを打った。

 

「ふぁ〜……。もういいだろう? 拙は寝るぞ。おやすみ……」

 

そのあまりにも、マイペースな姿に、綾華と蛍は、顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。

 

---

 

その夜。

 

蛍は、木漏茶屋の自室で一人考え事をしていた。

 

綾華も、トーマも、ゴローも、心海も、みんな生きている。そして笑っている。

 

早柚もいつも通り、元気に昼寝をしている。

 

完璧な結末。

 

なのに、この胸の痛みはなんだろう。

 

彼女は手に持ったむじむじだるまを、ぎゅっと、握りしめた。

 

(……やっぱり、いたんだ)

 

彼女は確信していた。

 

この世界を、救ってくれた、もう一人の「誰か」が。

 

その誰かは、早柚と同じ姿をしていたのかもしれない。同じ気配を持っていたのかもしれない。

 

だがその誰かは、今もうこの世界のどこにもいない。

 

その事実だけが確かな重みを持って、蛍の心にのしかかっていた。

 

(……探しに、行かなくちゃ)

 

たとえ、その名前も顔も思い出せなくても。

 

この平和な稲妻のどこかに残された、その名もなき恩人の痕跡を。

 

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