終のむじなが見た夢に 作:夜琥
暖かかった。
うなじを撫でる風は柔らかく、木々の葉を揺らす音は、寄せては返す穏やかな波のようだ。
瞼の裏にまで染み通るような木漏れ日が、世界がきらきらと輝いていることを教えてくれる。
背中に感じる、ざらりとした木の幹の感触が心地よい。全身の力が抜け、意識が水飴のようにとろりと溶けていく。
(……うん。このまま眠れば、きっと背が伸びる)
それが、早柚の世界のすべてだった。
終末番の仕事は、どうにも拙の性に合わない。
隠密行動や情報収集は得意だが、それはあくまで、人知れず昼寝のできる場所を探したり、面倒な仕事を押し付けられる前に姿をくらませたりするために磨かれた技術だ。
皆、拙のことを怠け者だと言うけれど、これは断じて怠惰ではない。成長のための、極めて重要で戦略的な活動なのだ。
今日もまた、早柚は完璧な昼寝スポットを見つけ出していた。
神里屋敷の裏手、鎮守の森に続く小高い丘にある、一番大きな緋櫻の木。
その太い枝の上は、程よく葉が茂って直射日光を遮り、心地よい木陰を作ってくれる。
ここなら社奉行の使いも、終末番の仲間たちも見つけられないだろう。
「さーゆー! またサボって! 若様がお呼びよー!」
遠くから、聞き慣れた声が聞こえる。
きっと、終末番の先輩の誰かだ。拙は、むじなの術で木の葉に紛れ、気配を完全に消した。
足音がいくつか通り過ぎ、やがて諦めたように遠ざかっていく。
(ふぅ……危なかった)
あと少しで見つかるところだった。まったく、拙の貴重な成長時間を邪魔しないでほしい。
再び意識を眠りの縁へと沈ませようとした、その時だった。
――ピキ、と。
まるで、頭蓋の内側で硝子が割れるような、鋭い音がした。
「……え?」
瞬間、世界が反転した。
暖かな木漏れ日も、穏やかな風の音も、すべてが掻き消える。代わりに、脳髄に直接、膨大な情報が濁流となって流れ込んできた。
知らない風景。知らない声。知らない感情。
モンドという名の、自由を謳う都。風と共に駆け抜ける緑の吟遊詩人。
雪に閉ざされた、氷の国の女皇。岩の神が統べる、契約の国。
見たこともない景色、会ったこともない人々の人生が、数百年分の映画を早送りで観せられるかのように、凄まじい速度で脳を駆け巡っていく。
戦い。出会い。別れ。陰謀。裏切り。そして、世界の根幹に関わる、巨大な秘密。
最後に、金色の髪をした旅人の姿が、鮮明に映し出された。彼女が七つの国を巡り、神々と出会い、そして、自らの片割れを探す、壮大な旅の物語。
「―――ッ、ぅ、ああああああッ!」
あまりの情報の奔流に、早柚の小さな身体は耐えきれなかった。鋭い頭痛が脳を貫き、視界が明滅する。枝を掴んでいた指から力が抜け、身体が、ふわりと宙に浮いた。
ドサッ、という鈍い音と共に、背中を強かに打ち付ける。受け身を取る余裕もなかった。だが、痛みを感じる暇もない。
流れ込んできた「物語」が、まだ頭の中で荒れ狂っている。それは、ただの知識ではなかった。
喜び、悲しみ、怒り、そして絶望といった、登場人物たちの生々しい感情までが、何のフィルターもなしに流れ込んでくる。
「はっ、……はっ、……げほっ……!」
どれくらいの時間が経ったのか。ようやく情報の嵐が過ぎ去った時、早柚は地面にうずくまったまま、激しく咳き込んでいた。
全身は汗でぐっしょりと濡れ、手足が小刻みに震えている。
さっきまで心地よかったはずの世界が、今は全く違って見えた。
あの穏やかな木漏れ日は、これから起こる悲劇を知らない、無邪気なだけの光に見えた。
遠くで聞こえる人々の笑い声は、やがて来る絶望の前触れのように、空々しく響いた。
怖い。
心の底から、そう思った。この暖かで、眠たい、平和な日常が、あの「物語」の通りに進めば、いつか脅かされる。壊されてしまうのだ。
(嫌だ……)
拙は、英雄になんてなりたくない。世界を救いたいわけでもない。
ただ、この場所で、お昼寝がしたいだけなのに。背が伸びるまで、ぐっすりと眠っていたいだけなのに。
このままでは、稲妻での平和な昼寝すら、できなくなってしまう。
震えが止まらない。恐怖に、ただただ歯の根が合わなかった。
だが、混乱しきった思考の中で、やがて一つの考えが芽生え始めた。
恐怖と共に流れ込んできたのは、膨大な「情報」だ。それは、これから起こる出来事の、いわば「解答用紙」そのものではないだろうか?
どこで、誰が、何をするのか。拙は、それを全部知っている。
「解答用紙」があるのなら、悲劇の始まりであるモンドの事件を、拙が完璧に解決すればいい。
そうすれば、何も起こらない。誰も傷つかない。そして何より、拙の愛するこの平和な日常は、永遠に続いていく。
(そうだ……やるしかない。拙が、やるのだ)
恐怖は、いつしか歪んだ使命感へと姿を変えていた。
これは、未来の安眠を勝ち取るための、拙にしかできない、史上最大の仕事なのだ。
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その日の午後、終末番の詰所。
「……だから、ファデュイの動きを探っていたら、モンドとの繋がりを示す重要な情報が見つかったのだ。拙が現地に赴き、長期的な内偵任務に就く許可が欲しい」
早柚は、眠気を押し殺し、真剣な表情で言い切った。
「……ありえない」
上官である先輩忍者は、報告書と早柚の顔を交互に見比べた。
「お前が……あの、サボりの早柚が、自分から任務を、それもモンドへの長期出張だと? 熱でもあるのか?」
「拙は、至って真面目だぞ」
「その真面目なのが、一番ありえないんだ!」
最終的な許可を得るため、早柚は神里綾人の執務室の前に立っていた。
「失礼いたす」
声をかけ、障子を開ける。中には、文机に向かう綾人と、その傍らで控えるトーマの姿があった。
「若様。終末番の早柚、報告に参上した」
「ええ、入ってください」
綾人は筆を置き、穏やかな表情でこちらを見た。その瞳の奥が、値踏みするように細められる。
報告書を差し出すと、トーマが心配そうに話しかけてきた。
「早柚? モンドへ長期任務だって聞いたけど、本当かい? 一人でなんて、大丈夫なのか?」
「……大丈夫だ、トーマ。これは、拙にとって大事な仕事だから」
「へえ、早柚からそんな言葉が…」
トーマが驚きに目を丸くした、その時だった。
「……実に興味深いですね」
報告書から顔を上げた綾人が、そう呟いた。
「報告書の内容もさることながら、それを提出してきたのが君だということが、何より興味深いですよ、早柚」
若様の視線が、真っ直ぐに拙を射抜く。
「君が、その『大事な仕事』とやらのために、何より価値を置いているはずの『成長の時間』を犠牲にするとは…。ええ、実にめずらしいことです。今日の君は、私の知っている早柚とは、少し違うようですね」
心臓が、どくんと跳ねた。
「……平和な国でなければ、おちおち背を伸ばすこともできないからな」
精一杯の、言い訳。
それを聞いた綾人は、数秒、黙考した。そして、ふっと、その口元に微かな笑みを浮かべた。
「なるほど。それも一理あるかもしれませんね。……分かりました。許可しましょう。君のその『大事な仕事』への忠義、見事です。期待していますよ」
「……」
早柚は、言葉を発さず、ただ深々と頭を下げた。感謝の言葉よりも、この覚悟を行動で示す方が、今は重要だと感じたからだ。
数日後、離島の港。異国の船に乗り込む小さな背中を、トーマが見送っていた。
「本当に、本当に気をつけるんだぞ、早柚!」
「……分かっている」
遠ざかる桟橋に一度だけ手を振ると、早柚はすぐに船室へと向かった。
船が、ゆっくりと岸を離れる。窓から見える稲妻の景色が、少しずつ小さくなっていく。
必ず守ってみせる。拙の「知識」があれば、簡単だ。モンドの事件を速やかに解決し、英雄たちを助け、悲劇の芽をすべて摘み取る。
そうすれば、拙は、誰にも邪魔されない、永遠のお昼寝時間を手に入れられるのだ。
その時の早柚は、まだ信じて疑わなかった。
自らの行いが、愛するすべてを、取り返しのつかない地獄へと突き落とす、その第一歩であることを。
船は、悲劇の舞台となるモンドへ向けて、進んでいった。