終のむじなが見た夢に 作:夜琥
風の国、モンド。
稲妻のそれとは違う、からりと乾いた、どこか蜂蜜と麦の匂いがする風が、城壁の石畳を吹き抜けていく。
自由と牧歌の都。聞こえはいいが、早柚にとっては、少々騒がしくて落ち着かない場所だった。
昼寝をするにも、どこからか吟遊詩人の陽気な歌声が聞こえてきて、どうにも集中できない。
稲妻の、静かな木漏れ日と、時折聞こえる鹿威しの音の方が、よほど拙の性には合っていた。
(……早く、終わらせないと)
モンドに到着してから、既に数週間が経過していた。
早柚は、来るべき「物語の始まり」に備え、潜伏と情報収集を続けていた。蛍という旅人が、この世界に流れ着き、パイモンという奇妙な生き物と出会う、その時を待っているのだ。
日中は、街の人々に紛れ、情報を集めた。花屋のフローラからは、最近のモンドの気候の不順について。猫の尻尾(キャッツテール)のディオナからは、酒場エンジェルズシェアの旦那様の機嫌について。西風騎士団の兵士たちの立ち話からは、彼らの巡回ルートと、代理団長ジンの心労について。
夜になれば、黒い忍び装束に身を包み、モンドの屋根を渡った。目指すは、街で一番高い、大聖堂の尖塔。そこからなら、モンドのすべてが見渡せる。そして、拙の「知識」と、現実の風景を照らし合わせるのだ。
(あそこが、西風騎士団本部。あっちが、エンジェルズシェア。……大丈夫だ。まだ、何も始まっていない)
そう自分に言い聞かせるが、心は休まらなかった。待つというのは、どうにも性に合わない。早くこの面倒な「仕事」を片付けて、故郷に帰って、心ゆくまで眠りたい。その一心だけが、彼女を突き動かしていた。
そんなある日、彼女は見慣れぬ人影に、声をかけられた。
「やあ、お嬢さん。見ない顔だな。それに、その服装……稲妻から来たのか?」
振り向くと、そこに立っていたのは、眼帯をした、青い髪の男。西風騎士団騎兵隊長、ガイア・アルベリヒ。拙の「知識」の中でも、特に食えない人物として記憶されている男だ。
「……」
早柚は、眠たげな目をこすりながら、無言で彼を見つめた。下手に喋れば、ボロが出る。
「おっと、警戒させてしまったか。すまない。俺はガイア。西風騎士団に所属している。最近、モンドの周辺は物騒でね。君のような、小さな旅人が一人でいるのが、少し気になっただけさ」
その笑みは、人懐っこい。だが、瞳の奥は、探るように、値踏みするように、こちらを観察している。
「……拙は、早柚。ただの、旅の忍びだ。心配には及ばない」
「忍び、か。なるほど、道理で気配が掴みづらいわけだ。しかし、この時期に、わざわざ稲妻からモンドへ? 何か、特別な目的でも?」
探るような質問。早柚は、大きなあくびを一つして、答えた。
「別に。ただ、モンドの蒲公英酒が、身長を伸ばすのに効くと聞いて、それを飲みに来ただけだ」
「……はは、そうか。それは、大事な目的だな」
ガイアは、一瞬きょとんとした後、面白そうに笑った。
ひとまず、追及の手は緩んだようだ。だが、彼のような男に目をつけられたのは、厄介だった。潜伏活動を、より慎重に進めなければならない。
そして、その日は唐突に訪れた。
モンドの空を、巨大な龍の影が覆ったのだ。風魔龍トワリン。街に響き渡る人々の悲鳴を聞きながら、早柚の心は、奇妙な冷静さと、待ちわびた高揚感に包まれていた。
(来た……!)
ほぼ時を同じくして、彼女は「物語の主人公」の姿を、囁きの森の入り口で確認した。金色の髪の旅人と、その隣を飛ぶ小さな案内人。間違いない、蛍とパイモンだ。
ここが、最初の分岐点。
早柚は、騎士団の偵察騎士アンバーが彼女たちに接触する、その直前に、意図的に姿を現した。
森の奥から飛び出してきたヒルチャールの一団を、風の刃で一瞬にして蹴散らし、二人の前に降り立つ、という形で。
「うわっ! な、なんだ!?」
驚くパイモンの前に、早柚は、まるで最初からそこにいたかのように、静かに立っていた。
「……大丈夫か?」
「わわっ! 助かったぞ! あんがと、えーっと…」
「拙は早柚。稲妻から来た、ただの忍びだ。この辺りは魔物が多い。気をつけた方がいいぞ」
「おお! お前が稲妻のニンジャか! すっごいな!」
パイモンは、目をきらきらさせている。隣の蛍は、静かに、しかし、興味深そうにこちらを見ていた。
こうして、彼女は計画通り、ごく自然に、そして、アンバーよりも先に、二人との接触を果たした。本来の歴史に、ほんの少しだけ、自分という存在を、深く刻み込むために。
西風騎士団本部、代理団長の執務室。
そこには、ジン、ガイア、リサ、そして、旅人として紹介された蛍とパイモン、そして、その「保護者」のような立場で、早柚も同席していた。
「―――以上の理由から、今回の風魔龍の襲撃は、かつての四風守護、東風の龍トワリンによるものと断定できる。我々は、彼の力を鎮め、これ以上の被害を食い止めなければならない」
ジンが、厳しい表情で説明する。
「まずは、龍の力の源泉となっている、モンド各地に放棄された神殿を調査し、その力を断つ必要があるわ。面白い冒険になりそうね、可愛い旅人さん」
リサが、妖艶に微笑む。
「まあ、人手はいくらあっても足りないからな。俺も手伝うぜ、栄誉騎士殿」
ガイアが、芝居がかった仕草で、肩をすくめる。
その会話のすべてが、早柚の頭の中にある「知識」と、寸分たがわず、進行していく。
(……面倒だ)
会議室の隅で、柱の影に隠れるようにして、早柚はそう結論付けた。
今から、三つも、四つも、神殿を回るのか? 危険な罠を解除して、魔物を倒して? なんと回りくどいことか。そんなことをしている間に、モンドの街がどれだけ壊されると思っているのだ。
拙には、もっと良い方法が分かる。トワリンが苦しんでいること、彼が本当は優しい龍であること、アビスの魔術師が彼を操っていること。その真実を、直接彼に伝えれば済む話ではないか。
(拙の知識があれば、こんな戦い、すぐに終わらせることができるはずだ)
「拙は、少し周囲の偵察に出てくるぞ」
会議が終わると、早柚はそう言って皆に背を向けた。
「早柚? 一人で行くのか? 危ないぞ!」
パイモンが心配そうな声を上げる。蛍も、不安そうな顔でこちらを見ていた。
「問題ない。忍びは隠れるのが仕事だからな。それに、すぐに終わらせて、お昼寝の時間にしよう」
ひらひらと手を振り、拙は蛍たちの制止を振り切ってモンドの城門を飛び出した。心の中は、奇妙な高揚感で満たされていた。
拙のやり方なら、こんな事件、半日もかからずに解決して、誰も傷つけずに終わらせることができる。
風龍廃墟の風は、唸り声を上げていた。
忍びの技を駆使し、誰にも気づかれず廃墟の最奥、龍が巣食う塔へとたどり着く。そこに、彼はいた。
巨大な体躯を横たえ、苦しげに息をする風魔龍トワリン。その背中には、呪いの毒血が禍々しい光を放つ結晶となって突き出している。
「トワリン」
拙は、意を決して呼びかけた。
びくり、と龍の身体が震える。ゆっくりと、巨大な頭部がこちらに向けられた。
その瞳には、知っている通りの、深い悲しみと苦痛、そして人間への不信が渦巻いていた。
「お主は……誰だ……?」
「拙は早柚。あなたの敵ではないぞ。あなたの苦しみは、アビスの呪いのせいだ。風神バルバトスは、あなたを見捨ててなどいない」
知っている言葉を、並べる。これで彼の心は開かれるはずだ。原作では、ウェンティと旅人が、そうしたのだから。
だが、龍の瞳に浮かんだのは、安堵ではなかった。
燃え上がるような、猜疑の色だった。
「……なぜ、それを知っている? なぜ我の名を、バルバトスの名を、その口にする!? お主も、あの魔術師の仲間か! 我を騙し、弄ぶつもりか!」
しまった、と気づいた時には遅かった。
信頼関係の欠片もない他人の口から、心の奥底の秘密を暴かれることが、どれほどの恐怖と侮辱を相手に与えるか。その想像力が、完全に欠落していた。
「ち、違う! 拙は……」
「黙れぇぇぇっ!」
トワリンが、天を揺るがすほどの咆哮を上げた。それは悲しみではなく、純粋な怒りと拒絶の叫びだった。
そして、その混乱を、物陰で見ていたアビスの魔術師が、ほくそ笑んだ。
「ククク……面白い客人が来たものだ。好都合、その怒り、もっと燃え上がらせてやろう!」
放たれた極低温の氷塊が、拙のすぐ足元に着弾し、爆ぜる。その小さな爆発が、最後の引き金となった。
パニックに陥ったトワリンは、ただただ暴れる。もう拙の声は届かない。
彼は翼を大きく広げると、一直線に、モンド城の方向へと飛び去っていった。その翼に宿る風の力も、知っている歴史のどんな時よりも、荒々しく、禍々しかった。
「……あ……」
拙は、その場にへたり込んだまま、呆然と龍が飛び去った空を見つめることしかできなかった。
良かれと思った行動が、最悪の事態を招いた。
拙は、龍の心の傷に、癒しどころか、塩を塗り込んでしまったのだ。
急いでモンド城へと引き返した時、そこは既に地獄と化していた。
準備が整う前に本格的な強襲を受けた騎士団は、完全に後手に回っていた。城壁のあちこちが崩れ、火の手が上がっている。人々の悲鳴と、騎士たちの怒号が入り乱れていた。
「どうして……こんな……」
拙のせいだ。拙が、余計なことをしなければ。
その時、城壁の一角が、ひときわ強く輝いた。燃え盛る炎の鳥が、天へと舞い上がる。アカツキワイナリーの旦那様、ディルック・ラグヴィンド。
彼は、騎士団が態勢を立て直すまでの間、たった一人で、暴走するトワリンの猛攻を食い止めていた。
「―――はぁッ!」
彼の振るう大剣から放たれた炎の鳥が、何度も何度もトワリンの鱗に突き刺さる。
龍の巨体を押し戻し、薙ぎ払われそうになる城壁を、その身一つで守っているのだ。
しかし、相手は四風守護の一柱。その消耗は、遠目に見ても明らかだった。肩で激しく息をし、その動きは少しずつ精彩を欠き始めていた。
それでも、ディルックの奮戦によって、トワリンの動きが一瞬止まる。好機。
そう判断したのだろう、彼は最後の力を振り絞り、これまでで最大級の炎の鳥を放った。見事な一撃が龍の胸を捉え、たまらずトワリンは苦悶の声を上げて、一時的に空の彼方へと退いていった。
街から、歓声が上がる。だが、ディルックは、大剣を杖のようにして、かろうじてその場に立っているのがやっとだった。
その、一瞬の静寂を切り裂いて。
氷の女王のような冷気をまとった人影が、音もなく、疲弊しきったディルックの背後に舞い降りた。
ファデュイ執行官、「淑女」。
(違う……)
その姿を認めた瞬間、早柚の思考が、冷たい水に浸されたかのように、ゆっくりと停止した。
(淑女が、どうしてここにいるんだ…? ディルック様と…? 拙の記憶の中では、こんな場所で二人が会うなんて、ありえないはず…。淑女はもっと後で、大聖堂の前で、ウェンティの『神の心』を奪う時に…。ディルック様は、ライアーを取り戻す時に助けてくれるだけで、淑女と直接戦うなんて、そんな話はなかったのに…)
頭の中の「知っているはずの未来」と、目の前の光景が、音もなく乖離していく。歴史の歯車が、ギシリ、と嫌な音を立てて、本来ありえない方向へと捻じ曲がっていくのが、分かった。拙のせいで。
「あら。モンドの『英雄』も、随分とお疲れのようね」
淑女の嘲るような声が響く。ディルックは振り向きざまに大剣を構えようとするが、彼の身体は限界を超えていた。その動きは、悲しいほどに鈍い。
(拙のせいだ…。拙がトワリンを刺激したから、歴史が、物語が、おかしくなってしまったんだ…。止めないと…。でも、どうやって…? 拙なんかが、どうすれば…)
何もできない。今の拙が飛び出したところで、一瞬で氷の彫刻にされるのが関の山だ。指一本、動かすことができなかった。
対する淑女の動きは、冷徹で、一切の無駄がなかった。彼女が指を鳴らすと、絶対零度の冷気がディルックの全身を襲う。彼の燃え残っていた炎が、かき消されるように勢いを失う。
「―――ッぐ、ぁ……!」
ディルックの片腕が、一瞬にして禍々しい氷に閉ざされた。さらに、淑女は容赦なくその凍てついた腕に追撃を加える。ガラスが砕け散るような、嫌な音が響き渡った。
「……偽りの神の信奉者ごときが。時間の無駄だったわ」
用は済んだとばかりに、彼女は闇に消えた。
後に残されたのは、地に膝をつき、二度と動かぬ右腕を押さえて苦悶の声を漏らす、一人の男の姿だけだった。
モンドの「夜の英雄」の炎は、その夜、消えた。死んではいない。
だが、あの深手を負った腕で、二度とあのように大剣を振るうことはできないだろう。
それは、一人の剣士にとって、死よりも残酷な結末かもしれなかった。
早柚は、燃え盛る街の片隅で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
(……本来の流れでは、こんな悲劇はなかった)
(拙が、ありえないはずの悪夢を、現実に変えてしまったんだ……)
お昼寝がしたい、なんて。そんな甘えた考えが、この街の英雄から、その誇りも力も、未来も、すべてを奪ったのだ。
心臓が、氷の爪で鷲掴みにされたように痛んだ。
違う。こんなはずじゃなかった。
頭の中で、誰かがそう呟いていた。しかし、その声はもう、万能感に満ちた、自信のある声ではなかった。ただ、か細く震える、迷子の子供のような声だった。